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障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会」へ(荒井裕樹)

障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会」へ障害と文学
―「しののめ」から「青い芝の会」へ

(2011/02)
荒井裕樹

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『季刊 福祉労働』138号の巻頭対談を読んで、読みそびれていたこの人の『障害と文学』を借りてきて読む。脳性麻痺者の文学について書いた博論の半分(もう半分はハンセン病者の文学を扱っているそうだ)にいくつか書きおろしを加えて一冊になっている。

「障害者が自身の障害に起因する苦しみや悩みを重要な動機とし、同時にそれを主題として描いた文学作品であり、またそのような作品を生み出していった一連の文学活動の歴史と意義について考えてみたい」(p.7)と、序章にはある。

そのために、この本では、花田春兆と、花田が長らく主宰してきた文芸同人団体「しののめ」、そして横田弘と、「青い芝の会」という、2人の脳性麻痺者と、2つの団体がとりあげられている。

第一部 「綴る文化」の戦後史
第二部 「いのち」の価値の語り方
第三部 横田弘の詩と思想

大規模収容施設に入れられ、あるいは自宅で家族の管理下に置かれ、社会から隔絶したところにいた脳性麻痺者たちが、徐々に仲間をつくり、自らの言葉を発しはじめるのが1950年代だという。1950年代は、日本の障害者運動の芽生えの時期でもあった。
その芽生えの一つ、文芸誌「しののめ」では何が綴られてきたか。荒井は「「障害苦」を「障害苦」として綴ることに『しののめ』の特徴があった」(p.46)といい、「痛みを痛みとして詠うことを通じて、感情の共有体を形成していくことに主眼があったように思われる」(p.46)と分析している。

同人たちは、家の中に囲いこまれ、生活の一つひとつに手を借りなければならない中で、家族との軋轢、生き難さの元凶としての親への反抗を綴っている。それは、自らの〈性〉をみつめた表現として書かれることもあった。

第二部では、「安楽死」や重度障害者の「いのち」が、誰によってどう語られてきたかが扱われている。

▼障害者にとって家族からの疎外は、最も原初的な抑圧体験として心の内に沈潜し、否定的な自己像を形成していくことになる。正確には、家族とは親密であるべき共同体であるという規範意識が作用するからこそ、そこでの疎外がより強く障害者の内面に働きかけるのであろう。(p.95、下線は本文では傍点)

脳性麻痺者たちは、"「主体」的な死の中に「主体」的な生を見い出す"というねじれた論法で、つまりは"安楽死を選べる自分"というかたちで、その主体を確認しようとしている。そこには、同時代の社会にあった「優生」思想が反映されているともいえる。

▼60年代初頭の在宅障害者にとって、[安楽死」肯定が主体性を誇示するための一つの選択肢でさえあったという点は重ねて指摘しておきたい。あるいは「安楽死」なるものが、主体性を反映し得る可能性を内包したものとして幻視されていたとも言えるだろう。(p.114)

1963年の『婦人公論』で掲載された、「誌上裁判 奇形児は殺されるべきか」という座談会のことも引かれている。石川達三、小林提樹、戸川エマ、仁木悦子、水上勉によるこの議論のなかで、するどく対立するのは、小林と水上の人間観。小林は、重症心身障害児者の施設・島田療育園を民間の草分けとしてつくりあげた人(その経緯は、『愛することからはじめよう』に詳しい)、水上は小説家であり、障害のある子を抱えた父親としても知られる。

▼両者の「人間」観の相違は興味深い。水上にとって「人間」とは、「社会」に利益を還元し得るという一定の資格を要する社会的存在であるのに対して、小林にとっての「人間」とは、「結論としまして、人間とは人間が生んだものだというのがいちばんいいのじゃないか」というように、何らの資格を要さない実存的な存在である。(p.132)

▼家族という閉塞的な空間の中で生きなければならない在宅障害者にとって、「安楽死」という言葉には、事故の主体性を誇示する一つの表現手段としての意味合いが込められていたように思われる。(p.134)

つまり、「しののめ」同人たちにとって、「主体」的な意志の有無こそが、自己の存在意義なのだった。

そして、この本で印象深かったのは、横田弘=詩人だということ。
▼近年では、障害者運動の「伝説の人」とさえ評される横田弘であるが、彼の自己表現が詩作という文学活動から始まり、また詩が重要な要素として機能してきた点について、度重なる本人の発言があるにもかかわらず、今まで本格的に問われたことがない。(p.167)

私も初めて知った。

横田は、自立闘争の一つの焦点として、親や施設管理者たちによって奪われた〈生〉の獲得を唱えた。その獲得によって、自分という一個の主体であることに賭けようとした。

▼ただし、この〈性〉や〈性欲〉といったものが、一種の社会規範であるという点は慎重に付言しておこう。自立を〈性〉の獲得と重ね合わせる認識は、時に障害者にとって危い陥穽となってきた。つまり障害者は〈性〉的主体であることを否定されてきたあまり、社会規範としてのジェンダーへの従属を安易に目指し、それがさらなる苦悩と挫折を呼び寄せることになりかねないのである。(p.171)

リブと青い芝の激突。「産む産まないは女は決める」というのは、障害のある胎児を中絶する自由をも含むのかという問いかけ。

▼〈母〉という神話の中にしか存在価値を得られない女性が子を殺し、同じ神話に秩序化された〈母〉にしか拠り所がない障害者が母への警戒を強める。ほぼ同時代に叫び声を挙げたリブと「青い芝」が見せたのは、高度成長期の閉塞的な家族の中で、自己の存在意義を仮託された最も身近な他者を「矛盾物」と認識せざるを得ない、二律背反的な〈生〉の様相であったと言えるだろう。(p.188)


この本を読んでから、ブログを書くまでの間に、横田弘さんが亡くなられた。いま、この本で引かれていた『おんなとして、CPとして』(CP女の会編)を、(近隣の公立図書館には所蔵がなかったため)国会図書館から借りてもらって、館内閲覧に通って読んでいるところ。

★181ページに表紙画像が掲載されている、横田の『障害児殺しの思想』、そのカバーの絵をどこかで見た…と思ったら、『巣窟の祭典』のカバーと同じ絵(ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」のうち"地獄"の部分、プラド美術館蔵)だった。

巣窟の祭典

(5/16了、5/17再)
 
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Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第41回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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