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関東大震災(吉村昭)

関東大震災関東大震災
(2004/08)
吉村昭

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『史実を歩く』『私の好きな悪い癖』を読んで、まずこの記録小説を読んでみようと買ってきた。これが書かれたのは昭和47年~48年(1972年~73年)で、ほぼ40年前のことである。

「あとがき」に吉村はこう記す。
▼私の両親は、東京で関東大震災に遭い、幼児から両親の体験談になじんだ。殊に私は、両親の口からもれる人心の混乱に戦慄した。そうした災害時の人間に対する恐怖感が、私に筆をとらせた最大の動機である。(後略) (p.346)

9月1日の発災から5日間は報道機関が壊滅に近く(1社がようやく5日の夕刊発行に漕ぎつけている)、情報を得る手段がほとんど失われたなかで、流言の伝わるすさまじい速さの記述に怖気がした。

▼その速度はきわめて早く、九月二日午前中には横浜市内をおおった流言が、その日のうちに東京市内から千葉、群馬、栃木、茨城の関東一円の各県に及び、翌三日には早くも福島県にまで達している。交通機関をはじめ電信、電話が壊滅していることから考えると、それは口から口に伝わったものだがその速度は驚異的な早さであった。(p.172)

関東大震災というと、本所被服廠跡の火災とそこで亡くなった人数の凄さ、そして大杉栄と伊藤野枝が麹町の憲兵分隊で殺されたこともあって、私のなかでは「東京」という印象が非常に強かったのだが、震源は相模湾で、地震の被害が大きかったのはむしろ横浜なのだった。
▼東京の全壊戸数2231戸に比して1万8149戸という倒壊家屋を出した横浜市では、大激震に襲われると同時に火災も派生して、全市の総面積の約80パーセントが焼失した。被害は東京を上廻っていたため、死者は多く、辛うじて生きることができた避難者の苦しみも大きかった。
 港湾都市である横浜市には、官庁以外に外国人関係の建物も多かったが、官庁関係建物43のうち33が焼失、残りの10の建物も半壊状態であった。また外国領事館26はすべて全焼、326の銀行諸会社もわずかに17残っただけで、約3000の工場も90パーセントにあたる2700が焼失した。
 丘陵にかこまれた地形をもつ市内では、大崖崩れが50カ所も起って人家を埋没させ、橋は墜落又は焼失し、海に面した岸壁はその40パーセントが崩壊した。
 人々は火にまかれて焼死し、川に入って溺死した。(pp134-135)

そして、本の半ば以降は、「第二の悲劇─人心の錯乱」の記述である。

東京、横浜の住民たちは、「一種の錯乱状態にあった」(p.140)。
▼大激震に襲われた後、家屋の倒壊にともなう多数の圧死者を目撃し、さらに各所で起った火災によっておびただしい焼死者や溺死者を見、大旋風に巻き上げられる人々の姿も見た。しかも大地は絶え間なく揺れつづけ、火災は逞しい流れになって波浪のように押し寄せてくる。そうした現象は、人間の精神状態を平静にさせておくことはできなかったのだ。(pp.140-141)

平静でいられぬ状況に加え、震災によって電信電話は壊滅、複数の新聞社も崩壊し、確実な情報を得る道が完全に断たれていた。「警察、官庁も情報の入手方法を断たれて、指令を受けることも報告することも出来ず右往左往するばかりであった。」(p.142)

▼いずれにしても、9月1日から5日の夕方まで一切の新聞は発行されず、東京市民は報道による情報の入手ができなかったのである。
 災害の中心となった東京府と横浜市の人口は約450万名であったが、知る手がかりを失ったかれらの間に不気味な混乱が起りはじめた。かれらは、正確なことを知りたがったが、知ることのできるものと言えば、それは他人の口にする話のみにかぎられた。
 根本的に、そうした情報は不確かな性格をもつものであるが、死への恐怖と激しい飢餓におびえた人々にとってはなんの抵抗もなく素直に受け入れられがちであった。そして、人の口から口に伝わる間に、憶測が確実なものであるかのように変形して、しかも突風にあおられた野火のような素早い速さでひろがっていった。(p.144)

地震の直後に人々の間に広がったのは「大津波が来た」または「大津波がくる」という流言だった。
→津波の被害は、大島、伊豆半島、房総半島、三浦半島、鎌倉の地域に限定されていた。東京には津波来襲の事実はなかったが、それは確実な情報として人々の間に伝わった。
→流言の内容が、地方新聞には確報として報道されている(大地震そのものの概要にもかなりの混乱がみられ、静岡県の東海道が最大の震災地と報じられたり、中部地方の濃尾平野が震源と推測するものもあった)。
→東京、横浜が最大の災害地であると報道がはじまった後も、「富士山爆発」「秩父連山の噴火」という流言を事実のように報道する傾向があった

