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日本国憲法の誕生(古関彰一)

日本国憲法の誕生日本国憲法の誕生
(2009/04/16)
古関彰一

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加納実紀代の『ヒロシマとフクシマのあいだ』→マーク・ゲインの『ニッポン日記』と読んだアタマで、辛淑玉さんの『悪あがきのすすめ』のなかに憲法学者の古関彰一さんがなんとかいうのを、見つけ、その古関さんの『日本国憲法の誕生』を借りてきた。

昭和が終わる頃に書き上げられ、平成の初め、1989年の5月にこの本の旧版『新憲法の誕生』は出ている。

占領下日本で、いまの憲法はどうやってできてきたのか、平成になって新たに公開された昭和の資料も多く、新版のこの本にはへえぇと思うことがいろいろとあって、最近読んだなかでは一番か二番くらいにおもしろかった。マーク・ゲインの本に出てきた登場人物もあらためてよく分かった。
▼日本国憲法は、GHQ案を十分な論議もなく受け入れた条項、明治憲法型になんとか近づけようと官僚を中心に「日本化」した条項、具体的権利関係が生じないように宣言的もしくは曖昧な表現を用いた条項、戦前の体験にもとづいて新たな人権規定を盛り込んだ条項などを含んだモザイク模様であったはずである。しかもその行間には、削り取られ、消えていった条文もあった。ところが改憲と護憲の谷間を歩んだ憲法からは、このモザイク模様はすっかり消えてしまった。護憲は憲法を総体として護ることに他ならなかった。これはまさに「戦後民主主義」そのものであった。戦後は占領されたことによって、何を与えられ、何を自ら生み出し、あるいは失ってきたのか、その峻別作業を抜きにして語ることはできない。

 日本国憲法を生み出した力、それは決して国家対国家の、勝者対敗者の政治力学からだけではなかった。制定過程への関与の、その大小はあったにせよ、本質的にはその個々人の憲法観、人権思想に他ならなかった。日本国憲法には国家を超え、民族を超えた人々の、憲法観、人権思想が反映されている。それはまさに「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(日本国憲法第97条)であったといえよう。(pp.380-381)

こうしたモザイク模様がつくられていった様子を、新たに公開された資料もあたりながら、著者は書いていく。とくに私がおもしろいと思ったのは「予算単年度方式」のことと、高野岩三郎のこと。

憲法研究会案の第二案に対して、大内兵衛から財政、会計の項についての意見が寄せられ、その提案をほぼとりいれて第三案(最終案)が作成されたというところ。
▼「会計及財政」は大内の提案により予算単年度方式と会計検査院の設置が盛り込まれた。予算単年度方式は長い間、多年度にまたがる戦費で苦しんできた経験を反映していた。(p.51)

予算単年度方式は、年度の端境期に空白ができやすく、それから配分された予算を年度末には「使い切らないとイカン!」みたいになる例(余ったものは返せばいいだろうに、それをやると「来年度の予算を減らされる」という謎の理屈があるらしい)を役所方面で少なからず見たことがあって、私はあまりよろしくないモノのように思っていた。

そういう使い方になってしまっているのはよろしいとは言えないのだろうけれど、単年度主義の成立の裏に、そんなことがあったとは!!という感じ。

高野岩三郎の名は、むかしむかし社会調査についてベンキョウした頃に知っていた。有名なのは都市社会調査の先駆といわれる月島調査だ。その高野は「日本共和国憲法私案要綱」を1945年の11~12月にかけて書き、年が明けてから雑誌『新生』2月号(※)誌上で「改正憲法私案要綱」として公表している。

憲法研究会の一員として研究会の草案要綱に署名もした高野は、私案の公表に際して「何故に私案を発表することになったのか」というかなり長い理由」を付しているという。そのなかでは、高野一家の経歴や、高野自身の思想体験が語られているそうで、ことに、兄が労働組合運動に身を投じたことが「自然発生的」であるのと同様、「私の民主主義感は自然発生的である」(p.57)と述べている箇所や、明治4年(つまりは、1871年)うまれの高野が「私の青少年時代には我国には仏蘭西流の自由民権論旺盛を極め、国会開設要望の声は天下を風靡した」(p.57)と書いている箇所を著者は引く。

▼つまり、いまだ天皇制が確立していない時代に育った高野からみれば、民主主義は当然のことであり、明治末期から敗戦にいたる天皇制こそ異常なものであったのである。だからこそいつまでも【天皇制に囚われている民衆】が不思議でならなかったのである。(p.57、【】は本文では傍点)

