少女ソフィアの夏(トーベ・ヤンソン)
少女ソフィアの夏 (1993/11/15) トーベ・ヤンソン 商品詳細を見る |
へのへのもへじ文庫で借りた本。似た装幀の『彫刻家の娘』は知ってたけど、こんな短編集もあったのか~。本の帯には、トーベ・ヤンソンの写真と「静寂と孤独を心から楽しむ、フィンランド多島海での短い夏の日々」とある。
少女ソフィアと祖母は、それぞれトーベ・ヤンソンの姪っ子(ムーミン漫画を描いていた弟の娘)と母がモデルだそうだ。フィンランドの多島海(約3万の島があるという)に浮かぶ小さな島で、高緯度の短い夏を過ごすソフィアとパパとおばあさん。巻末には、トーベ・ヤンソン自身が毎夏を過ごしていたという島の写真があって、その写真を見ながら、おばあさんとソフィアはこういう島で、歩き、遊び、けんかをしたのかと思った。
70の歳の差があるというふたりの関係は、年長だからといばることもないし、年少だからと適当にあしらわれることもないし、どちらかがどちらかの言うままになることもない。読んでいてかなりおもしろい。
岩をのぼって裂け目のほうへ進んでいくおばあさんに、ソフィアは「そっちは禁止!」とパパに言われていることを言うのだが、おばあさんはこんなふうに答える。
▼「知ってるとも。おまえもわたしも、岩のさけめへは行っちゃいけないんだけど、パパはまだ眠っているから、わかりっこないんだ。行こう行こう」(p.10)
こんな調子で、おばあさんとソフィアは夏の日々を過ごす。ふたりでボートをこいで「私有地 上陸禁止」と立て札のある他人の島へあがりこんだこともある。
そのときには立て札を見たおばあさんはひどく怒っていた。「えらいちがいなんだよ。ふつうなら、他人さまの島に上陸したりしやしない。なんにもなけりゃあね。でも、立て札を立てたとなると、そりゃあ上陸もするさ。だって、あれではまるで挑戦状だからね」(p.154)と言い、ボートを立て札につないでソフィアにこう言った。「いま、やろうとしていることはね、デモンストレーションなんだよ。つまり、意にも介してないってことを、見せてやるんだ。わかるかい?」(p.154)
ふたりは、島の別荘に「家宅侵入」もする。そこへ、島の主の社長さんの船がエンジン音をたててやってきた!おばあさんとソフィアは、島の奥にむかって大急ぎで歩き、這って若木の茂みにもぐりこんだのだが、社長さんの連れてきた犬にわんわんと吠えられて見つかってしまう。
「自然の中にいると、人間は自分をとりもどせます。おとなりどうし、これから、なかよくやっていこうではありませんか…」(p.162)と社長さんは言い、その別荘にふたりも一緒に向かうのだが、先に「家宅侵入」したときにネジをはずした南京錠が置いてあり、おばあさんは「好奇心なんですよ」と弁解する。島ではかぎなどかけないのに、かぎをかけてしめきってしまうと興味をかきたてられてしまうのだと。
そんなこんなの夏の日々をいろどるように描かれる島の景色を、フィンランドがわからないなりに想像した。たとえばこんな箇所は、3月の終わりに買ってときどきながめている『スキマの植物図鑑』のことをちょっと思い浮かべながら。
▼海にうかぶごく小さな島には、土のかわりに泥炭しかないことを、ソフィアは知っていた。泥炭には、海藻や砂や、肥料としては最高の鳥の糞がまじっているので、小島の岩のすきまには、植物がよく育つ。毎年数週間、岩のすきまが花ざかりになり、その鮮やかなことといったら、フィンランドじゅうさがしても、あんなにきれいな色の花はない。多島海域でも本土沿岸の緑ゆたかな島に住む人たちは、気の毒にも、ごくふつうの庭に満足して、子どもには草とりをやらせ、自分は腰をいためながら水くみをしている。ところが海の小島なら、自分のめんどうは自分でみる。雪どけ水をすい、春の冷たい雨を受けたあと、ようやく夜露に恵まれる。乾燥期に見舞われても、来年の夏を待って花をつける。小島の植物だから、馴れたモノだ。根の中でしずかに"時"を待っている。(p.188)
話のなかには、時折、おばあさんの年の功を感じる洞察が描かれる。初めて島にやってきたソフィアの友達・ベレニケの存在が、「いつもどおり」のあたりまえの島の暮らしが、それはそれでみごとな調和を保っていたことを気づかせたとき、そんな「自分たちだけの世界」によそ者が入りこめるすきまなどなく、ベレニケが本当にこわいのは、海でもアリでも風でもなくて、人間たちなのだということを、おばあさんは思う。
▼(この子が、もう少し大きければ…)おばあさんは思った。(できれば、もっとずっと大きな子だったら、『あんたがどんなにたいへんか、わたしはよくわかってるよ』って言ってやれるんだけど…。そう、『こんなにしっかりまとまっている集団の中にポンとほうりこまれたら、どんなにつらいか、わかるよ』って。
ここの人間たちは、ずっといっしょに暮らしてきて、身内どうしの親密さの中で生きている。慣れ親しみ、知りつくしている場所で動いている。そんな自分たちの流儀がほんのすこしでもおびやかされるとなると、ますます強く団結するだけなんだ。島は、外から近づいてくる者にとって、たぶん、おそるべきところなのにちがいない。すべてができあがりきっているし、みんな自分の場所が決まっているし、それぞれ安定していて満足しきっている。波うちぎわの内側では、あらゆる営みが習慣化されていて、何度もくりかえされてきたために、びくともしないものになっている。そのくせ、まるで世界は水平線のところまでしかないというふうに、気ままで、なりゆきまかせに、一日からまたつぎの一日へと、すごしているんだ…)
