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ひみつの王国 評伝 石井桃子(尾崎真理子)

ひみつの王国 評伝 石井桃子ひみつの王国
評伝 石井桃子

(2014/06/30)
尾崎真理子

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図書館で借りた600ページ近くある分厚い本を、後ろに予約待ちの人がいて延長できないので、数日かけてせっせと読んだ。石井桃子は1907年(明治40年)にうまれ、2008年(平成20年)に101歳で亡くなった。

石井が書いた本や訳した本を私もいろいろ読んでいるが、この本でくりかえし言及される『ノンちゃん雲に乗る』や、『クマのプーさん』、『プー横丁にたった家』は、タイトルはよく知っているものの、ちゃんと読んだことがない。プーさんは、むしろ絵の好きな友だちともども、スケッチうまいなあとシェパードの挿絵のほうに興味があったことを思い出す。

晩年に(90代の仕事!)、プーの作者・ミルンの大部の自伝を訳した石井は、そのことを「私が自伝を訳してるのは、ミルンはどういう生涯の中で、どういう動機であの本を書いたのか、やっぱり知りたかったからですよ。…(略)…あの魔法使いのミルンは、いったいどういう育ち方をした、どういう人だったのか。ちゃんと知りたいと思ったんですね。」(p.172)と語っている。

著者は、最後の章で、ミルン自伝を訳していた2002年の石井のこんな言葉も引く。
▼「どうして、イギリスには児童文学の傑作があれほどできたかってことですね。イギリス人が大英帝国を発展させるためには、ずいぶん悪いこともしてきた。むごいことやって世界中から集めたもので博物館を作って。そういうものは自分の内側に強さがないと消化できないのだろうけれど、そこから彼らは海賊の話も児童文学にしちゃったのね」
 「アリソン・アトリーの『グレイ・ラビット』にしろ、ポターの『ピーターラビット』にしろ、子どもの心に自在に入っていける本がなぜ、大英帝国の時代にできたのか。ミルンにしても、ヴィクトリア朝の教育を受けて劇作家として歴史に残る仕事をしかかっていた人が、どうして『プー』のようなものを生んでしまったのか。その秘密が、自伝の中にあるのではないかと探しているんですね。一生懸命やってるんですけど、まだ、つかめるかつかめないか、わからない状態で…」(p.502)

その大英帝国、日の沈まない国といわれた時代のイギリスが、インドを植民地支配していた頃のことをいくつか読んでいる私は、どうして大英帝国の時代に、という石井の疑問に興味をひかれた。

石井が、身体の強い人ではなかった、というところには、ほんまに?と思った。101歳まで生き、多くの仕事を遺した人だけに、よほど頑丈な人なのだろうと思いこんでいたが、強くなかったからこそ、長く生きられたのかもしれない。

12月から1月にかけて、(『そして、メディアは日本を戦争に導いた』に引用されていた前後を読みたくて)図書館に通って『朝日新聞七十年小史』(1949年刊)を読んだ私は、石井が訳した『熊のプーさん』が1940年に岩波書店から出て、「たちまち初版の五千部を売り切り、版を重ね始め」(p.241)、1942年6月には続編の『プー横丁にたった家』が岩波書店から五千部出た、という話におどろいた。すでに第二次大戦が始まっていたこの時期に、"不要不急"の、しかも敵国製のお話が出たとは!

▼が、二作が書店に並んだ期間は短かった。「最初か、次の版を刷るってところで紙の配給がなくなった。英語から訳したものは、もう出せなくなったんです。『何、言ってるんだ! 不要不急!』って言われました、その時。その日に必要でないような本なんか、出す必要ないって。紙の配給を決めるのは情報局で、岩波の担当がまず原稿を見せに行って、『今、この本は日本に必要かどうか』を基準に決められたわけなんです」と石井は語った。(p.242)

そこに時勢の変化があったと石井は語るのだが、時勢の変化はプーの二作品が出た時期にこそあったのではないかと著者は推す。

1937年、盧溝橋事件を発端として日中戦争となり、翌1938年には国家総動員法、電力国家管理法が成立、出版界では「児童読物改善ニ関スル指示要綱」が発表されている。これは「十歳以上ノモノ、将来ノ人格ノ基礎ガ作ラレル最モ大切ナル時代ナルヲ以テ、敬神、忠孝、奉仕、正直、誠実、謙譲、勇気、愛情等ノ日本精神ノ確立ニ資スルモノタルコト」などと編集上の注意事項を細かく規定し、指示しているのだという(p.243)。

