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誰もが難民になりうる時代に 福島とつながる京都発コミュニティラジオの問いかけ(宗田勝也)

誰もが難民になりうる時代に 福島とつながる京都発コミュニティラジオの問いかけ誰もが難民になりうる時代に
福島とつながる京都発コミュニティラジオの問いかけ

(2013/09/05)
宗田勝也

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秋に日塔マキさん(女子の暮らしの研究所)と会った際、しばらく本の話になり、お互い今読んでる本を見せあったときに、教えてもらった本。図書館にリクエストしていたら、ぶじ購入された。

サブタイトルにもあるように、京都市中京区にあるコミュニティFM局のラジオ番組〈難民ナウ!〉からの問いかけが綴られている。2004年から始まった〈難民ナウ!〉は、"難民問題を天気予報のように身近なものに"という願いを込めて、週1回、6分間の放送を続けている(本の後ろのほうで、インドでは"天気予報のように"というのはあてにならないものの喩えで、身近なものにという思いがうまく理解されなかったという、一つの気づきの話が出てくる)。

序章では、「難民」とは誰のことか、が書かれている。
▼難民概念の発生は、「国民国家」や「国民」というカテゴリーの発生に対応している。第一次大戦中、ヨーロッパ諸国は、自分たちの国の領土に生まれた市民と、そうではない帰化市民とのあいだに境界を引くという国民国家の主権を行使した。自らが生活する国の中で、民族的出自により敵国人と位置づけられることを恐れた人々が、自ら無国籍者となることを選んだ。…(p.15)

そうしたところから発生してきた「難民」は、国際的にも難民条約などで定義が与えられていくが、その一つの条件である「迫害」は、「国家が市民に保護を与えられない国々での天災の犠牲者、経済的、社会的迫害と戦争の影響を被った人々を除外していた」(p.19)。だが、その定義では困る人がいる、救われない人がいる。必要に迫られて、「難民」の定義は拡大してきた。
国際条約を尊重しつつも、人の移動が複雑になっているため、それに対処して、難民概念も多様な解釈の試みが重ねられているという。たとえば「強制移動」という観点から難民問題を論じる小泉康一は、こう述べているという。
▼[市民は、国家への忠誠と引き換えに]政府が我々市民の物理的判然保障と生存と政治参加の自由と移動の自由を最低限度、保証するのを期待している。[中略]難民は、これらの最小の絆が断絶した時に、生れる。(p.21、小泉康一『国際強制移動の政治社会学』2005年の92頁)

この本でも少し出てくるが、原発事故によって移動を強いられた人たちを「難民」と書いた本のひとつが、開沼博ほかの『「原発避難」論』で、この中で「難民」とは、定義らしい定義がないまま、しかし国際法上で「難民」と定義される人とは違うかたちで、おそらくは"医療難民"といわれるときの「難民」のように使われていた。(後日、『「原発避難」論』の記事には、青木孝嗣さんから「原発から逃れる人々をどう定義するか、と言えば、やはり"難民"とは言えません」というコメントが書きこまれた。)

原発事故、そこからの避難といった状況を目のあたりにしながら、なかなか「自分のこと」とつながらないのは、いわゆる難民問題に通じることで、そこから著者は「潜在的難民」という発想にゆきつく。自分たちもまた、いつ難民になるかわからない存在なのだと。

▼「潜在的難民」という言葉は、いつ難民のような状況になるか分からない立場を表し、国家との最小限度の信頼を問い直すとともに、これまで自身を第三者の立場に置くことで「より弱い立場」にいる人たちの所在を隠蔽してきた自らの責任を顕在化させる。そして、目の前の問題に「自分のこと」として関わる可能性を問いかける言葉である。
 しかし、そもそも自分が「潜在的難民」であると気づくためには、何らかのきっかけが必要である。そして今の日本社会には、それに気づかせないようにする構造が厳然として存在する。…(p.118)

それは、自分の中にある「見まいとする力」とのたたかいでもある。

▼「潜在的難民」という言葉が問いかけるのは、大きな運動に参加する覚悟の有無ではない。自分たちの日常が「遠く」の問題と地続きであることを意識し、日常生活の中で小さな営みを繰り返せているかどうかを問いかけるものである。(p.183)

私がいいなと思ったのは、著者が京都の地元でイベントを模索しながら、地域社会と難民問題との接点をみつけられないかと考え続けてきたところ。「どうして三条通りで難民問題のイベントを行うのか、その点を示さないと、人は何のことか分からんでしょう」とまちづくり協議会の会長さんに指摘され、"なぜ難民問題を自分たちの暮らす地域で行うのか"という問いを考えるが、容易に答えは出なかったという。「応援したいが、イベントの意図がよく分からない」と何度も言われる中で、まちづくり協議会の事務局長さんが一緒に考えはじめてくれた。

▼「この辺も昔は人づきあいがちゃんとあったんです。そやけど今は近所の人との付き合いもままならへん時代ですやん。そういう時代に(難民問題は)身近な人づきあいを、遠いところから映し出す鏡のようなものでしょうね」(p.72)

この言葉から、しだいに地元でもイベントの意図が受け入れられてきた、という。そのことを著者は「難民(を取り巻く私たちの)問題」が地域コミュニティと接続される第一歩となった、と書く。

この接続は、むずかしいけど、大事なことだと思う。難民問題にかぎらず、さまざまな社会的問題を、自分のこととつなげて考える、あるいは、地元の問題としてうけとめる、そこから、たとえばイベントに人が集まり、それぞれの次の一歩を考えることにつながるのだろうと思う。

それは、イベントの集客が悪いと"市民の意識が低い"とか"日程が悪かった"などと理由づけてしまう態度とはまったく逆。接続する切り口を見つけられるかどうか、そこを考え続けることなのだと思う。

(12/21了)
 
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Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第41回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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