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「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか(開沼博)

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか「フクシマ」論
原子力ムラはなぜ生まれたのか

(2011/06/16)
開沼博

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『We』で「遊びをせんとや生まれけむ」を書いてもらっている西川さんが『「フクシマ」論』を読んでいると聞いて、図書館の本を調べたらほとんど予約もついてなくて、年末にまわってきた。編み物の手を動かしながら、ゆっくりゆっくり読んだ。

この本は「原子力ムラ」をテーマに、「中央と地方」と「日本の戦後成長」の関係を論じた修士論文がもとになっている。「原子力ムラ」といっても、"原子力を推進してきた中央の原子力行政や御用学者"といった、この数ヶ月の間によく言及されるようになったムラのほうではなく、「原発及び関連施設を抱える地域」を指す。

そして「加害/被害」「支配/被支配」といった二項対立ではなく、そういった捉え方をアタリマエだと発想する常識や世界観そのものを問い直そうとしている。別のことばで言えば、「服従の主体があってはじめて支配という客体が成り立つという、一見常識と矛盾するような支配のあり方、服従が自発的になされるようなあり方」を考えようとしている。そのときに参照されているのは、ポストコロニアルスタディーズだという。たとえばスピヴァクのような。

戦後成長が地方やムラをどう変えたか、それがひじょうによく見えるケースとして福島の「原子力ムラ」を対象とした論文は、去年の1月14日に提出された。3/15の修了を待つばかりだったという論文は、奇しくも「3.11以前の福島原発について書かれた恐らく最後の学術論文」となった(この「福島原発」という言い方は3.11後にあらわれたもので、地元では「第一原発」「第二原発」あるいは「1F」「2F」と、二つの原発を区別してよぶのが通例だったという)。
▼…3.11後の現在においても、少なからぬ原子力ムラの人々は原発が止まることを望んでいない。それは彼らが、権力者の陰謀のもと洗脳されて操られているからでも、カネに目がくらみ、あるいは長年の原発利権によって懐柔されているからでもない。なぜそうあるのか。(p.15)

原子力ムラは、危険なものを押しつけられたとか、札束で顔をはたかれたといった客体ではなく、能動的に原発を求めた主体だと著者は書いていく。その"自発的、自動的な服従"とでもいうべきあり方を解明するために、「原子力ムラの現在」「原子力ムラの前史」「原子力ムラの成立」が描かれる。

石炭の増産に励み、食糧や兵士、労働力の供給先として、戦時中に動員されていったムラ。戦後も、その動員は続き、電力や農産物の供給地となりながら、貧困から抜け出たいという欲望を常に持っていたムラ。戦後の成長が加速するなかで、中央から地方への分配を求め、地方はますます中央への自発的な働きかけを強めていった。開発計画の誘致が地元の政財界やメディアをあげておこなわれ、そのなかで原発誘致がもちあがる。

▼雇用先ができて出稼ぎはなくなり、わらぶき屋根の家は瓦屋根になり、それまでの農村のままではありえなかった喫茶店飲み屋、下宿屋などが大量に出来て、ムラは大いに活気づいた。…原発と一緒に来たのはカネももちろんだったが、それ以上に重要だったのは成長する都会のヒトとモノだった。原発は都会の表象を自らのなかに取り込む装置となっていった。(p.356)

原子力は、「原発が来ればここも都会になる、もっと豊かになれる」という「近代の先端」を示すメディアだった、と著者は言う。そして、そのメディアが示していた「夢」のようなものは、そもそもはじめから幻想だったことが、しだいに明らかになってきている。「そのような幻想があったがゆえに、戦後の成長は達成された」と、つまりは、権力や抑圧の渦巻くなかで、欲望をかきたてられ、それを手にしようと苦闘した人びとが、戦後成長の原動力であったと著者は主張する。

この本には、原発と生きてきたムラの人たちから著者が聞き取った声がさまざま引かれている。そのインフォーマントは「できるだけ普通の生活者を選び、政治家、原発関係者、原発労働者、反原発アクティビスト等、原発に対する立場や関係がはっきりしている人々は除いた」(p.98)という。

原子力を抱えるムラへ実際に行った著者が感じたのは、ある種の宗教的と言ってもいいような「幸福」なあり様で、それは単純に「危険なものを押しつけられて可哀相」とか「地域の発展のために仕方ない」と捉えることができないものだった。

加害/被害の二項対立では見えなくなってしまうもの、被害者がむしろ加害者に協力する共犯関係のような「自発的な服従」がどうつくられてきたかを、この本の著者は見ようとしてきた。

そして3.11後に書いた補章で、「原発を動かし続けることへの志向は一つの暴力であるが、ただ純粋にそれを止めることを叫び、彼らの生存の基盤を脅かすこともまた暴力になりかねない。そして、その圧倒的なジレンマのなかに原子力ムラの現実がある」(p.372)と著者は書く。

ここは、ずいぶんと批判され、誤解されるところだろうと思いながら読んだ。なぜ、そうなっているのか。そこに、原発稼働からでももう40年になる時間があるのだと思った。40年、私がここまで生きてきた年月とほとんど同じだけの時間。「あんたの人生をなかったことにしろ」といかないのはよくわかるし、「それで食っている仕事」を、そう簡単におしまいにできへんよなあと自分自身に照らして思う。原発を止めたそのあとに、原子力ムラの「40年」を転換するどんな暮らしがありうるのかということもぐるぐると考えていた。

*出版を急いだためか、本文には目についただけでも誤字脱字余り字などが頻出して、そこはちょっと残念であった。

(1/15了)
 
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第41回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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