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ルポ 虐待 大阪二児置き去り死事件(杉山春)

ルポ 虐待 大阪二児置き去り死事件ルポ 虐待 
大阪二児置き去り死事件

(2013/09/04)
杉山春

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3月の終わりに『永山則夫 封印された鑑定記録』を読んだとき、まだ読んでなかったけれど、『ルポ 虐待 大阪二児置き去り死事件』は、たぶん同じような本なのだと思った。そして、4月半ばに『ルポ 虐待』を読んだあと、もういちど『永山則夫』を読んだ。

二つの本は、やはり似ていた。

"母"の呪いにさいなまれるという点では、『ルポ 虐待』は、『障害のある子の親である私たち』にも似ている気がした。母はこうあらねばならない、親なのだからこうすべきだといった呪い、「やさしく愛情にみちたお母さん」という呪いが、母でもある女性をくるしめることがある。

2010年の夏、幼い2人の子どもの死体が大阪市内のマンションで発見された。2人の母親は「子どもを放置して男と遊び回っていた」とものすごい非難を受けていた(私はあとから頼まれてこの事件の発覚当時の新聞記事を図書館で集めたこともあって、よけいに印象に残っている)。
複数のメディアが、母親の芽衣さん(仮名)に拘置所で接見し「なぜ子どもたちを放置したのか、どんな気持ちだったのか」と尋ねている。そのひとつ、事件発覚から半年以上が経った時点でのインタビューで報じられた芽衣さんの「肉声」は「考えても考えても、自分がやったこととは思えない。なぜこうなってしまったのか、自分の中でもまだ整理ができていないんです」(『週刊現代』2011年3月5日号)というものだった。

「なぜ、わが子をネグレクトして亡くしたのか。答えを見出すには、自分自身に向き合う長く厳しい作業が必要だろう。治療の力を借りなければ、自分を取り戻すことはできないのではないか」(p.13)と著者は考え、芽衣さんに初めて会ったときに踏み込んだ話はしなかった。

著者と会った理由を「子どもたちの仏前にお菓子を供えてくださったと手紙にあったからです。お礼がいいたくて」(p.7)と語った芽衣さんとは、その後何度か拘置所を訪ねたものの面会はかなわなかったそうだ。著者がそれから芽衣さんの姿を見たのは一審の法廷。

大阪地裁でおこなわれた7日間の裁判員裁判(一審)で、芽衣さんは懲役30年の判決を受けた。芽衣さんは上告したが、二審判決は控訴棄却、「殺意はなかった」とさらに上告したものの、2013年の春に最高裁は上告を退ける決定をし、懲役30年の判決は確定した。児童虐待死事件としては例をみない年数である。

著者は、芽衣さんとは会えないまま、事件の経緯を追い、芽衣さんの人生をたどる。芽衣さんが夫と子ども2人と暮らした町を歩き、実父や元夫、近所の人たちや友人たちの話を聞き、裁判での証言をまじえて、芽衣さんの生育歴を記していく。

若い結婚をして、間もなく妊娠した芽衣さんは「早くママになりたかった」と心理鑑定で語ったという。芽衣さんは、離婚を考えてはいなかったが夫の親を交えた話し合いで離婚は決まってしまい、自分は育てられないという声をあげられないまま、芽衣さんが幼い2人の子を引き受けることになっていた。

ひとりでの子育ては、芽衣さんに「見捨てられた幼少期の自分」を強く感じさせたのだろう。まるでかつての自分を見るようなわが子の姿から芽衣さんは目をそむけ、その姿から逃げるのに必死だった。「自分」を直視できず、夢の世界に逃げた。それが瞬く間に50日という放置の時間となった。

悲劇の真因は、芽衣さんが「よい母親であること」に強いこだわりを持っていたことだ、と著者は書く。

▼だめな母親でもいいと思えれば、助けは呼べただろう。「風俗嬢」の中には夜間の託児所にわが子を置き去りにして、児童相談所に通報される者がいる。立派な母親であり続けようとしなければ、そのようにして、あおいちゃんと環君が保護されることもあったのかもしれない。
 だが、芽衣さんは母親であることから降りることができなかった。
 自分が持つことができなかった立派な母親になり、あおいちゃんを育てることで、愛情に恵まれなかった自分自身を育てようとした。
 だからこそ、孤独に泣き叫ぶ子どもに向き合うことができなかった。人目に晒すことは耐え難かった。母として不十分な自分を人に伝えられず、助けを呼べなかった。
 結婚当初、芽衣さんの自尊心を支えたのは、家庭であり、夫の存在、健康に育つ子どもたちだった。不安で自信のない芽衣さんは、あらん限りの努力をしてその虚像を支えようとした。だが、頑張りは長くは続かない。理想の姿が崩れかけた時、それでも持ちこたえて、関係を持続することよりも、別の世界に飛んだ。それが芽衣さんが幼い時から長い時間をかけて習慣としてきた困難への対処方法だったからだ。(pp.255-256) 

その芽衣さんの姿は、努力するものの空回りして疲れ切ってしまい果ては身ひとつで逃げ出す、というパターンを繰り返した永山則夫に重なってみえる。愛情や褒められることや尊重されること、そういった頑張れるエネルギー源となるものを芽衣さんも、ほとんど持てていなかった。

永山則夫が当初の鑑定では語らなかったことを、3、4年経ってからようやく石川医師の前で語ったように、時間をかけなければ芽衣さんの心にも、事件の真相にも迫ることはできないだろう。芽衣さんのケースは、一審の裁判はわずか7日間、事件発覚から3年足らずで判決が確定している。

永山則夫の鑑定で石川医師が全身全霊で永山の人生と向き合ったように、芽衣さん自身が自分の人生を振り返り、たどり直すことに伴走できる人がいれば、そして時間があったならと思う。

▼芽衣さんは最後まで、母親であり続けることを望み、殺意を否定した。
 芽衣さんは、離婚の話し合いの場で、「私は一人では子どもは育てられない」と伝えることができれば、子どもたちは無惨に死なずにすんだ。その後も、あらゆる場所で、私は一人では子育てができないと語る力があれば、つまり、彼女が信じる「母なるもの」から降りることができれば、子どもたちは死なずにすんだのではないかと思う。そう、問うのは酷だろうか。だが、子どもの幸せを考える時、母親が子育てから降りられるということもまた、大切だ。少なくとも、母親だけが子育ての責任を負わなくていいということが当たり前になれば、大勢の子どもたちが幸せになる。(p.265)

芽衣さんは私と同じ誕生日だった。下に妹が2人というのも同じ。この本では妹さんたちの話は出てこなかったけれど、姉の起こした事件のことを、妹たちはどう思って見たのだろうと、ちょっと考えた。

(4/14了)
 
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Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第40回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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