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宮武外骨伝(吉野孝雄)

宮武外骨伝宮武外骨伝
(2012/03/03)
吉野孝雄

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2月に伊丹市美で外骨没後60年記念の「シャレにしてオツなり」を見てきたら、久しぶりに外骨が読みたくなって、図書館で復刻版の『筆禍史』を借りてみた。が、明治44年初版で大正15年に改訂増補されたものを写真製版して復刻した本は、当然のことながら旧字、旧仮名、文語体で、すらすらとは読めず。ところどころを拾い読み。

外骨自身が筆禍王のような人なので、その外骨がまとめた中古以来の筆禍史という内容にも興味はあるのだが、図書館で所蔵している外骨本のうち、この『筆禍史』だけが「ミヤタケ、トボネ」名で書誌がつくられていたのが気になったのもある。(☆)

どこかに「ミヤタケ、トボネ」の読みがあるのかと復刻版の『筆禍史』をあちこちひっくり返してみるが、それらしきところは発見できず。名前のことも知りたくて、外骨の甥にあたる(晩年の外骨と暮らした)吉野孝雄が書いた『宮武外骨伝』を借りてきて読む。

■外骨の改名の件
これまでに読んだもので、外骨が「廃姓」を宣言したことは知っていたが、喜寿を境に「ミヤタケ、トボネ」とよませるようになったことは初めて知った。外骨がうまれたときに両親がつけた名は「亀四郎」である。
▼明治十七年、十八歳の春、両親の名づけた「亀四郎」を「外骨」と改名する。「外骨」は「がいこつ(旧カナではぐわいこつ)」とよみ、中国の梁の時代の字書「玉篇」の「亀」の説文に、「亀外骨内肉者也」(亀ハ外骨内肉ノ者ナリ)とあったのによる。硬骨の自負とともに、親の名づけた「亀四郎」という名の持つ平凡な響きに規定された人生を、亀四郎は改名という行為により拒否したのである。役所に改名届けを提出して、戸籍上も「外骨」となった。やがてそれは昭和十八年四月、喜寿(七十七歳)を境に、「とぼね」とよませるようになるまでの本名となる。(『宮武外骨伝』、p.106)

昭和18年の改名について、吉野はこうも記す。
▼昭和18年になった。…(略)…日本の敗北も近いに違いない。この年の4月、喜寿(七十七歳)を迎えた外骨は、それまで音読みで読ませていた「がいこつ(ぐわいこつ)」を「とぼね」と改名する。「がいこつ」という骨の張った音はいまの自分には相応しくない。明治新聞雑誌文庫という目的があるとはいえ、そして時代の悪化があるとはいっても、世の中の流れにいわば背を向けて生きるいまの外骨である。戯作者流に「とぼね」と呼ぶのが相応しい。名実ともに備わった、かつての「がいこつ」は、明治・大正という時代の中にだけ生きている。いまの自分に「がいこつ」の真骨頂はない、と外骨は思っている。改名通知葉書を印刷すると外骨は友人知人に宛てて発送した。この知らせをうけた小林一三は、その返信のなかに「とぼけと間違ひたい」と書いて、改名のまじめさをからかっている。(p.342)

巻末の宮武外骨年譜の当該年の箇所には、こうある。
●1943年・昭和18年(77歳)
四月中旬、七十七歳の喜寿を機会に従来の「がいこつ(ぐわいこつ)」を廃し、和訓の「とぼね」と改名し、改名通知を印刷し友人知人に送付する。(p.382)

ところで、『筆禍史』は初版が明治44年(1911年)、改訂増補が大正15年(1926年)であって、外骨の名はまだ「がいこつ」のはずである。

ここで、大阪府立図書館と、自治体立では一番とも言われる蔵書をもつ大阪市立図書館の蔵書検索をしてみたところ、府立には初版(和装本)の『筆禍史』(雅俗文庫)があり、市立には初版の雅俗文庫のものと、改訂増補版の『筆禍史』(朝香屋書店 )の所蔵があり、書誌にある著者名のよみはいずれも「ミヤタケ、ガイコツ」であった。

