遊びを育てる―出会いと動きがひらく子どもの世界(野村寿子、佐々木正人)
![]() | 遊びを育てる 出会いと動きがひらく子どもの世界 (1999/06) 野村寿子、佐々木正人 商品詳細を見る |
向井さんの本のなかで私のスキな『たたかいはいのち果てる日まで』で描かれる中新井邦夫さん。そのお嬢さんが野村寿子さんで、障害のある子どもの遊びのことを書いた本があると『We』読者のSさんに教えてもらって、図書館で借りてきたのがこの本。
とべバッタ?!と思ったら、やはり表紙の絵は田島征三の『とべバッタ』だった。裏庭にバッタが跳びだしてきて、そのバッタがつくりだした空間が「バッタの動きとバッタの作る空間を共有することで、だんだんと一つの集団になっていく」話が4章(環境が引き起こす子どもの動き)と、巻末の対談で語られている。
そのバッタの話がよかった。
跳びだしてきたバッタを一人の子がみつけ、なんだか楽しそうな友達の様子につられてほかの子どもも寄ってくる。バッタは子どもらに囲まれて逃げようとして跳ねまわり、そのバッタの姿をそれぞれの子が目で追っている。バッタの動きにあわせて子どもらの体も動く。
その子どもの様子を撮ったビデオを見ながらの巻末対談。バッタは一回一回跳びかたが違い、跳ぶ方向も意外に予測できない。こうしたらこう動くということが分からない、予測できないおもしろさ。チョウチョやセミと違って、バッタは見えるところに止まってくれるし、動きを目で追える。だからバッタ遊びは長く続くという。
バッタの一跳びに子どもらの注意が集まって、広すぎず狭すぎない時空ができる。ノミの一跳ねだとまた違うだろうし、カメの動きだとここまで盛り上がらない。カブトムシでもカタツムリでもまた違う。バッタだからこそ、友達と一緒のこんな空間ができる。
バッタがつくりだす空間、その環境の働きかけと子どもの動き。
野村さんはこんなふうに書く。
大人は、自分の体の使い方をよく知っていて、自分の意思のもとにいろんな動作を行っていると思い、子どもの遊び行動を考えるときにもそれをあてはめて、「子ども自身の意思+それを可能にする運動機能」に分解できると考えてしまう。そして、障害のある子、遊びに気持ちを向けることが難しい子や、気持ちがうまく動きにつながらない子を前にすると「遊び」を成り立たせようと、子どもの動きや遊び環境を操作しようと援助しがちだ。
▼しかし、手を出すのを少し待って彼らの様子を見ていると、環境は、私たちが意図的に操作しようとするよりもはるかに豊かに子どもたちに働きかけ、それに応えるように子どもの動きが引き出されていることがわかります子どもたちが自分で決定して行っていると思っている行動の多くが、環境との相互作用によって成り立っているのです。(p.107)
だから、援助をするならば、その子の運動能力がどうとかよりも、それぞれの子が「出会った環境に気づき、柔軟に感じとる能力」ではないだろうかと。
作業療法士である野村さんは、子どもの遊びに関わることで、障害をもつ子どもの「楽しい!」の幅を広げたいという。
▼…"生きる力"を育てる遊びとは、だれもが日常的に経験しているごく普通の遊びのことをさしています。発達遅滞の子どもだから、重度の障害をもっているからといって何も特別な遊びを用意する必要はありません。必要なのは、普通の遊びをそれぞれの子どもたちがあたりまえに体験するための特別な配慮です。(p.ii)
▼私は、障害をもつ子どもの問題は「障害がある」ということではなく「障害があることによって、大切なあたりまえの遊びや生活が見えなくなってしまうこと」ではないかと思うのです。(pp.22-23)
▼私は、子どもの機能的な障害を、直接"遊べない"につなげないようにするところに、作業療法士の役割があると考えています。すべての子どもが持っている「遊びたい!」という欲求が見えなくなってしまう前に、動くことが難しいけど遊べるんだということを、子どもたちに伝えていきたいと思います。(p.33)
