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エネルギーと放射線の授業)(「現代」の授業を考える会)

エネルギーと放射線の授業エネルギーと放射線の授業
(2011/11/24)
「現代」の授業を考える会

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Weフォーラムの第3分科会で来ていただいた坂内智之さんの話を次の『We』に掲載するための編集作業中に、坂内さんの授業実践記録「福島に生きる子どもたち」を読もうと図書館で借りようとしたら、スムーズに借りることができなかった。誰も予約しておらず誰も借りていない図書館の所蔵本があるにもかかわらず、通常のようにネット予約もできず、数日待ってからやっと「一夜貸し」という非常の借り方をさせられた()。

しかたがないので、「一夜貸し」で坂内さんの授業実践をまず読んで、あとの人の授業記録も読む。「はじめに」で平林浩さんが「「わからないことはわからない」と言えるわたしたちに」と書いているのがよかった。

▼わからないことをわからないと言うことのたいせつさは、科学・技術の知識だけではない、社会のありかたについてもである。「なぜ東京電力の電気代は高いの?」と問うことで、社会の根本が問いなおされていく。
 「だまされていた」と思ったら、わたしがだまされたわけを問うことも、わからないことをわからないと言うことのひとつ。(p.4)
まえにビッグイシューの170号195号で読んでいた非電化工房の藤村靖之さんの特別授業「非電化生活のススメ」がおもしろかった。どうして「非電化」なのか、藤林さんはこう書いている。

▼…電気を否定するのではなく、電気を使うのがあまりにもあたりまえになりすぎていることを、あえて電気を使わずに愉しくやってみる、これが「非電化」の定義です。「非電化」から入ってもらって、「豊かさ」や「幸せ」について、考えなおすきっかけにしてほしかったのです。
 アインシュタインはこう言ったそうです。「ある問題をひきおこしたのと同じマインドセットのままで、その問題を解決することはできない」。マインドセットっていうのは「こころの枠組み」、「そういうもの」という考え方しかできないように固まってしまった状態のことです。(p.85)

▼…宣伝は自粛しているものの、いまだにオール電化住宅というものを売りだしています。…(中略)…快適な生活にはオール電化しかないと思い込まされている。ほかに選択肢はないような気分にさせられている。だから、ぼくは電気を使わなくてもホドホド快適で愉快な生活ができる「オール非電化住宅」をつくってみせることでそのマインドセットをほどいていきたい。みんなぼくと同じにするべし、なんて言いたいのではなくて、見た人が、「なるほど、これだけの選択の幅があるのか」と気づいてくれればいいんです。(p.87)

この藤村さんの話は、やはりWeフォーラムの全体会で聞いた武藤類子さんの「自分自身の脱原発」の話につうじるものがある。こんなふうにも暮らせる、工夫するのが楽しい、と。

Weフォーラム分科会での坂内さんの話を整理するなかで、「放射線の授業と反原発はちがう」という箇所があって、そこのところが私には、もひとつすんなりとお腹に落ちなかったのだが、この本で平林浩さんが「放射線って、なんだろう?」の授業について書いているなかで、そうかと思ったところがあった。

▼安全性や許容量という概念は、科学の概念ではなく社会的な力関係で決まってくるものです。人間第一で考えるか、経済優先で考えるかでも違ってきます。
 評価がきちんと定まっていないものの教育はむずかしいところがあります。ですからこの授業では、原子力発電をどうするかという問題には直接には触れることはしません。
 また、放射線量の安全の問題については実験結果(経験もふくめ)がはっきりしていること以外は、はっきりわからないという扱いをしていきます。
 放射線というものをできるだけきちんと知るということが基本です。(p.97)

評価が定まったようにみえて、あとでひっくりかえることもあるんやし、そこをどう考えていくのか、わからないことをわからないままもっとくのって大事やなとほんまに思う。もうずっとずっと前に読んだ森毅の『数学受験術指南』を久々に読みなおしたくなった。「わからへん」こととつきあうというのを、私はこの本ではっきり意識した気がするので(この本は今年、中公文庫になったらしい)。


図書館がこの本を「教員向け」として、市内の小中学校に勤務する教員以外は借りられない、という措置をしていて、私はこの本を出した太郎次郎社エディタスの方から「先生だけでなく、いろんな人に読んでもらいたい」と聞いていただけに、なんちゅうことをしてるねん!と思ってしまった。

副本がある本ならまだしも、市内に1冊しかない本は、たとえ教員が借りるにしても、どなたかが借りていたら、別の人は借りられないわけでしょう? 一般貸しをしていたとして、その本が戻るのを待つのも同じではないのでしょうか、教員向けと特段の囲い込みをする必要があると思えないし、教員向けと囲いこんで一般貸しをしないならば一般の利用者が蔵書検索をしたときに表示しないでほしい(予約手続きの最後の段階で「制限してます」とアラートが出る)、もともと学校の教員にしか資料を貸さない教育センターで所蔵したらいいのではないのですか?

…などと言ってみたが、「誰も借りていない、予約もない本」は、教員向けにしか貸さないので、一般には館内閲覧か一夜貸ししかできないということになって、目の前に本があるのに、借りられず。教員向けの貸出を"優先"してもいいと思うし、学校教育がどうでもいいと言いたいわけではないが、一般貸しをしないというほどの資料の囲い込みが必要なのか??

図書館の本は誰でも借りられるんじゃないのか!!
どうなってんねん。

いったいこの仕組みがどこでどう決まって、何のためにおこなわれているのか、経緯をおしえてほしいと図書館の人に依頼(その回答は1ヶ月ほどたつがまだない)。

さらにいえば、私が数ヶ月前にリクエストした別の本も、この「教員向け」資料になるらしく、私のリクエストはヨソの図書館からの相互貸借になると言われ、しかもそのヨソの図書館で予約がたくさんついてるので、だいぶ先になりますと言われたのだった。

「教員だけが知っている」「生徒や一般人は知らない」というような知のありかたをつくりかねないこの措置は、この本をつくった人たちからしたら、全く逆の使われ方だろう。

教員向け資料の指定は「教職員が、これらの資料をカリキュラム作成や教材づくりなどのために利用することを通して、学校教育に資することを目的ととしています」というのだが、ほんまに資するんかなーとかなり疑問。

だいたい、副本もない、一般に買うことも難しくなっているような古い本も、この資料の指定を受けていたりして、すぐ近くに本があるのに、読ませへんのか!とかなりムカつく。

図書館が昨年出した自己点検報告書を読んでみると、この教員向け資料の整備は、「学校図書館と公共図書館の蔵書を一体的かつ効果的に活用する環境を整備することにより、児童生徒の読書活動を促進し、自ら学ぶ力を育成する」ことを目的とする」とかいう事業の一環だというのだが、それこそ児童生徒が借りられず、教員だけが借りられるという非対称な扱いの本をつくることが、そういう目的に資するのだろうか?とやはり疑問はつきない。

※その後、9月に入って1週間ほどしてからこの本をヨソの図書館からの相貸で借りた。その頃には坂内さんの原稿整理はほぼ終わっていて、「一夜貸し」で読んだものの、原稿をまとめる際にこの本を手許で参照したかっただけに、なんなんかなーー、この制度…という思いは消えない。

(8/24了)
 
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Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第41回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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