こうした指示により大衆的な漫画などが"悪質文化財"として駆逐されていった一方、この頃好調となっていた児童雑誌や児童書(「少年倶楽部」「コドモノクニ」「日本の子供」や、浜田廣介の『ひろすけ童話読本』等)の市場を守るため、編集者や作家は同業団体を結成していく。

▼文部省は1939年から優良図書を推薦する事業を起こすと、これらが相乗効果を発揮して絵本や児童読物の新刊の水準は高くなり、社会の関心も次第に高まっていく。「童話」に対して、もっと近代的な響きがある「児童文学」という言葉が提唱され始めたのも、この時期だ。(pp.244-245)

こうした子どもの本への"統制"は、その初期には水準向上というかたちで恩恵をもたらした。1940年から41年にかけて集中して、子どもの本の傑作が日本に翻訳紹介されているほか、創作童話も急激に伸びたという。岩波の石井訳プーを追いかけて、新潮文庫でも1941年に松本惠子訳の『小熊のプー公』が出ているそうだ。

だが、太平洋戦争へ突き進んでいく時局の中で、こうした"「赤い鳥」よもう一度"と理想をめざしそれが実現した時期は短く、児童文学は戦意昂揚や国家主義にまきこまれていった。これが、著者のいう"時勢の変化"である。

戦争中の状況を問うた著者に、石井は「めずらしくむきになって」(p.256)こう語ったそうである。
▼「あの戦争中の日本人の意識っていうのは、今の常識というもので判断できない。一種の狂気…。普通の平和な時代なら、とてもやらなかったことを、思い切って何とかするっていうんじゃなくて、生きるためにそれをしなくちゃならなかった。そういうことだったと思うんですね」
 「あなたのような若い人たちに、戦争中のわれわれの生活っていうのを説明しても、わかってもらえないでしょう。日本人がどんな気持ちであの戦争の中で、明日をも知れない、ほんとにいつ命がなくなるかわからない時に、どうしたら生きていけるかっていうことをね、もう本当に、明日のことはわからない。で、計画なんて言ったって、きちっとしたこと考えることができないんです。行き当たりばったりで、何かできることから始めるしかなかった…」(p.256)

戦後にともに東北で農地開墾にあたった狩野ときわと、石井は戦中に出会っている。戦争の末期には秋田から狩野が引率して勤労動員にきていた何十人の少女とともに石井も工場の寮で暮らした。この若いかの女たちに「何か澄んだ、きれいなものを味わわせてやりたい」と石井は思い、知人の音楽家にコーラス指導を頼んでいる。

そうして仕上げたさいごの歌、一生けんめい歌ったのが『菩提樹』という歌だった。当時のことを石井がエッセーに書いているそうで、そこが引用されている。

▼この歌をしあげた時、先生のKさんが、「みんなで将来、どこへどう散らばるかわからないけれど、この歌をうたう時は、きっと今晩のことを思いだし、みんなのことを考えようね」と、子どもたちにいい、私も、ほんとにそうしようと思ったことを思いだす。このようなことは、みなうす暗い電灯の下の情景として思いだされる。若い女生徒たちの歌声だけが、きれいだった。(p.283)

これは、石井自身がよく語っていたという「大人になってからのあなたを支えるのは、子ども時代のあなたです。」(p.5)に通じるものだと思うし、宮本常一が小学校教員をしていた時分に子どもたちに語りかけた内容「小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておくことだ。それが生きる力になる。学校を出てどこかへ勤めるようになると、もうこんなに歩いたりあそんだりできなくなる。いそがしく働いて一いき入れるとき、ふっと、青い空や夕日のあたった山が心にうかんでくると、それが元気を出させるもとになる」(『民俗学の旅』、pp.75-76) を彷彿とさせるものがある。

石井はなぜ児童文学の翻訳にとりくんだのか、そしてなぜ書いてきたのか。"この人がいなかったら、日本の「子どもの本」はどうなっていただろう"と思う著者は、石井の歩みを跡づけながら、その問いにも取り組む。たとえば石井のエッセーのこんな箇所。