野村さんのようではない専門家もたぶん多くいるのだろう。「障害をもつ子どもの遊びを考える時に、子どもの障害に遊びの方を合わせて特殊な働きかけをすることが専門的だとする傾向が強い中で」(p.136)、この本に書かれているような子どもとの関わり、支援のあり方は、「あたりまえの遊びをあたりまえに」という野村さんの言葉に共感するわかたけ園のスタッフがいて成り立ってきたという。
遊びは、基本的に自発的な活動で、自分のもつ力で環境に働きかけ、試行錯誤を繰り返す活動、環境との相互作用の中で起こるものなのだと野村さんは書く。
▼子どもが自分で決定したかのように見える動きでも、実は環境の持っている性質に自分の体を合わせることによって引き起こされた行動であることが多いのです。台があると立ち上がりたくなり、斜面があると上りたくなり、トンネルがあると覗きたくなります。…環境に働きかける力が弱いように見える子どもであっても、子どもの動き出したくなるような環境を用意することで、自発的な動きを引き出すことができます。そして子どもは、自分の持っている力を精一杯使って遊び、自分の力で遊びを広げながらステップアップしていきます。"遊びの中で育つ"というあたりまえの姿を、環境の持つ力を借りながら、援助していくことができるのです。(pp.46-47)
支援といい援助というけれど、それは、「援助する人」と「援助される人」との「あいだ」にあるトクベツなことじゃなくて、「援助される人」と「環境」との関わりあいに、ちょっと手を添える感じかなと思った。
訓練室ではなかなか引き出せなかったような動きが、偶然出会った遊び環境のなかで出てくる。そんな場面にさまざま立ち会ってきた野村さんのこの言葉に、何を支援するのかということがあらわされていると思う。「どれだけ訓練を積み重ねてきたかという以上に、どれだけいろいろな環境と関わり合いながら生活してきたかということが、子どもの成長の過程において大切なことだと考えています。」(p.103)
野村さんが作業療法士の養成校に入った年に、父の中新井邦夫さんは亡くなり、野村さんは父から直接に何かを教えてもらうことはできなかったという。その父が娘に残してくれたキーワードが"遊び"。学生の頃に、泣きながら訓練する子どもを見て疑問を感じた野村さんは、"遊びを育てる"という新たな試みにとりくんでいく。
この本にたくさん収められている子どもと野村さんの写真からは、子どもらの遊びにはまった楽しさと、遊ぼうとする=生きようとする気持ちを育てたい思いが伝わる。
(3/29了)
その子どもの様子を撮ったビデオを見ながらの巻末対談。バッタは一回一回跳びかたが違い、跳ぶ方向も意外に予測できない。こうしたらこう動くということが分からない、予測できないおもしろさ。チョウチョやセミと違って、バッタは見えるところに止まってくれるし、動きを目で追える。だからバッタ遊びは長く続くという。
バッタの一跳びに子どもらの注意が集まって、広すぎず狭すぎない時空ができる。ノミの一跳ねだとまた違うだろうし、カメの動きだとここまで盛り上がらない。カブトムシでもカタツムリでもまた違う。バッタだからこそ、友達と一緒のこんな空間ができる。
バッタがつくりだす空間、その環境の働きかけと子どもの動き。
野村さんはこんなふうに書く。
大人は、自分の体の使い方をよく知っていて、自分の意思のもとにいろんな動作を行っていると思い、子どもの遊び行動を考えるときにもそれをあてはめて、「子ども自身の意思+それを可能にする運動機能」に分解できると考えてしまう。そして、障害のある子、遊びに気持ちを向けることが難しい子や、気持ちがうまく動きにつながらない子を前にすると「遊び」を成り立たせようと、子どもの動きや遊び環境を操作しようと援助しがちだ。
▼しかし、手を出すのを少し待って彼らの様子を見ていると、環境は、私たちが意図的に操作しようとするよりもはるかに豊かに子どもたちに働きかけ、それに応えるように子どもの動きが引き出されていることがわかります子どもたちが自分で決定して行っていると思っている行動の多くが、環境との相互作用によって成り立っているのです。(p.107)
