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摘便とお花見 看護の語りの現象学(村上靖彦)

摘便とお花見 看護の語りの現象学摘便とお花見 看護の語りの現象学
(2013/07/29)
村上靖彦

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カバーや扉の作品は、神山明さんという人のもの、そして神山さんと浜田真理さんとの共作のもの。これもよかった。ちょっと美術系の本にも見える。

一気には読めなくて、少しずつ少しずつ読んだ。

4人の看護師さんの語りと、その分析。といっても、切った貼ったで語りがバラされて、看護師ってこうでしょとか看護ってこうでしょというような話になってるわけではない。語りをずっと読んできて、巻末に、現象学という方法のことが書いてある。現象学、とタイトルについたような本はむかしいくつか読んだことがあるけど、その頃はただベンキョウしてる感じだった。この本で、4人の看護師さんの語りをじーっと読み、その分析を読み、そのあとで方法論として示されたものを読んで、へぇえ現象学ってそんなんか!と初めて腑に落ちた気がした。

「現象学は誰にでも真似できる」(p.342)という一つめの原則と、「哲学において方法は、研究を実際にやってみてから後で決まる」(p.342)という二つめの原則を、著者は書いている。この、とくに二つめが強く印象に残る。著者が「方法を冒頭に提示する自然科学の論文のフォーマットには、本来合わない。方法は対象の性格に依存するので、やってみたあとで、あとから確定される」(p.342)と書いているように、見る前に飛んでみる、やってみて振り返って分かる、そんなものだというのだ。
私もおおむかし論文というのを何度か書いたことがあるが、お手本の論文構成というのは、冒頭に「研究の視点」あるいは「研究の方法」として、先行研究がどうたらとか何だとか(これまでこんなことが分かっているが、こんなことは分かっていない、とか、自分の方法は過去のこれと何が同じで何が違う、みたいなこと)をまず書いて、そこからおもむろにデータ分析だとか論述に入っていくものだった。

この本の大部分を占める、4人の語りとその分析もぐぐっとくるものだったが、この方法論の章も私にはおもしろい。

▼語り手の語りたいという欲望を駆動するのは、聞き手の存在である。聞き手に理解してもらおうと思って語るのでなければ決して語られることがなかったであろう内容が、ここでは語られる。(p.347)

▼語られた経験は分析されるなかで、さまざまな〈現象の運動〉へと還元される。今や分析者にとって看護の世界は多様な現象の〈流れ〉として見えてくる。逆に言うと、現象とは〈流れ〉のことである。さまざまな流れ、これが現象学にとっての現象である。(p.356)

現象とは〈流れ〉である。
カッコイイ。
本の最後まできて、著者のあとがきを読んだら「初夏の北摂にて」とあるので、どこにいてはる人なんかなと奥付をみると、むかし私がはたらいていたことのある研究科だった。もう長らくご無沙汰の場所であるが、ちょっと親近感。


結論の章にある「行為主体の生成は、必ず共同作業である」(p.332)も印象的だった。

▼本書において主体とは、意識を持った自我のことではなく、さまざまな形をとる医療の〈場〉において、それぞれの状況に応じて異なる仕方で生成する行為主体である。行為主体は、患者と家族と医療チームのなかで紡ぎ出されるものであり、しかもそれが状況に応じて変化していく。決して単一のアイデンティティのようなものではない。
 看護師の心理的な〈自己〉は、このように変化していく行為主体を反省したり、行為主体へと応答するものとして生じている。患者もまた同じ〈場〉のなかで生成する行為主体である。看護師と患者という行為主体は「地続き」(Fさん)なのであり、そもそも共同で一つの行為主体を作るのだから、場合によっては同じ運動を異なる角度から見た現象であるという違いしかない。
 この行為主体の生成は、必ず共同作業である。しかも患者、家族、医療者という異質なパートナーたちが一つの行為主体を産み出すのである。つまり看護師や患者個人が行為主体になっていくプロセスと、両者が共同で一つの行為主体を形成するプロセスが並存する。それゆえ看護師においても患者においても孤独を脱することへと、すなわち(閉じて変化することのない思い込みの中へと)囲い込まれた状態を逃れること、そして同じことだが、いったんは切れた周囲の人たちとのつながりを結び直すことが重要になる。先に行為主体は〈場〉のなかで生成すると述べたが、実は、行為主体が〈場〉を生成するのである。ここには循環がある。(pp.332-333)


そして、看護師さんの語りと、その分析のなかのいくつか。

「想起」、誰かを思い出す、思い起こすときの、その想起の主語と目的語のこと。現在の体験よりも、思い出されたもののほうがリアルだとプルーストが考えたことの意味、著者は看護師Cさんの語りから、そのことがわかってくると書く。

▼「思い出せる相手」とは「かけがえのない人」である。もしかしたらすでに故人かもしれない「思い出せる相手」は思い出す人の生を肯定する。裏を返すと、思い出す人の生を肯定してくれる「からこそ」、かけがえのない人になる。
 (中略)
 Cさんは、かけがえのない人「が」患者さん自身「に」幸せを運んでくれると語った直後に、患者「が」自分で自分「に」幸せを運ぶとも語っている。患者「に」語りかける他者を思い出すことは、患者「が」思い出すことでもある。なので患者は想起の主語であり目的語でもあるのである。ここには想起の持つ興味深いと特徴が暗示されている。
 想起あるいは空想の主体は、思い出す私であるとともに、空想のなかで私に語りかけてくる相手でもあるのである。思い出は自然に思い出されるわけであるから、私が思い出したのか、それとも思い出のなかの誰かが私の脳裏を訪れて、私に対して思い出すことを強いたのか、どちらとも決めることは難しい。ある意味では想起において、かけがえのない人のほうから患者に呼びかけているのである。(pp.235-236)


医療の規範にやられるのではなくて、生活のなかで患者が「やりたいこと」をやれること。

▼…看護師に従うことで、実は背後の医療の規範に積極的に従うことになることを〈倒錯した欲望〉と呼んだ。それでは本当の欲望とは何か。難しいことではなく、「生活」のなかで「やりたいこと」である。病と医療に侵食されて見失いかけた日常生活のなかでの「やりたいこと」である。それゆえ「生活の質」と「自己実現」が並置される。結婚式や旅行のように、自分の家族や友人との交流を維持することである。この生活上のやりたいことを「あきらめ」ることに、Dさんは抵抗を感じている。
 実際患者が「やりたいことがやれる」ことがDさんの目標なので、その部分は「一貫して」「ぶれない」。(中略)そして患者の側が率先して規範に従属してしまうと、Dさんは「なんで?」と問うのである。
 (中略)些細でない大きなテーマはやっぱり生活をどう支援していくかっていうこと」とDさんは語っていた。(中略)生活という概念が患者が「やりたいこと」と強くつながっていることがわかる。
 (中略)
 患者は自分の日常的な希望をあきらめる。これは医療側からの介入ではなく、患者自身が医療の規範に自らを縛りつけてしまうからである。生活の流れとは日常の小さな「やりたいこと」の実現のことであり、Dさんにとって抵抗があるのは、医療の側からこの流れを遮ることなのである。
 倒錯とはこの「小さなやりたいこと」の実現を妨げる機構のことである。この倒錯に抗ってDさんが目指すのは、患者の「自己実現」である。つまり、日常生活において患者自身が病という現実を引き受けたうえで主体化していくことである。(p.147)


『援助職援助論』をまた読みなおしたくなった。

(11/6了)
 
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Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第37回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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