▼私がいままで物を書いてきた動機は、じつにおどろくほどかんたん、素朴である。私は、何度も何度も心の中にくり返され、消えなくなつたものを書いた。おもしろくて何度も何度も読んで、人にも聞かせて、いつしょに読んだものをほん訳した。
 それが、偶然、たいてい子どもに関係ある本だつたのは、私が「女、子供」のうちの女であつたことにも一つの理由があるかもしれない。私は、子どもというものを、一度もばかにして考えたことはないし、子どものために愛情のこもつた仕事をしている人を見ると、ありがたくなる。外国の文学者などが、年とつてから、子どものための本を書きだすのを聞いたりすると、うらやましいことだなあと思う(p.365、「児童文学雑感」『読書春秋』1952年2月)

そして、著者はこう書いている。

▼…石井桃子が書くことで追求し続けたのは、「私とは、本当は何者なのだろうか」「なぜこのような仕事を続けることになったのだろうか」、そして「私はなぜ、多くの困難を経てなお、人並み外れて長く生かされてきたのだろうか」…そんな、不可解な自分への疑問、好奇心を、人生の大詰めの時期が深まりゆくにつれ、いよいよ抑えることができなくなったからではないのか。晩年に残した大作はどれも記憶と意識の深層という、自分の中の深い井戸をのぞき込もうとした仕事とみることもできよう。(p.496)

長い長い石井の生涯にはいろんなことがあって、いろんな話があるが、その中で印象にのこったひとつは、関東大震災にまつわること。石井桃子は浦和でうまれ、その石井の父が、関東大震災のときに、近所で飴売りをしていた朝鮮人のおじいさんのことを案じていた…という話(p.46)。昨秋に読んだ『九月、東京の路上で』に出てくる埼玉の話で、飴売りの若者にふれたものがあったのを思い出す。それは名前の分かってる朝鮮人の死で、石井の父がおじいさんを案じたように、毎日のように顔をあわせていた若者のことを近所の人たちが悼んだという話だった。

この本のカバー装画に使われているのは、ヘンリー・ダーガー「カルマンリナにて。肉迫戦の間、敵対する両陣営の兵士たちにあやうくのみこまれるところだったが、戦場の高い木に登って難を逃れる」(61×91cm)の部分。装幀に使ったヘンリー・ダーガーのことは、7章で少しふれられている。石井桃子は「おそらくダーガーの仕事を知る機会はなかったろうが、もし知ったら、滅びない王国の創造主として、大いに関心を示したのではないかと想像する」(p.500)と著者は記す。

(2/22了)

*石井桃子ならびに周辺の人の本で、読んでみたいと思ったもの。

○佐藤碧子(=佐藤みどり)『瀧の音』東京白川書院、1980
 小林多喜二が拷問により死亡したことを詳述している部分が、p.113に引用されている。多喜二の死、関東大震災時の民間人による竹槍殺人、大杉栄を扼殺した憲兵にふれ、「国家権力をかさに着た貧しい男達の虐性がひそんでいるようで」と。

○石井桃子『児童文学の旅』岩波書店、1981
 p.384で、この本ができた経緯が書かれ、本のまえがきの一部が引いてある。「あるひとりの女の感情的な旅行記として読んでいただきたい」というものらしい。

○瀬田貞二『幼い子の文学』中公新書、1980
 これは瀬田が、東京都立日比谷図書館で児童図書館員のためにおこなった講演をまとめたもので、「詩としての童謡」の項では、イギリスでは子どもが読んで理解できるすぐれた詩が、19世紀、ウィリアム・ブレイクから始まったことを丁寧に語っているとか。pp.397-398に言及あり。

○日高六郎「三つの四十年目」『世界』1985年9月号
 先頃亡くなったドイツのヴァイツゼッカー大統領が終戦40周年におこなった演説の詳細な引用があるそうだ。p.527には「おそらく最大の重荷は、すべての国々の女性たちによって荷われた。」から始まるその部分が10行ほど引いてある。
 石井桃子と半世紀にわたる親友であった水澤耶奈。老い、病によって記憶もうしないつつある母の耶奈に、その息子の水澤周が、母が好きだった日高の論文を読んで聞かせた、という部分。

※「若干」と「弱冠」が合体したような誤字
p.96 若冠二十三歳の記事としては
 →【弱】冠
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第44回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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