だから、援助をするならば、その子の運動能力がどうとかよりも、それぞれの子が「出会った環境に気づき、柔軟に感じとる能力」ではないだろうかと。
作業療法士である野村さんは、子どもの遊びに関わることで、障害をもつ子どもの「楽しい!」の幅を広げたいという。
▼…"生きる力"を育てる遊びとは、だれもが日常的に経験しているごく普通の遊びのことをさしています。発達遅滞の子どもだから、重度の障害をもっているからといって何も特別な遊びを用意する必要はありません。必要なのは、普通の遊びをそれぞれの子どもたちがあたりまえに体験するための特別な配慮です。(p.ii)
▼私は、障害をもつ子どもの問題は「障害がある」ということではなく「障害があることによって、大切なあたりまえの遊びや生活が見えなくなってしまうこと」ではないかと思うのです。(pp.22-23)
▼私は、子どもの機能的な障害を、直接"遊べない"につなげないようにするところに、作業療法士の役割があると考えています。すべての子どもが持っている「遊びたい!」という欲求が見えなくなってしまう前に、動くことが難しいけど遊べるんだということを、子どもたちに伝えていきたいと思います。(p.33)
野村さんのようではない専門家もたぶん多くいるのだろう。「障害をもつ子どもの遊びを考える時に、子どもの障害に遊びの方を合わせて特殊な働きかけをすることが専門的だとする傾向が強い中で」(p.136)、この本に書かれているような子どもとの関わり、支援のあり方は、「あたりまえの遊びをあたりまえに」という野村さんの言葉に共感するわかたけ園のスタッフがいて成り立ってきたという。
遊びは、基本的に自発的な活動で、自分のもつ力で環境に働きかけ、試行錯誤を繰り返す活動、環境との相互作用の中で起こるものなのだと野村さんは書く。
▼子どもが自分で決定したかのように見える動きでも、実は環境の持っている性質に自分の体を合わせることによって引き起こされた行動であることが多いのです。台があると立ち上がりたくなり、斜面があると上りたくなり、トンネルがあると覗きたくなります。…環境に働きかける力が弱いように見える子どもであっても、子どもの動き出したくなるような環境を用意することで、自発的な動きを引き出すことができます。そして子どもは、自分の持っている力を精一杯使って遊び、自分の力で遊びを広げながらステップアップしていきます。"遊びの中で育つ"というあたりまえの姿を、環境の持つ力を借りながら、援助していくことができるのです。(pp.46-47)
支援といい援助というけれど、それは、「援助する人」と「援助される人」との「あいだ」にあるトクベツなことじゃなくて、「援助される人」と「環境」との関わりあいに、ちょっと手を添える感じかなと思った。
訓練室ではなかなか引き出せなかったような動きが、偶然出会った遊び環境のなかで出てくる。そんな場面にさまざま立ち会ってきた野村さんのこの言葉に、何を支援するのかということがあらわされていると思う。「どれだけ訓練を積み重ねてきたかという以上に、どれだけいろいろな環境と関わり合いながら生活してきたかということが、子どもの成長の過程において大切なことだと考えています。」(p.103)
野村さんが作業療法士の養成校に入った年に、父の中新井邦夫さんは亡くなり、野村さんは父から直接に何かを教えてもらうことはできなかったという。その父が娘に残してくれたキーワードが"遊び"。学生の頃に、泣きながら訓練する子どもを見て疑問を感じた野村さんは、"遊びを育てる"という新たな試みにとりくんでいく。
この本にたくさん収められている子どもと野村さんの写真からは、子どもらの遊びにはまった楽しさと、遊ぼうとする=生きようとする気持ちを育てたい思いが伝わる。
(3/29了)
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