・津波襲来に次いで、市民を襲ったのは「強震が再来する」という流言だった。
→これが誰の口からもれた流言かは分からなかったが、「流言を追及した結果、一人の男が治安維持令違反者として処罰されている」(p.151、東京区裁判所で大正12年11月13日に判決)。

・地震再来説が交叉している頃から、流言の中には社会性を帯びるものが混入しはじめた。
→「政友会首脳者の死亡説」「山本権兵衛暗殺説」
→囚人に関する流言「市ヶ谷刑務所から解放された囚人は、焼け残った山の手及び郡部に潜入し、夜に入るのを待って放火する計画を立てている」「巣鴨刑務所は倒壊し、囚人が集団脱走し、婦女強姦と掠奪を繰り返している」等

▼囚人に関する流言は、数日間にわたって各方面に流れていたが、大震災の起った9月1日午後から湧きはじめた一流言は、時間の経過とともに恐るべき規模となって膨張していた。それは、他の多くの流言を押し流すほどの強烈さで、東京、横浜をまたたく間におおいつくすと同時に、日本全国に伝わっていった。
 大地震が起ってからわずか三時間ほど経過した頃、すでにその奇怪な流言は他のさまざまな流言にまじって人々の口から口に伝わっていった。それは、
 「社会主義者が朝鮮人と協力し放火している」
 という内容であった。
 その流言は、日本の社会が内蔵していた重要な課題を反映したものであった。(p.160)

→しかし、東京市内で湧いたこの流言は大規模なものに発展することはなかった。余震と火災の中で、大地震再来説、大津波襲来説などの自然現象に関する流言のほうがはるかに勢いが強く、社会主義者と朝鮮人による放火説はその中にほとんど埋れてしまっていた。

▼大地震の起った日の夜七時頃、横浜市本牧町附近で、
 「朝鮮人放火す」
 という声がいずこからともなく起った。それは、東京市内でささやかれていた社会主義者と朝鮮人放火説とは異なって、純然と朝鮮人のみを加害者とした流言だった。
 (中略)日本人の朝鮮人に対する後ろ暗さが、そのような流言としてあらわれたことはまちがいなかった。(p.164)

→その流言は横浜市の一地域にひろがっただけで、自然現象に関する流言とは比較にならぬほど微弱なものだった。その夜流布された範囲も同地域に限られていた。

▼…が、翌二日の夜明け頃から急激に無気味なものに変形していった。
 流言は「朝鮮人放火す」という単純なものであったのに、夜の間に「朝鮮人強盗す」「朝鮮人強姦す」という内容のものとなり、さらには殺人をおかし、井戸その他の飲水に劇薬を投じているという流言にまで発展した。(p.165)

→その日の正午頃までには横浜市内にたちまち拡がり、鶴見、川崎方面にまで達してしまった。
→日没近くになると、横浜市西戸部町藤棚附近から、「保土ケ谷の朝鮮人土木関係労働者三百名が襲ってくる」という風説に続き「戸塚の朝鮮人土木関係労働者二、三百名が現場のダイナマイトを携帯して来襲してくる」という流言すら起った 
▼このような朝鮮人に関する風説については、後に横浜地方裁判所検事局で徹底した追跡調査がおこなわれた。それによると検事局では、初めその風説を裏づける事実があったのではないかという判断のもとに、流言の発生地を中心に一般人、警官、軍人等から事情を聴取したという。
 しかし、調査の結果それらの風説は全く根拠のないもので、朝鮮人による放火、強盗、殺人、投毒の事実は皆無で、保土ケ谷、戸塚の土木関係労働者の集団行動もなかった。(p.166)

事実ではないこれらの風説、流言は、ものすごい勢いで広まった。ひとつには、被害の甚だしかった横浜市の住民が東京方面に群をなして避難したため、かれらの口から。横浜市内から東京市内に流れこんだ流言は、3つのコースをたどった。
1) 川崎町を経由して六郷川を渡り蒲田町、大森町から東京市品川方面へ
2) 鶴見町、御幸村、中原町を東上して丸子渡船場を越え、調布村、大崎町を経て東京市内へ
3) 横浜市近郊の神奈川町から西進して長津田村に達し、東北方向に進んで二子渡船場を渡り玉川村から世田ヶ谷町と三軒茶屋、渋谷方面に二分して東京市内へ

▼東京府下から東京市に侵入した流言は、横浜市内で発生した頃のものとくらべると、はるかに複雑な様相を呈していた。流言は流言と合流し、さらに恐怖におののく庶民の憶測によって変形し巨大な歯車のように各町々を廻転していった。(p.174)

このあとに吉村は、
「9月2日午前10時頃流布せる流言」
「同日午後2時5分頃流布せる流言」
「同日午後3時40分頃に流布せる流言」
「同日午後4時頃流布せる流言」
「同日午後4時30分頃に流布せる流言」
「同日午後5時頃流布せし流言」
「同日午後5時30分頃流布せる流言」
「同日午後6時頃流布せる流言」
と時間を追って、いかに多くの流言が入り乱れて広がったかを示している。

