リアル・シンデレラ(姫野カオルコ)
![]() | リアル・シンデレラ (2012/06/12) 姫野カオルコ 商品詳細を見る |
本読みの友より「姫野カオルコの『リアル・シンデレラ』読んでー!」と便りが届く。姫野本はけっこう読んでるつもりだったが、これは読んでなかった。図書館には単行本しかなかったし、読んだあとは誰かにまわそうという算段で、本屋で文庫本を買ってきて読む。
姫野カオルコには、いろんな芸風の作品があるが、これは『昭和の犬』系だと思った。周りの人を描くことで、主人公の泉(せん)ちゃんという人が浮かび上がってくるかんじ。
友は「シンデレラ」というタイトルから、主人公の泉(せん)ちゃんを、どういうふうにシアワセにしていくのだろう?と思っていたそうだ。「シンデレラ」というタイトルの意味も考えてしまったという。読んでいるうちに、自分の想像をあちこちひっくりかえされて、「うぉー!こうきたか!の連続だった」と便りには書いてあった。
私は、すでに読んでて、けっこう好もしいと思う作家の場合、その名前だけで本を選んだりもするので、タイトルがどうのとはあまり考えないなーと思った。(『昭和の犬』は、表紙に犬がうつっていたので「この犬の話か?」とは思ったが)
「シンデレラ」というタイトルに読者が縛られてしまうことによる誤解のようなものについて、姫野自身が文庫のうしろのあとがきで書いている。
▼『リアル・シンデレラ』はアレゴリーです。…(略)…「シンデレラ」は「幸福」の寓意として扱いました。ところが〈童話シンデレラ〉のストーリーに頑ななまでにこだわる(固執する)直木賞選評があり、かかる固執を予想だにしなかった私は、正直言ってびっくりしました。無粋ながらくりかえします。『リアル・シンデレラ』の「シンデレラ」は、幸福や善や美や豊かさの寓意です。(p.429)
私が「シンデレラ」のことを考えていたのは、小説の冒頭で、矢作さんが「筆者」に、幸せっていうのは泉(せん)ちゃんみたいな人生だと思う…云々というあたりだけで、あとは「シンデレラ」がどうのとは全く考えずに読んでいた。でも、友の便りを読んで、「シンデレラ」とは、姫野自身もそこまでと思っていなかったほど、聞いた人の考えに「こうだ」と枠をはめる強い言葉なんやなーと思った。
矢作さんは、「シンデレラ」というのが女性の幸せとか成功という意味になっている("現代のシンデレラ"みたいなコピーも、そういえばある)ことに、違うんじゃね?だってこの人幸せになりそうにないよと思っていた。そこがたぶんタイトルに関係あるのだろう。
ほんとうに幸せなもの、善きもの、それは、継母や姉妹と張り合うような価値観ではなくて、ぜんぜん違うんじゃないの? 泉(せん)ちゃんみたいなのが幸せで豊かなんじゃないの? こっちこそがホンマのシンデレラだろう、というのが、姫野のいう寓意なのだろう。
小説は、"豊かさと幸福"をテーマに、泉(せん)ちゃんの取材をして、「筆者」が長編ノンフィクションを書いた、という体裁になっている。
前半は、泉(せん)ちゃんと一つ違いの妹・深芳(みよし)の話に、みょうに近しさを感じ、子どものころの妹との関係をいろいろ思い出したりした。「ふつうは、こう考えるでしょ、こうするでしょ」という人物像とは、まったく違う反応をする泉(せん)ちゃんに、私はそこはかとなく親近感をおぼえ、それは私が子どもの頃からしょっちゅう「変」「おかしい」「変わってる」と言われてきたからかなと思った。そして、泉(せん)ちゃんの周りの人の言動を読みながら、人のことを「変わってる」と言う人のきもちが、ちょっと分かった気がした。
「人生なんて、後になればみんな、なるほどねえってものだけれど、そのさなかには先のことなんかわかりゃしないでしょう」(p.45)と、泉(せん)ちゃんのことを思い出して語る人が言う。
泉(せん)ちゃんは、《自分の周りにいる自分じゃない人にいいことがあったら、自分もうれしくなれるようにしてください》(p.422)と願った。人の幸せを、わがことのように感じられるよう、喜べるようにと願った。その祈りが、私のことも照らしてくれたらと思う。
(3/12了)
「シンデレラ」というタイトルに読者が縛られてしまうことによる誤解のようなものについて、姫野自身が文庫のうしろのあとがきで書いている。
▼『リアル・シンデレラ』はアレゴリーです。…(略)…「シンデレラ」は「幸福」の寓意として扱いました。ところが〈童話シンデレラ〉のストーリーに頑ななまでにこだわる(固執する)直木賞選評があり、かかる固執を予想だにしなかった私は、正直言ってびっくりしました。無粋ながらくりかえします。『リアル・シンデレラ』の「シンデレラ」は、幸福や善や美や豊かさの寓意です。(p.429)
私が「シンデレラ」のことを考えていたのは、小説の冒頭で、矢作さんが「筆者」に、幸せっていうのは泉(せん)ちゃんみたいな人生だと思う…云々というあたりだけで、あとは「シンデレラ」がどうのとは全く考えずに読んでいた。でも、友の便りを読んで、「シンデレラ」とは、姫野自身もそこまでと思っていなかったほど、聞いた人の考えに「こうだ」と枠をはめる強い言葉なんやなーと思った。
矢作さんは、「シンデレラ」というのが女性の幸せとか成功という意味になっている("現代のシンデレラ"みたいなコピーも、そういえばある)ことに、違うんじゃね?だってこの人幸せになりそうにないよと思っていた。そこがたぶんタイトルに関係あるのだろう。
ほんとうに幸せなもの、善きもの、それは、継母や姉妹と張り合うような価値観ではなくて、ぜんぜん違うんじゃないの? 泉(せん)ちゃんみたいなのが幸せで豊かなんじゃないの? こっちこそがホンマのシンデレラだろう、というのが、姫野のいう寓意なのだろう。
小説は、"豊かさと幸福"をテーマに、泉(せん)ちゃんの取材をして、「筆者」が長編ノンフィクションを書いた、という体裁になっている。
前半は、泉(せん)ちゃんと一つ違いの妹・深芳(みよし)の話に、みょうに近しさを感じ、子どものころの妹との関係をいろいろ思い出したりした。「ふつうは、こう考えるでしょ、こうするでしょ」という人物像とは、まったく違う反応をする泉(せん)ちゃんに、私はそこはかとなく親近感をおぼえ、それは私が子どもの頃からしょっちゅう「変」「おかしい」「変わってる」と言われてきたからかなと思った。そして、泉(せん)ちゃんの周りの人の言動を読みながら、人のことを「変わってる」と言う人のきもちが、ちょっと分かった気がした。
「人生なんて、後になればみんな、なるほどねえってものだけれど、そのさなかには先のことなんかわかりゃしないでしょう」(p.45)と、泉(せん)ちゃんのことを思い出して語る人が言う。
泉(せん)ちゃんは、《自分の周りにいる自分じゃない人にいいことがあったら、自分もうれしくなれるようにしてください》(p.422)と願った。人の幸せを、わがことのように感じられるよう、喜べるようにと願った。その祈りが、私のことも照らしてくれたらと思う。
(3/12了)
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