憲法研究会案は国民合意を得るには現実的かもしれないが、高野は「戦後」を自由民権運動の延長線上に構想していて、その点で「せいぜい大正デモクラシー時代しか知らず、自由民権運動を知らない」(p.58)森戸辰男や大内兵衛、鈴木とは違っていた、と著者は書いている。

明治憲法の公布が1889年(明治22年)、施行は1890年(明治23年)で、そこまでは憲法はなく、天皇の規定もなく、その時代に育った人にとって、憲法も天皇制も「まったくないもの」だったことに気づかされた。

「押しつけ憲法論」が語りつがれてきたことを糺さねばと著者が書いているところも、その押しつけ論でもって改憲だとか自主憲法制定といきまいているじじいが少なからずいるだけに興味をもった。憲法改正の機会はあったのに、その機会を自ら逃した吉田茂の答弁が引かれている。

憲法施行の1年後2年以内の期間に、新憲法が「日本国民の自由な意思の表明であるかどうかを決定するため」、国民世論を確かめる国民投票ないしその他の適当な措置を講ずるようにというFEC(極東委員会、Far Eastern Commission)の決定はあったが、芦田均内閣は昭和電工事件(贈収賄汚職事件)が発覚して8ヵ月で倒れた。代わって登場したのは再び吉田茂で、1948年の10月。だが、吉田が憲法改正問題には全くふれず、FEC決定の「施行後2年以内」が間近に迫った1949年4月末の衆議院外務委員会での答弁で、このように述べているという。

▼「極東委員会の決議は直接には私は存じません。承知しておりませんが、政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。それから芦田内閣において憲法改正の議があったとすれば、これも私は伺っておりません」。(p.373、これは第五国会衆議院外務委員会議事録、第七号(1949年4月20日))

著者はこの経緯を述べたうえで、こう書いている。
▼それにしても「押しつけ憲法」論が、なぜこれほどまでに戦後半世紀以上にもわたって生き延びてしまったのであろうか。憲法改正の機会はあったのである。与えられていたのである。その機会を自ら逃しておきながら、「押しつけ憲法」論が語りつがれ、主張されつづけてきたのである。とにかく最近の憲法「改正」史や現代史の研究書をみても、この点に全く触れていないのであるから無理からぬ事情があったにせよ、これは糺しておかなければならない。(p.75)

「日本国民」と「外国人」の差別につながる条文の問題も書かれている。憲法第10条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」と定めた際の法律とは、数年後に制定された「国籍法」(昭和25年)で、この法によって「日本国民」とは「日本国籍所有者」を意味することになった。

▼たとえば11条の「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」との規定は、日本国籍を有しない外国人は基本的人権の享有を妨げられるとも読み替え可能となる。そんなおかしなことはあるまいと一般的には思われるかも知れないが、国民年金法が被保険者資格を「日本国内に住所を有する二十歳以上六十歳未満の日本国民」(同法第7条)と定めていたため、日本に1910年以降在住し、11年にわたって保険料を納付したにもかかわらず、「日本国民」でなかった在日韓国人が年金の給付を受けられなかった例があるほど、この「国民」規定は重大な意味を持っている。(pp.277-278)

こんな反人権的な規定をGHQが認めるはずがなないのだが、政府がGHQに出した訳文において、他の条項では「Japanese peope」としていたのに、この第10条に限っては「Japanese national」(日本国籍所有者)という英訳にして、日本語にすれば全く同じ「日本国民」の言葉となるものを周到に使い分けていたというのである。

他の条項においても、たとえば外国人の人権規定について、「凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ハズ法律ノ下ニ平等ニシテ、人種、信条、性別、社会上ノ身分若ハ門閥又ハ国籍に依リ…差別セラレルコトナシ」とあったところから、官僚(法制局第一部長)は「日本国民タルト否トヲ問ハズ」と「国籍」の二箇所を削除することに成功したというのである。

戦争放棄の条項は他の憲法に類をみないと言われるが、それほど唐突なものではなく、「戦争の放棄」という概念が法律上初めて登場したのは第一次大戦後の不戦条約(1928年)であるし、世界の拳法の中でこの規定が最初に登場したのはフィリピンの1935年憲法だという。そして、当の日本国憲法の「戦争の放棄」も、「案としては日本側の民間草案の中に不十分な規定ではあれ、存在していたのである」(p.79)ということも。

