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生きのびるための犯罪[みち](上岡陽江+ダルク女性ハウス)

生きのびるための犯罪[みち]生きのびるための犯罪[みち]
(2012/10/06)
上岡陽江+ダルク女性ハウス

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「日本の社会では、依存症は本人の意志ややる気ではどうにもできない病気なんだっていうことは、いまだ理解されていない」(p.107)。そういう、どうにもできない病気とともに生きてきた人たちが、ひとつひとつの言葉を発し、仲間とわかちあいながら考えたこと、感じてきたことが書かれている本。

ちょっと誤解を受けそうなタイトルが案じられるけれど、これは『その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち』につながる内容。「嵐」のあとをどう生きていくかは、多かれ少なかれ、この同じ社会に生きていれば、誰にも通じるところがある。

とはいうものの、子どもとして守られるとか、自分を大切にする経験を積んでくることができなかったために、たとえば「人権」といっても、この本を書いた人たちのなかには、学校で習ってもそんなのは全然実感がなかった、という記憶がある。

それが、〈人権(仮)〉の研究という章にいろいろと書いてある。人権に(仮)とつける感覚、そういう感覚をもつ人たちがいるということは、人権教育が大事とか人権ナントカが必要とかいうときに、ほとんど全く考えられてなかったんちゃうかと思う。

憲法には基本的人権とか書いてあるし、誰にとっても当然の権利だと言われるそれが、アタリマエのものだと言われるそれが、自分のこととは思えなかった、自分にそんなものがあるとは思えなかったと。そういう人にとって、(仮)と付けずにいられない人権とは、どんなものだったか。
▼「社会の授業で「基本的人権」ということばを学んだけど、ぜんぜん実感がなかった。学校でも家でも、私にはそんなものはないんだ、としか思えなかったから」。
 みんなが共感した。学校で習うことや、世の中で正しいと言われること、つまりみんながあたりまえだと思っていることと、あたしたちの現実とのあいだには、大きなへだたりや矛盾があった。それを仲間たちは小さいころから身に染みて感じてきたということ。(p.106)

▼…あたしたちには、自分が大事にされたり、自分を大事にすることへの根深いなじめなさのようなものがある。だから、世の中と自分へのうしろめたさのようなものをつねに抱えてしまい、結果、「権利」なんてとてもじゃないけど主張できるわけないじゃん…って思ってしまう、ってことなんだ。
 〈人権〉ということばは、そんなあたしたちにとって、遠い遠いかなたにあるようなものに、どうしても感じてしまうというわけ。このことばのあとに、カッコ仮、とつけてしまうのは、こんな理由があるからなんだ。(p.109)

▼こどもとして守られた、という経験の蓄積がなければ、「信頼」や「安全」、まして〈人権(仮)〉ということばを、リアリティをもって理解することや感覚としてわかることは、とてもむずかしいんじゃないかと、あたしたちは、今回の「研究」の中で話し合った。そういうことばにどれだけリアリティがあるかは、自分が大切にされた回数とも関係あるんじゃないかという意見も出た。与えられたモノの量とは関係ないよね、という発言もあった。(p.131)

▼こころのなかにしまい込んだたくさんの気持ちを、ひとつずつこうしてことばにして、みんなで分かち合っていくうちに、あたしたちに必要なこと、そして新しい生きかたが少しずつ見えてくる。
 こういう作業は、自分じしんのいままでを見つめることにも重なって、少しつらい気持ちになることのほうが多い。でも、こうしてみると、あたしたちが必要だったもの、いま、必要なもの、そしてこれから生きのびていくために必要なもの。それは、あたりまえの、人間としての権利、つまり、正々堂々ともとめていってもいいことなんじゃないか、と思えてくる。「じ・ん・け・ん・く・だ・さ・い」って言っても、ぜんぜんいいんじゃないかって、思えてくる。(p。146)

そう思えてくるまでには、長い長い長い時間がかかる。そうして、自分も正々堂々と「人権ください」と言ってもいいのだと思えたとしても、それは思いのほか危ういものなのだと、震災を経て、川畑知江さんが"「林」と「広場」のあいだから"と題して書いている。

この川端さんの文章を読んでいて、『We』173号でくにやんが言うてたことが、いろいろと思い出された。支援て何やろっていうことも、「地域で生きる」とか「地域移行」とかいうことも。「地域で生きる」という、その場へ支援に来る人たちは、仕事が終わるとどこかへ帰っていく。ここと、支援者の帰る先は、同じ「地域」なん?それとも違うところなのか?
 
▼…支援者として林へ来てくれるひとたちとも、友だちみたいになかよくなった、でも彼らは、時間がくれば広場の明るいおうちへ帰れるんだよな、とうらやましく思う。私に帰るところはない。森の記憶は身体の中にずうっとあって、のがれられない。(p.150)

▼…震災までは、私は広場にいたよね? 私もおなじ人間なんだ、って思えてたよね? 
 でも、〈人権〉ってこんなにも、あやういものなんだ…そう思い知ったときに、ハウスでみんなとしてた話を思い出した。〈人権〉は私たちにとって、ついたり消えたりするものだ、って話を。
 「みっついっぺんになくした人をたすけるしくみは、この国にはないんだ」って、日雇いの工場の仕事へ向かう電車の中で、よく考えた。
 「住むところ」「家族、実家」「仕事」「お金」「健康」のうち、なくすのがふたつくらいまではなんとかなる。でも、みっつ重なるともう自分では抜け出せない、なのにこの国に、みっつ重なった人を助けるしくみはない。ハウスの仲間たちみたいな暴力サバイバーは「家族」「健康」をそもそも失っていることが多いのに。
 「この国に生きていてはいけない人間なんだ」。毎日そう思った。すると、からだから生きていく力が漏れていくんだ。わき腹に穴があいていて、エネルギーがどぼどぼこぼれてる感じがした。
 …(略)…
 〈人権〉は、困ったときに困ったと言えて、それが聞きとどけられて、立ち上がるのに必要な助けがあることだ。(pp.152-153)

