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言論抑圧─矢内原事件の構図(将基面貴巳)

言論抑圧─矢内原事件の構図言論抑圧─矢内原事件の構図
(2014/09/24)
将基面貴巳

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本が出た頃に、本屋の店頭で気になって、(図書館に入るのを待てず)買ってきて読む。父が読むというので、貸す前にメモ。

1937年の「矢内原事件」が、なぜどのようにして発生したのか、その事件はいかなる出来事として当時の日本社会において理解されたのかを、マイクロヒストリーの手法で明らかにしようとした本。

マイクロヒストリーは、「一見、取るに足りない出来事の詳細に光を当てる歴史学の分野」(p.10)だそうである。
▼本書が、矢内原事件を仔細に解剖することで摘出しようとしている思想的問題はふたつある。その第一は愛国心の問題であり、第二は学問の自由と大学の自治という論点である。…(略)…
 これに加えて第三の問題として取り上げたいのは、あるひとつの過去の事件を、相対的に大きな歴史的流れの中に位置づけて捉える場合と、その事件がその当事者にとってどのように理解されていたかを歴史的に再構成する場合との間に生じる認識のズレである。(p.13)

著者も指摘するように、矢内原事件は一般に「戦前・戦中の当局による言論抑圧(ことに帝大粛清運動)の一環として、近代日本史の暗黒面を象徴するものとされている」(p.4)

だが、著者が当時の言論を詳しく調べて論じるところによれば、矢内原事件は「必ずしも学問の自由や大学の自治に対する侵害という意味での言論抑圧事件としては認識されていなかった」(pp.210-211)。そのように認識していた当事者は、東京帝大総長であった長与又郎くらいであったという。
矢内原事件に至る数年は、こんなことがあった。1931年は昭和6年で、1937年は昭和12年である。

1931年9月 満州事変勃発
1932年5月 5.15事件(犬養毅首相暗殺)
1932年9月 日本は満州国を承認
1933年2月 国際連盟が満州国不承認を決議
1933年3月 日本は国際連盟を脱退
1936年1月 日本はロンドン軍縮会議を脱退
1936年2月 2.26事件(蔵相高橋是清ら暗殺)
1936年11月 日独伊防共協定
1937年6月に近衛文麿内閣発足
1937年7月 日中戦争勃発(盧溝橋事件)

▼この六年間、矢内原の時論は、戦争と平和、満州問題を中心に展開している。すなわち、彼の言論活動は、日本の満州政策、国際的孤立化と対中関係の悪化という一連の諸問題に対応するものであった。しかし、それは政策論のレベルにとどまるものではなく、当時の日本の精神状況に対する、より根源的な批判であった。「支那問題」を論じては、日本軍国主義を批判し、「日本精神」を論じては、天皇が神ではないことを弁証したのである。(p.30)

そして、著者が第一の思想的問題としてあげる「愛国心」について。矢内原の愛国論は、「国家の根本原理としての正義」というものだった。

▼矢内原にとって、国家を国家たらしめる根本原理としての理想は正義にほかならなかった。ただし、正義とは「国家の製造したる原理ではなく」、「反対に、正義が国家を存在せしむる根本原理である」。国家が正義の内容を決定するのではなく、正義が国家を指導すべきなのである。…(略)…
 国家の理想としての正義は国内的にも国外的にも発言されなければならないが、そうした国内外共通の正義とは平和であると矢内原は主張する。国家間の平和であり、国家内では貧者や弱者を保護する社会の成立・運営を意味する。(pp.42-43)

この理想を基軸とした矢内原の「愛国」は、雑誌などで矢内原を攻撃した右翼の蓑田胸喜などが信ずる「愛国」とは違っていた。蓑田にとっては「あるがままの日本」を認め、賛美することこそが愛国だったが、矢内原にとっては、「あるべき理想」に国を近づけること、国が道を誤るときには批判することもまた愛国なのだった。

矢内原が雑誌論文として発表したり講演で発言したりしたことが、当局の処分対象となり、あるいは蓑田などの攻撃にさらされる。事件の直接のきっかけとなったのは、矢内原が『中央公論』の1937年9月号に寄稿した「国家の理想」論文である(そういう因縁で、この本は中公から出ているのだろう)。

1937年6月に第一次近衛文麿内閣が発足、それから1ヶ月で盧溝橋事件が起こり、いったんは停戦協定が結ばれたものの、「暴支膺懲」の声明を出して全面戦争となった。9月には閣内に、言論統制を目的とした「内閣情報部」を新設(その前身は1936年7月設置の「情報委員会」 →1940年12月に「内閣情報局」に改組される)。

9月号の巻頭に掲載されるはずだった矢内原の論文が削除(不掲載)処分になったのは、そんな頃である。

1940年12月には、「日本出版文化協会」ができる。これは表向きは出版業者の自主団体だったが、実質は内閣情報局の下部機関で、この著者のものは載せるなと出版活動の方針に干渉するのみならず、用紙配分を制限することで言論を抑圧したという。肝心の紙がなければ、印刷物は出せないのである。

この事態を、馬場恒吾の言葉を引いて、著者はこう示す。
▼「私は大東亜戦争の始まる年までは、一週間に一度は新聞に、毎月幾つかの雑誌に政治評論的のものを書いていた。それがだんだん書けなくなって、戦時中は完全に沈黙せざるを得なかった。どうしてそうなったかというと、新聞や雑誌が私の原稿を載せなくなったからである。しかしいかなる官憲も、軍人も、私自身に向かってこの原稿が悪いとか、こういうことを書くなと命じ、または話してくれたこともない。すべてが雑誌記者もしくは新聞記者を通しての間接射撃であった」(p.226)

当局や世間ににらまれた執筆者は書いたものを雑誌に載せてもらえなくなり、雑誌のほうは紙の配分を絞られて出せなくなる。そこのところを、著者はこう表現する。「言論抑圧が激化すればするほど、それに対する告発は公の場から姿を消していった」(p.214、本文はすべて傍点)と。

だから、著者はこうも書くのだ。
▼むしろ重要なのは、【どのような言論人が表舞台から消えていったか、どのような見解をメディアで目にすることがなくなったか】について、把握することではないだろうか。(p.216、【】は本文では傍点)

消えていったもの、目にしなくなったものに気づくのは、ものすごく難しい。建物が壊されて更地になった場所で、それ以前の人の営みを想像するのが難しいように。それでも、なんとか「消されようとしているものごと」には注意を払っていたいと思う。

(10/15了)

p.87
蓑田論文について述べている箇所のスゴイ誤字とルビ間違い
蓋[がい]して → 盡[つく]して

蓑田胸喜の著作『真理と戦争』について引いている箇所に「対象の根本的理解から出発する内在的批判の方法を蓋[がい]して究極原理を闡明し…」とあり、このルビまで振ってある「蓋[がい]して」がどうしても解せないため、何か手がかりがないかとネットで探す

→google booksで『真理と戦争』のページ画像発見
http://books.google.co.jp/books?id=oB2X5j3WNTAC&printsec=frontcover&dq=inauthor:%22%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C%22&hl=ja&sa=X&ei=dgAwVLLYJpeD8gXR0oCICg&ved=0CDwQ6AEwBA#v=onepage&q&f=false

p.87の引用箇所は、序の2ページ目なかほど、この字はどう見ても「盡[つく]して」(いまの字で書くなら「尽くして」)だ。

→ということを、中公新書編集部にメールしてみたところ、やはりミスであるらしい。「再版の機会があれば、必ず修正を反映する」とお返事をいただく。
 
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Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第44回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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