(p.48)
おばあさんが牧場で歌ってきかせた「モウモウさんの フン ララフン」「モウモウさんの ウン ラランコ」というバッチイ歌には笑ったし、とにかくこの夏の話はおもしろかった。
(5/30了)
▼「知ってるとも。おまえもわたしも、岩のさけめへは行っちゃいけないんだけど、パパはまだ眠っているから、わかりっこないんだ。行こう行こう」(p.10)
こんな調子で、おばあさんとソフィアは夏の日々を過ごす。ふたりでボートをこいで「私有地 上陸禁止」と立て札のある他人の島へあがりこんだこともある。
そのときには立て札を見たおばあさんはひどく怒っていた。「えらいちがいなんだよ。ふつうなら、他人さまの島に上陸したりしやしない。なんにもなけりゃあね。でも、立て札を立てたとなると、そりゃあ上陸もするさ。だって、あれではまるで挑戦状だからね」(p.154)と言い、ボートを立て札につないでソフィアにこう言った。「いま、やろうとしていることはね、デモンストレーションなんだよ。つまり、意にも介してないってことを、見せてやるんだ。わかるかい?」(p.154)
ふたりは、島の別荘に「家宅侵入」もする。そこへ、島の主の社長さんの船がエンジン音をたててやってきた!おばあさんとソフィアは、島の奥にむかって大急ぎで歩き、這って若木の茂みにもぐりこんだのだが、社長さんの連れてきた犬にわんわんと吠えられて見つかってしまう。
「自然の中にいると、人間は自分をとりもどせます。おとなりどうし、これから、なかよくやっていこうではありませんか…」(p.162)と社長さんは言い、その別荘にふたりも一緒に向かうのだが、先に「家宅侵入」したときにネジをはずした南京錠が置いてあり、おばあさんは「好奇心なんですよ」と弁解する。島ではかぎなどかけないのに、かぎをかけてしめきってしまうと興味をかきたてられてしまうのだと。
そんなこんなの夏の日々をいろどるように描かれる島の景色を、フィンランドがわからないなりに想像した。たとえばこんな箇所は、3月の終わりに買ってときどきながめている『スキマの植物図鑑』のことをちょっと思い浮かべながら。
▼海にうかぶごく小さな島には、土のかわりに泥炭しかないことを、ソフィアは知っていた。泥炭には、海藻や砂や、肥料としては最高の鳥の糞がまじっているので、小島の岩のすきまには、植物がよく育つ。毎年数週間、岩のすきまが花ざかりになり、その鮮やかなことといったら、フィンランドじゅうさがしても、あんなにきれいな色の花はない。多島海域でも本土沿岸の緑ゆたかな島に住む人たちは、気の毒にも、ごくふつうの庭に満足して、子どもには草とりをやらせ、自分は腰をいためながら水くみをしている。ところが海の小島なら、自分のめんどうは自分でみる。雪どけ水をすい、春の冷たい雨を受けたあと、ようやく夜露に恵まれる。乾燥期に見舞われても、来年の夏を待って花をつける。小島の植物だから、馴れたモノだ。根の中でしずかに"時"を待っている。(p.188)
話のなかには、時折、おばあさんの年の功を感じる洞察が描かれる。初めて島にやってきたソフィアの友達・ベレニケの存在が、「いつもどおり」のあたりまえの島の暮らしが、それはそれでみごとな調和を保っていたことを気づかせたとき、そんな「自分たちだけの世界」によそ者が入りこめるすきまなどなく、ベレニケが本当にこわいのは、海でもアリでも風でもなくて、人間たちなのだということを、おばあさんは思う。
▼(この子が、もう少し大きければ…)おばあさんは思った。(できれば、もっとずっと大きな子だったら、『あんたがどんなにたいへんか、わたしはよくわかってるよ』って言ってやれるんだけど…。そう、『こんなにしっかりまとまっている集団の中にポンとほうりこまれたら、どんなにつらいか、わかるよ』って。
ここの人間たちは、ずっといっしょに暮らしてきて、身内どうしの親密さの中で生きている。慣れ親しみ、知りつくしている場所で動いている。そんな自分たちの流儀がほんのすこしでもおびやかされるとなると、ますます強く団結するだけなんだ。島は、外から近づいてくる者にとって、たぶん、おそるべきところなのにちがいない。すべてができあがりきっているし、みんな自分の場所が決まっているし、それぞれ安定していて満足しきっている。波うちぎわの内側では、あらゆる営みが習慣化されていて、何度もくりかえされてきたために、びくともしないものになっている。そのくせ、まるで世界は水平線のところまでしかないというふうに、気ままで、なりゆきまかせに、一日からまたつぎの一日へと、すごしているんだ…)
(p.48)
おばあさんが牧場で歌ってきかせた「モウモウさんの フン ララフン」「モウモウさんの ウン ラランコ」というバッチイ歌には笑ったし、とにかくこの夏の話はおもしろかった。
(5/30了)
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