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重い障害を生きるということ(高谷清)

重い障害を生きるということ重い障害を生きるということ
(2011/10/21)
高谷清

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著者の高谷さんは、「はじめに」でこう書いている。
▼本書を執筆しようと思ったのは、多くの方に「重症心身障害」の状態で人生を生き、生活している人たちのことについて知っていただきたいのと、「ほんとうに、生きているのが幸せなのだろうか」という自分自身の問いでもあることに答えたいと思ったことからである。

 それは、人が「生きるということ」について、またひとの「生きる喜び」、人の「生きがい」などについて考えていくことになる。それは、人間というのはどのような存在なのか、どのような生きものなのかということ、さらに社会の在りようにも広がっていくと思うのである。(pp.ii-iii)

この本を読んで1週間ほどして、6歳未満の子の脳死臓器提供があった。ニュースではその子は「低酸素脳症による重い脳障害」と書かれていたが、どういうやりとりがあって、どういう説明と納得があって、「脳死」「臓器提供」になったのかを知りたい、と思う。

気になるのは、「尊い決断」と書かれていること。臓器提供が"尊い"と言われてしまうのは、まるで"尊厳"死と同じやと思う。それを選んだものは尊ばれ、選ばないものは尊ばれないのだとしたら? 

高谷さんが書いてゆく「心身に重い障害のある人たち」の存在のこと。身体や記憶と並んで、「意識」について書かれたところ。「意識」とは、医学においては「外からの刺激に対する反応」として捉えていることを示したうえで、高谷さんは問いかける。

「反応」がなければ「意識」はないか?
高谷さんは、従来の「意識」や「反応」ではつかみきれないものがあると、外面感覚、外在意識/内面感覚、内在意識と言葉を分けて説明をこころみている。

▼心身の障害が重いときには、外界の状態を認識することができず、内面の状態についても意識的には感じることができない。しかしその人は生きており、内外の環境に対して反応し、自らを変化させている。それは、その人の脳がその役割を担っているというのではなく、生命体全体として感じて、反応しているように思える。…(中略)…障害があっても身体の各器官が全体として一定の秩序をもって存在し、はたらいているといえる。それらは不安定でもあり、有効性からいえば定かではないが、生きてはたらいており、それは生命体を維持・発展させる方向に動こうとしているはずである。その状態がよくはたらいていると、「快という状態になるのではないかと思う。(p.78)

そして、「わかる」ということを、関係のあいだにあるものとして高谷さんは書く。
▼…親しい人とは親しい関係や表現になるし、きょうだいにはきょうだいの、ちょっとこわい権威のある人や友だちとの間でも、それぞれの関係が反映される。そしてそれは、人間社会でふつうにある状態であり関係である。
 
 そのあたりまえのことが、重症心身障害児(者)と他の人との関係でも、あたりまえに存在するということなのだろう。「反応」ではなく、「人間関係」ということで理解していかねばならないのだと思う。(pp.97-98)

全く知らない人間には、重い障害のある本人さんの表情や反応は、一見すると「なんの反応もない」「なんの変化や感情もない」と見える状態だが、親やなじんだ職員には、反応がわかってくる。そのことを高谷さんは最初、職員「が」なじんだから細やかにわかるようになってきたのだと考えていた。しかし、実はそうではなくて、本人「が」なじんできた職員に安心して自分を出せる、表現できる、からだがそのように反応するようになってきたのが実際だという。

そうした重い障害を生きる「存在」についての検討を経て、高谷さんは脳の役割を、身体機能や精神機能を「統合する」はたらきだと書く。けっして他の器官を「支配」する「中枢」ではないのだと。

▼器官的には「脳」が、そして機能的には「自意識」や「理性」があるから人間ということではなく、人間の各器官が統合的に有機的にはたらくことが大事であり、それぞれの臓器、器官がその役割を果たしているように、脳は「統合する」という役割を分担しているということである。…それら全体によって人間なのである。「からだ」も「こころ」も、そして「脳」も含めて、「いのち」であり、「人間」であり、そのことが大事なのである。(p.103)

重い脳障害と診断された6歳未満の子の「脳死」、そして「臓器提供」は、「脳」が中枢で、意識は反応だという捉え方の延長にあるのだろう。

昨日読み始めた『治療という幻想』(四半世紀前の本)には、こうあった。

▼…例えば脳死というのは、過去の死とは異なり、ごく一部の人間だけが判断できる死である。いかに道徳化され、客観化されようとも、特定の人間にしか生や死が判断できないほど、人間の生や死が一般の人間の手の内にないことこそ、基本的な倫理的問題であるはずである。しかし、実はここでも、…合目的性が表面上の倫理以上に重要なのである。すなわち、より有利に生きられる人間のために、より死のせまった不利な人の臓器が役立つ方が合目的であるという思想が、すでに絶対的な道徳律として私達を貫いている。…(p.20)

(6/7了)
 
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Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第43回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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