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昭和史残日録 1926‐45(半藤一利)

昭和史残日録 1926‐45昭和史残日録 1926‐45
(2007/07)
半藤一利

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半藤一利と保阪正康の対談集『そして、メディアは日本を戦争に導いた』で、半藤が、朝日新聞が自社の七〇年史で満州事変以後「新聞社はすべて沈黙を余儀なくされた」などと書いているが、そうではなくて、新聞は部数拡大のため自ら戦争を煽ったのだと書いていた。その引用箇所の前後を読んでみたくて、図書館で古い古い本を取り寄せてもらった。

その『朝日新聞七十年小史』を、時間をつくって図書館へ通い、メモをとりながら読んでいる(1949年刊の非売品のせいか、相互貸借で届いた本が禁帯出扱いで、館内閲覧になっている)。

『朝日新聞七十年小史』を読む参考に、半藤が指摘していた満州事変の前後という時期のことを知りたくて、1事項が1ページでまとめられたこの本をざっと読んでみた。
この本のもとは2000年に出た『21世紀への伝言 名言にみる「日本と世界」の100年』という大部の本で、そもそもは1997~99年まで地方新聞8紙に、去りゆく20世紀の100年について連載したものだ。そのなかから、昭和開幕から太平洋戦争敗北までの分をとりだし、『昭和史探索』全6巻の番外編としてまとめたものがこの文庫。

「歴史を学習してこなかった若い人にとっては、本書は絶好の昭和史入門書となることであろう、との自負がないわけでもない」(p.357)と著者はあとがきに記す。

以下、読んだ中から私がメモしたところ。

昭和4(1929)年3月5日
▼最高刑十年であったものを死刑にまでひき上げた治安維持法の改正案が、衆議院を通過した日、すなわち昭和四年三月五日の夜、京都宇治出身の代議士、山宣こと山本宣治が、止宿先の神田神保町の旅館で刺殺された。
 犯人は元巡査で「七生義団」の東京支部長となのる黒田保久二という男。山本がただひとりこの改正案に反対しているゆえに、それが暗殺の理由である。昭和初期に続出する右翼による最初のテロであった。(p.46)

山宣というと、『山本宣治 白色テロは生きている』を思いだす。この本が実家の本棚にあって、タイトルからも山宣がテロで殺されたことは知っていたが、その理由が治安維持法の改正案に反対していたことによる、というのは初めて知った。

昭和5(1930)年10月29日
▼芥川龍之介は大将十(一九二一)年三月から八月まで新聞社から特派され中国を旅行した。それを綴った『支那游記』という紀行がある。…(略)…タイトルはもちろん、中身でも芥川は「支那」で押し通している。当然のことである。当時の日本人はだれもが、シナ、シナ人と呼び、シナそばといっていた。
 しかし、昭和に入って反省が生まれた。この歳の十月二十九日、ときの浜口雄幸内閣は閣議で、この日、「シナとは正式な国名ではなく、外交的にもはなはだ差し支える」、ゆえに「以後は正式に中華民国と呼ぶこと」を決定したのである。
 …(略)…ちなみに日本人がシナと呼びだしたのは明治二十八年(一八九五)年の日清戦争に勝ったあとのことという。(p.61)

昭和6(1931)年9月18日
▼昭和六年九月十八日夜、満州事変がぼっ発した。…(略)…
 日本軍の謀略によるもの、という事実がいまは明らかになっている。…(略)…しかし当時は、中国軍によって爆破され、日本の鉄道守備隊も攻撃をうけ、やむなく開戦となった、という政府の発表を国民は信じた。新聞もラジオも、自衛のため立ち上がった、としきりに太鼓をたたいた。
 「本来賑やかなもの好きの民衆は…満州問題の成行きに熱狂した。すわこそ帝国主義的侵略戦争というような紋切型の非難や、インテリの冷静傍観などは、その民衆の熱狂の声に消されてその圧力を失った」
 とは評論家杉山平助の報告である。(p.74)

昭和7(1932)年10月14日
▼満州(中国東北地方)開拓移民の源流は、日露戦争後にはじまるが、国家的規模でどんどん送り込まれたのは、昭和六年の満州事変の後からである。のちには、疲弊する農村の救済と、満州支配という隠された国策によって、"百万人移住計画"のもとに強力に推進された。
 その計画にもとずく第一陣の「満州自衛移民」が、海を渡って、満州国北部のチャムスに着いたのは、昭和七年十月十四日。「移住後、後ろ髪を引かれるような者は、思うように活躍が出来ぬことゆえ、当初は係累のない者を送る」ということで選ばれた約五百名である。(p.89)

