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『人間を見つめて』初版(神谷美恵子)

『人間をみつめて』初版 朝日新聞社 昭和46年8月20日第1刷発行

向井承子さんの詩の引用(『We』179号「往復書簡」)がきっかけで、神谷美恵子の『人間をみつめて』を版違いで借りてきて読む。これらの本の大部分は同じだが、少しずつ内容が違う。

最初に借りてきた初版は、朝日新聞社から1971年に出たもの。版違いの本を並べてあっちを読み、こっちを読みしていて分かったことは、朝日の初版のIII部「忘れ得ぬ人びと」に収録された文章のうち、以下のものが、1974年の改訂版では削られ、その後のみすず書房版でも復活していない(他の本に入っているのかもしれないが、今のところ、ネット検索の範囲では発見できず)。

第III部「忘れ得ぬ人びと」のうち、改訂版で削られた文章と、その初出

「ミッシェル・フーコーとの出会い」…初出『みすず』誌 1969年5月号
「シモーヌ・ヴェーユの軌跡」…初出『神戸女学院大学新聞』1970年10月20日号
「新渡戸稲造の人格形成」…『からだの科学』誌 1971年1月号
「ヴァジニア・ウルフの夫君を訪ねて」…1967年『ももんが』誌より『英語英文学世界』誌 1968年3月号に転載

*『ももんが』誌については、この後に収録されている「光田健輔の横顔」(これは改訂版以降もずっと収録されている)の注記に、「田中隆尚氏が主宰する同人雑誌、高崎市…、ももんが発行所、月刊」とある。

この削られてしまった文章群がひじょうにおもしろかった。
1963年9月に、ユネスコの会議に出席中の兄(前田陽一)に迎えられてパリへ入った神谷美恵子は、ある本屋のおやじさんからフーコーを教えられる。近頃出た精神医学史ではあれがいちばんよく出ましたよ、と。『狂気の歴史』を本屋で早速求め、扉を開けると、「この本は、ある驚いた人が書いたものである」と書き出しの紹介文が記されていたという。

▼おどろきほどすばらしいものはない。ゆえに、これほど魅力的な紹介文はない。早速この書物をかかえて帰り、ホテルの室にとじこもって、読みふけった。読んでゆくうちに、この本は、今まで読んだどの精神医学史とも、アプローチがまったくちがうことがわかった。…フーコーの本は、精神病者自身がたどってきた歴史を記そうとしているのだ。しかも、なぜそういう歴史をたどらねばならなかったかを明らかにしようとする。(p.206)

フーコーに魅入られた神谷美恵子は、兄と食事をしたときにその話をすると、なんと兄は、フーコーもユネスコに関係しているので、よく会うと言い、明日は自分を訪ねてくることになっているから、よかったら一緒に会わないかと言うのだ。そして翌日、兄の紹介で神谷美恵子はフーコーに会い、1時間ばかり話をしたそうだ。

そのときのフーコー描写がおかしい。
▼…まだ四十代のはじめであろう。すらっとした、鋼鉄のような感じの人だが、ちょっとたこ入道のような頭をしていて、眼光は矢のように人を射る。(p.208、「たこ」には傍点)

その後、神谷美恵子はフーコーの著作のうち、『臨床医学の誕生』(最初の訳は1969年)、『精神疾患と心理学』(1970年)を訳してもいる。

ヴェーユについては、『根をもつこと』から斬新なトピックを拾い上げた紹介文。
▼ヴェーユのマルクス主義批判にはいろいろな側面があるが、最も激しく衝いている点の一つは、この思想が結局人間を越えるものへの憧憬をみたすものを持たず、そのくせプロレタリアートを偶像化し、これを未来の理想社会の担い手としてあがめる一種の宗教になっている、ということであった。
 この批判もただ机上の空論ではない。ヴェーユはみずから労働者になってみて、労働者であることとはどういうことか、その苦しみと不幸とをみずから味わい、たしかめてみた上のことである。(p.221)