川端さんの、「みっついっぺんになくした人をたすけるしくみは、この国にはないんだ」という言葉がつきささる。「住むところ」「家族、実家」「仕事」「お金」「健康」、このうちなくすのがふたつくらいまではなんとかなる。でも、みっつになると、なんとかなるとは言いがたい。


「仲間たちの話の中で、あたりちゃんが、虐待と記憶ということや、暴力について支援者が諭す相手を間違えてるんちゃうかと話してるところ、そしてハルエさんが、依存がどれだけよく効くクスリか、自分が楽しんではいけないと思っていた理由について話してるところは、とくに書きとめておこうと思った。

・あたりちゃんの話
▼最近、私がちょっと傷ついたのは、授業中に、記憶といつわりの話になったときかな。父親から性虐待を受けてきたっていう女の子の話なんだけど、先生が言うには、じつは、虐待を受けてないのに受けたんですということがあるとか、そもそも記憶ちがいの場合があります、って。学校の先生の言うことがすべて真実じゃないってことはわかってるけど、でもね、一度でも虐待を受けた人間はずっとおぼえてるの。記憶ちがいとかウソとか、かんたんに言わないでほしい。(p.69)

▼そういえばこのあいだ、たまたまある講演会みたいのを聞きに行ったんだけど、その中で、ある人が「売春は自傷行為だ」「売春は暴力だ」って、売春してる女の子にさとしてる、っていう話があったの。
 私はなんとなく違和感があったな。そういうふうにさとしてる人は、少女の売春にくわしくて、なんとかそれを防がなくては、っていつもがんばってる支援者だから、それじたいはすごいな、なかなかできることじゃないなって思うんだけど、でもね、とくに「暴力だ」って、さとす相手をまちがえてる気がするんだ。暴力は売るほうの問題? そうじゃないんじゃないかって。買うほうのおじさんも「こんなことしちゃダメだよ、自分を傷つけるのはよくないよ…」ってよく言うよね? じゃ、どっちもおんなじじゃん?
 あと、売春って、ほんとうにデメリットしかないのかな、って思う。…(略)…「自傷行為だ、暴力だ」ってだれかに断言されちゃうと、売春してる女の子や女の人は、どんなタイプでも、どんな事情があったとしても、全員がそれにこたえるように演技するしかなくならない?…(略)…
 それにね、なんだかそういう言いかたって、一見、正しいみたいな感じがするけど、本人に本当のことをなんにも話せなくさせてしまうんじゃないのかな。だからなんとなく私は、違和感、感じたんだと思う。…(略)…
 …(略)…
 話もどるけど、会のとちゅうで、そんなこと頭の中でぐるぐる勝手に考えてたら、主宰者のうちのひとりが「支援者が傲慢になっちゃいけないんじゃないか」って言ってくれたの。私もようするにそういうことが言いたかったのかなって思って、なんとなくほっとした。(pp.71-73)

・ハルエさんの話
▼女性の依存症なんて、あたしだってそれまで聞いたこともなかった。だから自分がそうなんだと認めることは、家族に恥をかかせることだと思っていたし、そんな自分に心底、絶望していたけれど、からだがしびれて、震えて、冷たくて、頭だけ熱くて、めちゃくちゃイライラしていた。地理とかにも混乱していて、知っているところに行きつくことができなくなっていた。(p.90)

▼依存症っていうのは、自分のこころの中に、大きな穴があいたような状態のことなんだ。
 じゅくじゅくするような、それでいて空っぽな痛み。
 それを忘れるために、「依存」ほど、よくきくクスリはない。…(略)…
 …(略)…依存症の人は、いってみれば、ずっと立ち直れない状態が続いているようなものなんだ。こころの痛みがいつまでもとまらない、自分はダメな人間で、生きている資格も意味もない、だから自分なんていつ死んでもいい、と思いつづける。
 なぜなんだろう。
 あたしの場合、ずっとあとになって気がついたんだけど、自分が楽しく過ごすことは、なくなった友だちたちのことをまるで忘れてしまうみたいで、だからそんなことはぜったいに許せなかったんだと思う。自分だけ生きのびてしまったこと、生き残ってしまったことへのうしろめたさ、って言ってもいいのかもしれない。だからあたしは楽しんだりしちゃいけないんだ、って。長いこと、それはことばにならなかったけれど、こころの奥深いところで、ずっとそう感じていたんだと思う。
 でも、そんなことはすぐにはわからないんだ。自分がなにを感じていたのかがわかるには、そしてそれをことばにできるようになるには、長い長い時間が必要だったりするものなんだね。(pp.95-96)
 
巻末の「もしも、お母さんが「死にたい」と言ったら」の章は、きっと、すごく大事なことだ。おとなも、こどもも、困ったときは「困った」と言っていいし、「助けて!!」と言っていい。なかなか言えなかったりもするけれど、そう言ったときに、ほいきたと助け船を出してくれた人が何人もいたと、ハルエさんは書く。なかなか人を信じられなくて、時間がかかっても、困ったとか助けてと言って、助けてもらえた経験を、ひとつひとつ積んでいくことで、それは自分の〈権利〉なんだと、だんだん感じられるようになるかもしれないのだ。

(2/24了)
 
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Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第39回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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