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奥むめおものがたり―女性解放への厳しい道を歩んだ人(古川奈美子)

奥むめおものがたり―女性解放への厳しい道を歩んだ人奥むめおものがたり
―女性解放への厳しい道を歩んだ人

(2012/07)
古川奈美子

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なんとなく借りてきた本。「ジュニア・ノンフィクション」というシリーズの、「日本の人物ものがたり」の一冊。ほかに入ってる人物は、芭蕉、正岡子規、若山牧水、北原白秋、滝廉太郎、丸木位里・俊、渋沢栄一、樋口一葉、野口雨情、新渡戸稲造など。私が子どもの頃に読んでいた"伝記"や"偉人伝"とは、ちょっとラインナップが違う(30年前と違うのはあたりまえか)。この本を書いたのは、むめおが参議院議員をしていた時代に秘書をつとめた人である。

奥むめおのことは「主婦連の人」というくらいしか知らずにいたが、ものすごいエネルギーで女性の生活向上に取り組み、「主婦連」に至るまでにも実に多くのことをした人だった。全国婦人会館協議会(いまの全国女性会館協議会の前身)をつくったのも、むめおだったのかと知る。
むめお(梅尾)は、1895(明治28)年に福井にうまれ、県立高女を出たあとに、日本女子大へ進み、雑誌記者になったり、女工を経験したのち、らいてうや市川房枝とともに新婦人協会を結成する。運動をやりながら、その機関誌「女性同盟」、「職業婦人」(→「婦人と労働」→「婦人運動」と改題)などの発行に携わり続けた。その経験から農協の「家の光」編集に加わったこともある。

昭和の初めには、消費者組合連盟に参加したのち、婦人消費組合協会を結成し、東京の本所に婦人セツルメントをつくって、幅広い仕事をした。

セツルメントでは、保育園をつくり、共同炊事をはじめ、生活の合理化をうったえて、消費組合をつくった。誰でも学べる部屋をつくり、上京してくる女性たちのために宿泊部や職業相談部をもうけ、産児調節相談部もつくった。こうした動きから、「働く婦人の家」がうまれている。

むめおたちの活動からうまれた「働く婦人の家」が、自治体によっては今もある「働く婦人の家」と同じルーツなのかどうかは、私にはわからないのだが、それは若い会員たちのこんな声からうまれたという。
▼「みんなの家がほしいわね。仲良く宿泊して共同炊事やおふろにも入りたいし、勉強もできる部屋がほしいわ。名前は『働く婦人の家』というの」(pp.142-143)

昭和8~10年頃に各地にできた働く婦人の家は、毎日毎晩開放され、定期的に講座や講習会をひらき、やがて就職相談、健康相談、結婚相談などの窓口もつくった。
▼「働く婦人の家」はおたがいに助け合い、励ましあい、相談しあって自主的に運営する。すなわち、みんなが利用者であり、経営者である。という精神で社会と結びつく。
 これがむめおのセツルメントや社会事業の理想です。(pp.148-149)

戦争で、むめおは情熱を注いできた仕事をうしなってしまう。雑誌「婦人運動」廃刊、セツルメントを訪れていた子どもたちは集団疎開に行ってしまい、空襲で働く婦人の家は焼けてしまった。

一方、戦争で実現したこともあった。
▼戦争が激しくなると、生活の合理化、社会化を進めるために、労働条件が保護されていきむめおの夢が現実化していきます。働く女性のための共同託児所や共同炊事実施組合ができていきました。むめおが、どんなに要請してもかなわなかった、働く女性の労働条件が戦争の影響によって実現したのです。(p.156)

暮れに亡くなった、ベアテ・シロタ・ゴードンの話も出てくる。ベアテは、新憲法草案をつくる際に、社会保障と女性の権利の項目を担当していた。
▼…むめおたちが新婦人協会で朝に晩に足をすり減らして議員たちに陳情を繰り返しても手に入れることができなかった、あの、婦人参政権が思いがけなく与えられたのでした。
 女性は政治の話を聞きに行くことさえ許されなかった権利が、思いもかけず、このとき、はらりと日本女性の手許に降ってきたのです。
 むめおは戦争に負けて与えられたという、なんとも皮肉な現実に、戸惑い、喜び、複雑な思いで女性の権利への道のりの長かった27年を振り返ります。(pp.174-175)

戦後の第一回参院選(1947年)に、「これから女性たちの代弁者として働こう」と、むめおは立候補、以後3期、18年をつとめる(緑風会で活動)。「台所と政治を結ぼう」という議員活動で、「消費者として、主婦として、女性としての声」をどのようにしたら議会に持ち込めるかを考え、動いていく。

生活の不満や不安を出しあい、それを生活をよくする運動にしていこうという主婦大会が各地に広がっていく。1950年前後には、各地で民間の婦人会館が建設されていった。そうした動きもあって、主婦連の会館がほしい、理想的な会館がつくりたいという思いは会員たちの資金集めとなって、1956年には主婦会館ができた。

▼この主婦会館ができたことで、間もなく各県には県立婦人会館、私立婦人会館ができていきました。
 昭和52年、埼玉県嵐山町に国立女性教育会館が設立されます。これらの会館が横の連絡を取りながら活動するために、全国婦人会館協議会も結成されます。(p.223)

あまりにさらーっと書いてあって、1950~1970年頃の間のことがいまいちよくわからないが、少なくともむめおたちがつくった会館は、女性たちの「こんな場がほしい」という希望でつくられたんかなーと感じた。

この本のなかで、むめおの息子・杏一のことや、娘・紀伊のことは、けっこう出てくるのだが、夫の奥栄一のことはほとんど出てこない。結婚の頃を書いたところに「翻訳などをして生活を立てていた売れない詩人」(p.53)と書いてあるくらいで、どうもよくわからない。むめおがこれだけの活動をしていて、夫はどうしてたんかなーと思う。巻末あたりには、主婦連の活動に「夫が誘って、その妻が加わる」人もいたことが書かれていて(高田ユリや細川かうなど)、各地の会員を訪ねたときには「主婦連の活動のために、お宅の奥さんをお借りして…」と詫びたりもしていたというむめおは、自分の夫との間ではどんなんだったのか、気になる。

「着物やリボンは買ってくれませんでしたが、子どもたちには書物だけは何冊でも自由に買いたいだけ買ってもよいと快く支払いをしてくれた」(p.21)というむめおの父は、兄を中学校へ、長女のむめおを女学校へと進学させてくれた。子どもたちの読書や勉強にはおおらかだったという父は、妻(むめおたちの母)に対しては暴君で厳しかったという。むめおの母は7人の子を産み育て、家業をたすけ、使用人の世話をし…と過酷に働いて身体をこわし、33歳の若さで亡くなった。

むめおの活動の根底には、この父と母の姿があるのだろうと思う。

1997年に101歳で亡くなったむめお、そういう、いわば「現代」の人が、こういう伝記の類に書かれるようになってきたんやなーと思う。むめお自身の自伝『野火あかあかと』も読んでみたい。

(1/3了)
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行。最新は98号

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第120回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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