そして、大学生たちに、こう呼びかけている。
▼邦訳されているので、直接読んで考えていただきたいと思う。いかなる思想にも批判の余地はあろうが、ヴェーユの場合、彼女の考えはすべて彼女がその生涯をかけて「みずから生きた思想」である。これは動かすことのできない重みであると思う。(p.226)

新渡戸稲造というと、前の5千円札だった人だ。その人が、躁うつ病だったのではないかという話が、新渡戸の生涯についての要約した紹介とともに書かれている。新渡戸は、神谷美恵子の両親の実質的仲人で、神谷にとっては祖父のような存在であったという。
▼あの慈愛あふれる、おおらかな人格は、おのれの弱さを知ることの深さと、これを矯正しようとする努力の大きさに比例して築き上げられたものであろう。しかもなお、どうすることもできない不安定な弱さを自覚していた。そのことへの絶望の深さに比例して、ひとすじに他力への信仰を一生貫いたのであろう。彼はよく人生の悲哀や寂しさについて語り、かつ書いた。まさに悲しみを知る人であったからこそ、他人への思いやりも深かったのであろう。(p.239)

1966年11月、ウルフの夫君を訪ねた旅の報告は、夫君と5時間ほど話したことを書きとめたもの。ヴァジニアも躁うつ病だったという。ヴァジニアのたびたびの自殺企図を妨げるために、夫君がどんなに苦心したか。
▼しかしまた、彼女が59歳のとき、ついにウーズ川に身を沈めてしまった際、ウルフ氏は自分の監視の眼が行きとどかなかったことを深くなげきこそすれ、罪障感は感じなかった、といかにもこの人らしい正直さで記している。躁うつ病の自殺というものは、予防への努力をつくしたあとでは、そういう風に受けとめるべきものなのだ、と私も数々のにがい経験ののちに思うようになっている。(p.248)

神谷美恵子が、雑談の途中でウルフ氏の次の発言に不意を突かれたと書いている。私も、ちょっとぎょっとした。
「私はね、ある日のこと、ここでひとり死んでいるのを発見されるわけですよ」(p.252)

フーコー、ヴェーユ、新渡戸、ウルフと、これらの4つの文章は改訂版からは削られたが、このIII部から、その後の版にもずっと収録されているのが「光田健輔の横顔」である。長島愛生園の初代園長で、神谷は光田との出会いと、その印象の強烈さによって、その後の自分とらいとの関わりがあると書く。

私には、光田健輔というと、ハンセン病の隔離絶滅策を推進した中心人物のひとりという思いが強く、神谷美恵子が光田を「偉大な人」と書くことにどうしても違和感があった(たとえば、映画『もういいかい~ハンセン病と三つの法律~』でも、光田のことは厳しく批判されている)。

久しぶりに神谷美恵子を読んで、光田健輔のしてきたことを、どう捉えたらいいのかと、また考える。神谷も「光田健輔の横顔」の中で、「戦後、サルフォン剤でらいが治るようになってみると、患者さんを強制的に隔離収容するという政策がにわかに非人道的なものに見えてきた。光田先生が主張された方針が、園内からも外国からも非難されるようになった」(「らい」には傍点)と書き、一方でまた園内の患者には「いったい、どうして光田先生を尊敬してはいけないのだ」と号泣する人があったことも書きとめている。

このことについて、向井さんからは、「神谷さんが彼を「偉大な人」と思った時代には、地域で差別の底におかれていた患者たちを救済する意味もあったのではないか」と伺った。1984年生まれの大野更紗さんが育った地域社会には、ハンセン病者を出した家に対する差別がまだ明らかにあった(『福祉労働』135号)ということも考えると、「救済」はいつ頃「隔離」と批判されるようになったのだろうか、とも思う。向井さんが40代で長島愛生園を訪ねたときは、隔離収容の戦犯として光田の銅像がうち壊された直後だったとのこと。そういう時代の変化もあわせて、神谷のことも光田のことも、考えなおしてみたい。

(8/11了)
 
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Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第41回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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