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われにやさしき人多かりき わたしの文学人生(田辺聖子)

われにやさしき人多かりき わたしの文学人生われにやさしき人多かりき
わたしの文学人生

(2014/03/20)
田辺聖子

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この文庫は知らんなーと思い、借りてきて読む。カバーイラストは小倉遊亀の「径」で、なんで小倉遊亀なんやろと思っていたら、これはそもそも、集英社から出た『田辺聖子全集』に自著解説として書いたものをまとめた本で、そういえば全集の装画は小倉遊亀だった。

そんなわけで、この本は、この作品はこうでああで、こんな思いで書いたんよ、というのが縷々収められている。ちょうど奈良で大古事記展を見てきたあとだったので、「少女時代から『古事記』や『日本書紀』に眷恋[けんれん]していたのだ。ことに『古事記』は、岩波文庫の古本を何冊も買い継ぐほど愛着した」(p.250)というあたりを興味深く読んだ。

古本を買っていたのは、若く貧しかった田辺が新刊本には手が出なかったせいもあるが、「戦後の出版ラッシュの中で、古典だけはいつまでも出版されなかった」(p.251)からでもあった。おそらくその理由のひとつは、戦時中に『古事記』が神がかりのように担ぎ出されてしまったからなのだろう。
田辺はその事情をこう書いている。
▼『古事記』は神国日本のシンボルのように喧伝され、神がかりのように担ぎ出された。
 「撃ちてし止まむ」
 という歌詞の一節は、いわば、出陣に際し、
 〈えいえい、おう!〉
 と気勢をあげる男たちの鬨の声の如く解釈された。戦時中は、その一節がひとりあるきして徹底抗戦の合言葉となった。
 その言葉のルーツは『古事記』というので、戦後の民主主義の世の中では、『古事記』はまるで軍国主義の象徴のように忌まれた。昔から日本民族に、あんなに愛された英雄や武人たち、ヤマトタケルノミコト、スサノオ、オオクニヌシ、…愛すべき神々たちも、もろともに忘却の闇の彼方に押しやられてしまったのだ。
 『古事記』はまるで、すさぶる「荒御魂」の如く疎まれ、しかも戦後はどっと海外から入った新文化や新思潮が、日本の国を洗い、いろんなものを押し流してしまった。(p.251)

「撃ちてし止まむ」と「神風」は、神武の東征のうたから採られていて、"平らげられた"側からすればこれは侵略者のうたでもあるのだし、これがスローガンとして掲げられた戦の後に『古事記』や『日本書紀』が疎まれたのは、そりゃそうだろうとは思う。

とまれ、田辺は『古事記』を研究しようと志したのではなく、「いつかは、この、神と人とまだ分ちがたいような古代[ふるよ]の、幽玄で妖美で快刀乱神の世界を小説にとどめたい、と思ったりしていた」(p.253)のであって、『古事記』の冒頭、創世のくだりについての田辺の感慨には、その思いがよくあらわれている。

▼神々は生れ、隠れる。文章の口吻の蒼古たるひびきは、若い私を陶酔させるのに充分であった。神々は愛し、婚[まぐわ]い、憎しみ、殺しあう。そして葦の芽のように萌え出た神々は、次第に人間の様相を帯びてくる。裏切り、たばかり、逃げ、追い、いつわり、あざむきあう。何という壮大な神々の叙事詩であろう。(p.254)

のちに田辺が書いた小説『隼別王子の叛乱』は、「この作を以て『古事記』の魅力を語りつくしたわけではない」(p.253)というが、田辺本のうちの未読モノではあるので、こんど読んでみようかと思った。

田辺が興味をもった「中年男」の話は、これは父の世代やなと思いながら読んだ。
▼四十代男、その魅力が小説や映画で喧伝されたのは、昭和四十年代からである。戦争が終った時点で、十代の、あるいはまだ十歳にも達しなかった少年たちが、戦後二、三十年で、社会の中堅となりつつあった。〈戦争を知らない子供たち〉ではなく、〈うすうす知ってる〉少年たちだった。新時代に巧みに乗り出し、それでもどこか、何かしら痛みをかくし持っているような年代の男たち、彼らは、〈戦争を知らない子供たち〉より、ずっと陰影に富んでいた。疎開児童だった世代、それよりは年を加えているが、〈空襲警報発令!〉の怒号やサイレン、爆撃の轟音を聞き、雨あられと降る焼夷弾を受けて、夜空に火を噴きあげる民家・小学校・町内の神社を…見た世代の子。
 痛みをかくし持ちつつ、彼らは世の中へ泳ぎ出し、抜き手を切って人生というコースを乗り切る。経験を教えるべき先輩は少ない。あるいは戦死し、あるいは新時代に混乱するばかりの親たち。生き残った先輩らは寡黙だった。その中で、素手で、自力で生きぬいてきた青年たちがやっと中年になった。…(pp.126-127)

そして、『姥ざかり』のヒロイン、歌子さんのセリフに見る自尊。
「七十六までツツ一杯に生きて、自分より偉い人間があると思えるかッ! 年をとれば、自分で自分を敬わなければいけない」(「爺捨の月」)

『姥ざかり』のシリーズは、オモロかったなアという印象が残っている。田辺による歌子さんの話を読んでると、シリーズをまた読みなおしたくなった。

生きることは先に逝った人たちへの供養だというところは、みょうに心にのこった。
▼夫も、もうサンも逝ってしまったが、私たちは元気に生き残っている。人間が生きていること、これこそ、先に亡くなった人への供養でなくてなんであろう。叛逆を抱き、鬱懐を抱くのも、供養の一つであるかもしれない。(p.79)

ここに引いたなかでいえば「眷恋」や「鬱懐」のような、ワープロの漢字変換ではすぐに出ないような言葉にずいぶん触れた。それらの言葉遣いの適当なことにうなるとともに、いずれは田辺聖子の書いたものも辞書を引き引き読むようになるのかなーと思った。

(11/15了)
 
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第42回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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