そうこうして憲法が発布され、半年後の1947年5月3日におこなわれた憲法施行の式典には、昭和天皇、皇后の出席はなく、「君が代」も歌われていないそうだ。歌われたのは新憲法施行記念国民歌「われらの日本」であって、著者によると「すっかり忘れられてしまっているが、日本国憲法の誕生とともに短い時間ではあるが、「君が代」は幕を閉じたのである」(p.335)という。その「われらの日本」の歌詞はこんなだ。

▼平和のひかり 天に満ち
 正義のちから 地にわくや
 われら自由の 民として
 新たなる日を 望みつつ 
 世界の前に 今ぞ起つ
(p.335)

著者は序において、旧版が出て以降、つまりは昭和が終わり、平成になってから公刊された昭和天皇関連の日記等のなかでも、『側近日誌』(木下道雄侍従次長、1990年)で知りえた事実は衝撃だった、と書く。

▼[マッカーサーが残そうとした]「天皇制」の内実は、戦争責任が問われるものであり、その責任を回避する手段が「戦争の放棄」であったことには、戦後なんお根拠も示さずに「憲法一条と九条はバーターだ」などという言動はあっても、学問的検証がなされてこなかっただけに、あらためて象徴天皇制と戦争の放棄という一対をなす現実の重さを教えられたのである。(p.2)

旧版の頃から、日本国憲法は象徴天皇制となんらかの関連を以て制定されたことを「漠然と」感じていた著者は、『側近日誌』を読み進んでいたときに、思い当たることがあって「勅語」(1946年3月6日の新聞に、憲法の草案要綱、首相謹話とともに掲載された「勅語」)を読みなおして、自分自身が「見れども見えず」の認識を持ち続けてきたことを思い知った、というl。「漠然と」感じていたことは、単に資料がなかっただけではなくて、そこにあった資料を見る目が自分になかったのだと。

象徴天皇制と九条の「バーター」には、沖縄の基地化が前提としてあることも書かれている。

▼マッカーサーから見れば、日本本土の非武装化、憲法九条の実現は、沖縄の基地化なくして不可能であったのだ。米国政府の対日政策の中には、「戦争放棄」に類する政策はまったくなかったことは先に述べた通りであるが、「戦争放棄」を「憲法改正三原則」に盛り込んだマッカーサーは、天皇制の存置と同時に沖縄を犠牲にして、象徴天皇制と戦争の放棄とを同時に可能にする憲法を考えたのであった。
 と同時に、マッカーサーは日本の再軍備が「極東諸国と不和」をもたらすこと、「これらの諸国のすべては依然として再び軍事化された日本をきわめて恐れている」ことを日本の再軍備に反対する理由に挙げているのである。(p.317)

憲法のことは小中高の社会科でも習うし、私が通った大学では「日本国憲法」という授業は必修だった。ただ、その内容は憲法の条文解説的なものが多く(それも大事なことだけど)、なりたちという点でいえば「マッカーサー三原則」くらいしか記憶がない。

憲法制定過程に民間からも多数の案が出されたことなど、日本国憲法がモザイク模様でなりたってきたことを、どこかで知る機会があればと思う。制定過程の議論のなかで「権利とはそれを否定され、あるいは差別をされ続けてきたものが、はじめに発見するものであること」をあざやかに証明する例のひとつとして、著者は義務教育についての条文で当初案の「児童」が「子女」となったことをあげている。

これは、青年学校の教員が政府案発表の後に敏感に反応して「猛運動」をはじめた成果で、ここが「子女」となったからこそ、義務教育は中学校まで延長された。そんな権利獲得の場面を私はよくよく知りたい。

この本の末尾にはたくさんの注がついて、古いものから新しいものまで文献もいろいろあげられていたから、もう少し関連する本を読んでみたい。この本も、もう一度じっくり読みたい。

(7/27了)

*脱字
p.251 「れわれの業務に払われた教授の関心」という表現はあまりにも漠然としている。
 → 「【わ】れわれの業務に払われた教授の関心」という表現はあまりにも漠然としている。

ここの前に、脱字の引用箇所にあたる、芦田均によるコールグローブ歓迎の辞がある。
「私は、本委員会の委員に代わり、われわれの業務(business)に払われた教授の関心にたいし、深甚なる感謝の意を表します。(以下略)」(p.250)

※高野岩三郎「囚はれたる民衆」『新生』2巻2号(1946年2月)
 →高野岩三郎の本か何かで読めないかと探してみたら、『大正デモクラシー 草の根と天皇制のはざま』に収録されているらしい(これは図書館にあり)
 
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第40回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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