▼これらのおびただしい流言は、当時警察でも調査し、後に裁判所検事局でも徹底的に追及した。
 その結果、これらの流言のすべてが事実無根で、一つとして朝鮮人の来襲等を裏づけるものはなかった。
 流言は、通常些細な事実が不当にふくれ上って口から口に伝わるものだが、関東大震災での朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかったという特異な性格をもつ。このことは、当時の官憲の調査によっても確認されているが、大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた結果としか考えられない。そして、その異常心理から、各町村で朝鮮人来襲にそなえる自警団という組織が自然発生的に生れたのだ。(p.178)

吉村はさらに調べをすすめ、横浜から湧いた根拠のない流言が一般民衆の間で巨大な流言と化したこと、それが軍と官憲によって事実と断定され、しかも全国に伝えられていったこと、さらにこの大流言が新聞によっても事実として報道されたこと、これらがために朝鮮人に対する虐殺事件が続発したことを記している。

こうした流言が、当時の唯一の報道機関である新聞によって広い範囲に流布され、新聞記事を読んだ人びとがまたそれを事実だと信じこむという事態をうんだ。新聞報道が人心の動揺をうながすことを恐れ、内務省は流言の調査に全力を傾け、ようやく九月三日にそれが事実無根の風説と気づいて警告書を新聞各社に発した。これとともに、東京府と神奈川県全域に拡大された戒厳令下で、「時勢に妨害ありと認むる新聞、雑誌、広告を停止すること」(p.231)という報道に対する発禁命令も出された。

それでもなお、新聞には類似の記事が出て、発禁処分を受ける新聞社も出た。9月7日に「治安維持罰則勅令」公布、9月16日には新聞雑誌等の原稿を漏れなく検閲する命令が内務省から発せらた。

→これらの厳しい処置により、朝鮮人についての流言を事実であるかのように報道する新聞記事は消えたという
→流言におびえて殺傷を繰り返していた自警団らの狂暴な行為も鎮まり、世情は平穏をとりもどした

新聞は、こうした流言掲載によって人心の混乱をまねいた結果、記事原稿の検閲を受けねばならなくなった。これは「報道の自由」に関わることである。それが「治安維持を見出す恐れのあるものは発禁」としてしまえる武器を政府に与えたようなことになってしまった。吉村の書くように、まさに「政府の好ましくないと思われる事実を、記事検閲によって隠蔽することも可能になったのだ。」(p.233)

新聞という報道機関がやられてしまったのは横浜事件が大きかったのだと私は思っていたが、それ以前の、この関東大震災のときに、記事検閲の先鞭が着けられていたのだと知る。

実際に、内務省は、亀戸警察署内で起った大量殺害事件が知られることを恐れ、厳重な箝口令を敷いていた。とはいえ、人の口に戸は建てられず、事実を隠すことができなくなった内務省と警視庁、ついで陸軍省も、事件について発表した。だが、それは一方的なもので、事実とは遠かった。

この本のかなりの部分を占める「人心の錯乱」についての記述を読んだ衝撃は大きかった。あらましは知っているようなつもりでいたが、私が知ったつもりでいたのは震災のごく一断面だけなのだと改めて認識した。

末尾の「復興へ」に記されている死体処理の問題、排泄物処理の問題、がれき処理の問題、そこから起こる衛生問題、またバラック街という今でいえば仮設住居の問題、犯罪多発の問題は、現代に通じるもので、人間の営みが大きくは変わらない以上、震災後の対処としては100年近く経とうと、そう変わらないものなのだと思えた。

ほかに強く印象に残ったのは、「最大の発火原因になったのは、薬品だった」(p.72)という指摘だ。震災時の火事は、昼どきであったことがその一因のように言われていて、私もなんとなくそうだろうと思っていたが、火災はむしろ学校や試験所、研究所、工場、薬局などにあった薬品類が棚から落ちて発火して起こったのだ。とくに学校では多かったという。

あとで読んだ『吉村昭が伝えたかったこと』に収録されている文章によれば(武村雅之「警告の書『関東大震災』」)、その後の研究によって、吉村があげた被害の数字は改められている部分もあるそうだが、それはあるにしても、被害の実相、人心の動揺、復興への道のりと、大災害の経験がこまかく書かれていて、やはりこの大震災は一つの画期だったのだと思った。

(6/6了)

*読んでいた途中で、『広辞苑』第六版を引いてみた
・風評 世間の評判。うわさ。とりざた。風説。「とかくの―がある」
・風説 世間のうわさ。とりざた。風評。日葡辞書「フウセッ、また、フウゼッ」。「―に惑わされる」
・流言 根拠のない風説。うわさ。浮言。流説るせつ。「―にまどわされるな」
・流言蜚語 根拠のないのに言いふらされる、無責任なうわさ。デマ。
・蜚語・飛語 根拠のないうわさ。無責任な評判。飛言。「流言―」
 
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第41回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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