なんでうちの近所の図書館の書誌は「ミヤタケ、トボネ」になっているのだろう??しかも、復刻版の出版年は、国会図書館の書誌やネットの古本屋で出ているものを見ても1974年のようなのだが、近所の図書館の書誌は「1977年」なのである。なんらかの根拠や調べに基づいているのであれば、その資料を知りたい。

■若い頃から保存してきた新聞雑誌
吉野の『宮武外骨伝』は、少年時代から「読み終えた新聞や雑誌を一ページずつ皺をのばして火熨斗をかけて保存」(p.95)していた姿を伝える。 そうした紙の束が下宿の部屋の隅にうずたかく積まれていたそうである。私もついつい紙の束を溜めがちだが、外骨が若い頃からずっとずっと溜め続けた新聞雑誌の量にはおそれいる。

東京帝大の法学部内に明治新聞雑誌保存文庫の設置が決まったとき、外骨は60歳。「当時すでに外骨が蒐集していた明治二十年代までの新聞は約5万枚、雑誌約2万部五百十余種類、単行本は約1500冊にのぼっていた」(p.323)という。こうの外骨が保存し続けた新聞雑誌が、「明治新聞雑誌文庫」の核になった。

▼いままで、学者は無論のこと、吉野[作造]博士や中田[薫]、穂積[重遠]両教授は例外として新聞や雑誌に史料的価値を認めたものは少い。しかし、日本の近代を研究するためには新聞や雑誌が不可欠の資料となることは間違いない。偏った学説に歪曲された論文よりも、「生ま」に時代の空気が伝わってくる新聞、雑誌にこそ真の意味の資料性がある。いまの新聞雑誌と違って、ことに明治初年の新聞雑誌にはそれぞれの立場に立った主張があった。反権力を貫いた新聞もあれば、御用新聞と庶民の反感を買った新聞もあった。なかには徳富蘇峰の「国民新聞」のように、平民主義を称えて華々しい論陣を張りながら、しだいに政府の御用新聞化していったものもある。地方紙も含めて、それらの新聞を総体として眺めた時に、自ずと日本近代の意味も明白になってくるはずだ。そして、自分が半生を賭して戦い、数限りない筆禍をうけた明治藩閥政府の実体も明らかになるだろう。筆禍を受け、傷つき倒れた幾多の同志たる操觚者の墓標としても、明治の新聞雑誌を蒐集保存しなければならない。外骨はそう心に誓っていた。(pp.318-319)

関東大震災によって「東京市内の多くの新聞社が罹災してその保存紙が焼失」(p.318)したこと、「検閲のために内務省図書局に納められていた新聞雑誌も灰燼に帰した」(p.318)ことを目の当たりにして、いまこそ明治大正の新聞雑誌を蒐集保存しておかなければ貴重な史料が失われてしまうと、外骨は必死だった。

当初、外骨は、この新聞雑誌の「保存文庫」を民間に設けて、財団法人の組織で運営したいと考えていた。そのかたちが、"反権力の野人"として生きてきた自分の生涯にふさわしいと思ったからだ。だが、博報堂をいとなむ友人の瀬木博尚は、吉野作造、中田薫、穂積重遠といった外骨の考えをよく理解する学者が東京帝大にいるのだから、「彼らの力により東京帝大の内部に設置するのが最良の策だ」(p.321)と言った。正論であった。「関東大震災のような災害にも強く、しかもあらゆる権力の力の遠くおよばない所はその権力の内部にしかない。長く保存を考えるならそれ以外に途はなかろう」と(p.321)。

たしかに、この文庫が後の戦災を免れたのは、東京帝大内にあったからといえる。

■外骨と「穢多」
『筆禍史』の末尾には「予の先祖は備中の穢多であるそうな」に始まる自跋(あとがき)がある。吉野の『外骨伝』は、もとは『宮武外骨』のタイトルで、1985年に河出書房新社から文庫になった。

このとき、注や解説をつけるなどの配慮をしたうえで刊行してほしかったと部落解放同盟の香川 県連(香川は外骨の生地である)から抗議があり、香川県連と解放同盟の中央本部、部落解放研究所と「何回かの協議を重ねた」(p.399-400)ことが、私が借りて読んだ改訂版の文庫『宮武外骨伝』(1992年刊)には記されている。