昭和11(1936)年5月18日
 ナチス・ドイツとの関係の緊密強化は承認できないとがんばった米内光政内閣に対し、陸軍は陸相の辞任、後任の陸相を推薦できないとして、米内内閣を倒した。
▼もしこの軍部大臣現役制の制度がなければ、予備役または退役の軍人を強引に陸相にすえることで、総辞職は回避できたであろう。しあkし、現実にはこの制度が大きく立ちはだかった。これ以後も、軍部は好まない内閣にたいして、陸相を出さないことで意のままに内閣を揺さぶり、倒壊させることができた。
 昔あったこの制度が一度消えたのに、昭和になって復活する。すなわち昭和十一年五月十八日、広田弘毅内閣のときである。このことだけでも、広田にはシビアな辛い点をつけざるを得ない。(p.138)

昭和11(1936)年7月12日
▼昭和十一年七月十二日、二・二六事件の青年将校たち十五名の銃殺が、代々木の刑場で三回にわけて行われた。
 …(略)…とにかく陸軍の処断はすばやく、かつ思いきったものである。事件の真実を永久に隠蔽するかのように。処刑は裁判前に確定していたのである。
 斎藤茂吉は歌った。
 「号外は死刑報ぜり しかれども 行くもろつびと ただにひそけし」
 だれもがものも言わない時代となっていた。(p.143)

2・26事件の陸軍軍法会議(非公開)が判決を下したのは7月5日、17名が死刑、5名が無期禁固、2名が10年と4年の禁固という内容で、15人が7月12日に処刑、磯部浅一、村中孝次は北一輝、西田税[みつぎ]らとともに8月19日に処刑された。

昭和11(1936)年8月7日
▼戦前の昭和史がどこから正常ならぬ方向へ動き出したのか、いろいろな見方があるが、その曲がり角の一つに昭和十一年八月七日の広田弘毅内閣が決定した「国策ノ基準」がある、と私は思っている。
 …(略)…「外交国防あいまって東亜大陸における地歩を確保するとともに、南方海洋に進出する」
 こうして、国家の大方針を「南北併進」にすること、つまり南進がはじめて決定された。同時に、同日、「外交方針」をも変更した。ソ連を仮想敵国の第一とし、米英とは何とか親善を保持する。その上で「速やかに北シナをして防共・親日の特殊地帯たらしめる」と。(p.145)

昭和13(1938)年10月5日
▼戦前の日本において、いわゆる「言論の自由が死んだ」のは、国家総動員法が公布施行された昭和十三年のこととわたくしは考えている。
 前年十二月には左翼といわれる人びとの大量検挙があった(人民戦線事件)。この年の二月には東大の大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、法大の美濃部亮吉、阿部勇たち大学教授・評論家三十二名がいっぺんに検挙された(教授グループ事件)。同時に内務省からは「検挙されたものの原稿は内容の如何を問わず、掲載を禁ずる」という通牒が雑誌社に送り届けられる。
 そして十月五日、東大教授河合栄治郎の著書が「安寧秩序をみだすもの」として発売禁止処分にされた。河合は自由主義者としてずっとマルクス主義を批判しつづけてきた人。もはや自由主義さえ許されない時代となったのである。(p.178)

昭和15(1940)年2月10日
▼早稲田大学教授の津田左右吉を東大法学部の講師に迎えいれたのは南原繁教授の強い要請によるものである。しかし、津田が東大の教壇に立つより前に、蓑田胸喜を中心とする右翼「原理日本社」が津田攻撃をはじめた。
 津田の学問は、日本古代史から「神話」のベールをはぎとった科学的な、堂々たるものなのであるが、それを「大逆思想」として、東大で講義することはまかりならぬと、一方的な攻撃にさらされたのである。
 …(略)… その結果、東大に迎えられて講師となってから四カ月もたたない昭和十五年二月十日、津田の著書『古事記及日本書紀の研究』などは発禁、三月には出版法違反で起訴された。西田幾多郎と幸田露伴とが、学問上の問題を刑事事件とするのは不当だと抗議したが、当局は耳を貸そうともしなかった。(p.202)

蓑田胸喜は矢内原を攻撃した人物でもある(『言論抑圧』)。

昭和19(1944)年2月23日
▼…(略)…東条英機首相は叫んだ。
 「戦局は決して楽観は許されないが、これを乗りきってこそ、必勝の道はひらかれる。国民は一大勇猛心を奮い起こすときである」
 昭和十九年二月二十三日に、毎日新聞はこの首相の激励にこたえて驚くべき記事をのせた。
 「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」「今こそわれらは戦勢の実相を直視しなければならない。戦争は果して勝っているのか…」
 東条首相はこれをよんで激怒した。…(略)…報復はすさまじい。毎日新聞は発禁、編集幹部は辞職、そして記事を書いた新名丈夫記者には召集令状が発せられた。(p.302)

(12/19了)
 
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第40回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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