吉野によれば、外骨が「穢多」「新平民」などの言葉を用いたのは「単なることばの言い換えによって差別的現実を曖昧にすることに批判的だったため」(p.401)だろうという。

外骨の子ども時代を記した第2章「庄屋の息子」では、外骨の父・宮武吉太郎の近在の被差別部落の人たちに向けた態度が綴られている。庄屋であった吉太郎は、年に2、3度は日を決めて、年貢米の余剰を小作人のかれらに分配し、金を借りたいという者には無利息で貸し、田畑の小作を望む者には喜んで小作権を与えたという。

「川向[かわむかい]の本家さん」と親しまれた吉太郎だが、「川向本家の米には穢多米が混ぜてある」という噂がたち、米穀仲買人仲間は、米の売れなくなることを恐れて、取り引きに応じようとしなかった。そのとき吉太郎は「穢多も非人もあるものか、誰が作ろうと米は米だ。同じ五体を備えた人間の作った米を差別する奴らなどこちらから取引はおことわりだ」と激怒し、直接に問屋へ出向いて年貢米をじかに卸売りする手段で対抗した、という(p.80)。

「予は斯様な事実を幼少の頃から見聞して居たので、予も亦新平民を軽蔑することなどなく寧ろ自ら進んで彼等に同情を寄せた」云々という外骨の文章(大正2年11月「新平民の娘」、p.80)を、吉野は引いている。

これに関して、『宮武外骨著作集』の第8巻に、師岡佑行による解説「宮武外骨と『穢多』の語」があるそうなので、こんど図書館で読んでみるつもり。

外骨は生涯にいくつもの雑誌をつくり、新聞を出した。長く続いたものは少なく、筆禍のため発禁に終わったもの、創刊してすぐ廃刊となったものも多いが、新たなメディアをつくるアイデアや売る方法がとにかくおもしろい。六角形に造本してみたり、定期増刊で絵葉書集をつくってみたり、十二種類の雑誌を入れた「袋雑誌」をつくってみたり。
 
■言論の自由な時代の筆禍
言論の不自由な時代を長らく過ごした外骨は、1946年に出した「アメリカ様」で、"勝って下さったアメリカ様"がもたらした初めての「言論の自由」の幸せを綴る。万一にも日本が勝っていたら、軍閥や官僚や財閥がますます威張り、封建思想やら侵略主義で民はどんなに苦しめられたか知れないというのだ。

とはいえ、外骨は、"日本を負けさせて下さった"アメリカ様になびくこともない。アメリカ様も都合の悪いことは葬ろうとするのであって、現に外骨の「アメリカ様」のうち1ページはマッカーサー司令部より削除を命じられている。私が手に入れた文庫(これに「筆禍史」が新字で抄録されている)には、「米国進駐軍マックワーサー司令部より削除を命ぜられたる『アメリカ様』の一頁」が、参考のため保存という但し書きをつけて収録されている。

言論の自由になった時代に"アメリカ様"からも筆禍を受けたところが、外骨らしいというか、日本とアメリカの両方から弾圧を受けた人は、他にそうそういないのではあるまいか。

吉野の記すところでは、天皇制の軍閥政府の下ではまとめたくても公刊できなかった「大逆事件」について、ずっと資料収集を続けていた外骨は、日本の敗戦後、やはり1946年に龍吟社から『大逆事件顛末』※を編纂出版しているそうだ。この本は大阪府立図書館に所蔵があるようなので、ぜひ読んでみたい。

吉野の本には「操觚者」という語が頻出する。これは「文筆に従事する人、著述家・記者・編集者など」を指し、いまでいうジャーナリスト」だという。



(3/11了)

※近代デジタルライブラリー
『大逆事件顛末』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450455/2

(☆追記)
近所の図書館で、復刻版『筆禍史』の書誌、「ミヤタケ、トボネ」と「1977年」の根拠もしくは典拠について尋ねてみたところ、当時、目録を作成した職員はすでにいないので、何を参照したなどの詳細はわからないが、1977年は史料受け入れ年を記した誤りであろうということと、この資料のみ「ミヤタケ、トボネ」になっているのは、「宮武外骨」を「ミヤタケ、ガイコツ」からも「ミヤタケ、トボネ」からも引けるように統合すべきところ、それができていないということだった。
 
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第42回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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