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この子らを世の光に―近江学園二十年の願い(糸賀一雄)

この子らを世の光に―近江学園二十年の願いこの子らを世の光に
―近江学園二十年の願い

(2003/12)
糸賀一雄

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滋賀のなんとか学園というと福井達雨さんの名を思い出すのは、中学生のときだったか、学校で福井さんの話を聞いたからだと思う。「福井達雨」と書いた横に「ふくいたつう」とルビを振った黒板の字もぼんやりおぼえている。福井さんの学園は、止揚学園(しようがくえん)。福井さんの名ばかりはっきりおぼえていて、話の内容はまるでおぼえてないけど、いまでいう知的障害(そのころは「知恵遅れ」とよんでいたと思う)の人らのことを話されたのだったと思う。

滋賀には、近江学園とかびわこ学園というのもあって、その理念が、この本のタイトルにもなっている「この子らを世の光に」。その創設者の一人が糸賀一雄さん。

糸賀さんの名は、ちょろちょろと聞いていて、いちど本を読んでみようと思っていた。ので、図書館で古い本を借りてきた(私が読んだのは柏樹社から1965年に出た初版)。戦後まもなくつくられた近江学園の20年を書いたもの。
近江学園は、精神薄弱児と戦災孤児の総合学園として、1946年、昭和21年に創設された。この本には、その前史となる、虚弱児のための養護学校のごとき施設で主任をつとめていた池田太郎さん、京都の小学校で特殊学級をもっていた田村一二さんとの出会いの話などから書かれている。

池田さんのことを、その初著『子どもを観る』に序文を寄せた京教大の先生が「著者は全く心身一切を投じて児童の中に住み込んでいる人である」と述べているという。

田村さんは、小学校教師として特別学級をもちつつ、休暇を利用して各地の精神薄弱児の教育現場をさまざま見てまわり、「あっちこっちの特殊学級の現場できいてみると、IQ50以下の子どもがいない。そういう子どもたちはどうなっているのだろう」と疑問をもち、低い知能の子どもを引き受けると学級の成績が下がるとか教育しても就職の問題でゆきづまるからやり甲斐がないといった声を聞いて、ショックをうける。

教えている子どもを何人か家によんできて、いっしょに食事をしたり風呂に入ったりという生活を共にする教育を試みもして、田村さんはこの子らにとって、その必要性を身をもって感じたという。

この池田さんと田村さんと糸賀さんの三人で、近江学園はうまれた。その経営をなんとか独立自営にもっていきたかったと趣意書にしたためている。それは「寄付にたよれば卑屈になり、公費にたよれば官憲におさえつけられることにもなろう」(p.59)という理由による。

社会で放置されていた戦災孤児と精神薄弱児のことを、趣意書ではこう書いている。
▼…云ってみれば我々が彼等を放って置くことがいけないので、彼等をやはり私達の仲間として温く育て上げ、正しく教育すれば、それが又同時に社会の健全な発展を少しでも助けることになるので、どうしてもこの子供達を適当な施設に収容して教育しなければなりません。実際助けるとか救うとか人ごとのように申しますが、よく考えてみれば、みな私達社会の人お互い自分のためなのではないでしょうか。私達はこうした念願から近江学園設立へと起上ったのであります、(p.60)

「私達の仲間」というところが印象的。

かくしてうまれた近江学園は、「全職員の同志的団結」をたよりに、子どもたちと共に暮らす場となった。「近江学園三条件」として、「一、四六時中勤務 二、耐乏の生活 三、不断の研究」が掲げられた。この第一の「四六時中勤務」というところに、生活を共にするという理念が具体的にあらわれていると思う。学園では全職員の月給をプールした「どんぐり金庫」から必要な生活費を払って共同炊事をし、残額のすべてを学園の整備に使うという「素朴な原始共産社会のような」生活だったという。

こうした職員たちの生活とお金のやり方は、創立当初の職員に、新たな職員が加わり、また日がたつにつれ、疑問や反撥、批判もうまれ、その流れを支えるように労働基準法が制定されて(1947年)、基準局からいち早く、こうした月給プール的なやり方の是正を求められたとある。

さまざまな失敗や挫折、糸賀さん自身の疲労困憊のことなども含め、近江学園がその後の主たる受け入れ対象となった精神薄弱児者、あるいは重症心身障害児者の教育、生活、仕事を20年の間どのようにやっていこうとしたかが書かれているなかで、とりわけ読んでいてつらかったのは春枝のケース、昭和27年(1952年)頃の「転落」事件のこと。

18歳になった春枝を、近くの蚊帳工場に通わせると養母が引き取って、わずか3ヶ月後に学園に逃げ込んできた春枝は、遊郭の伯父のもとで毎晩5、6人も客を取らされていた。遊郭の主人は客を取らせる前に春枝を手込めにしてもいた。遊郭にいたあいだ「県庁の○○さんも、警察の××さんも来はった」「先生、男ってみんなおんなじもんですね」と春枝は言ったそうだ。

春枝は学園で一時保護のあと女子少年院へ入り、そこも20歳になって出されたあとは、結果として外人相手のパンパンになり、その後に同棲した若い大工からいまでいうDVを受け、また学園へやってきた。そこから世話する人があって生活をたてなおし、住み込みの女中として就職したが、数日で家出をし、その後は行方不明。

時代ということもあるのだろうけれど、施設をつくり、コロニーをつくっていった糸賀さんの文章に「収容」という言葉を読んだりすると、やはり「今」からみると、どうなのかな~と思うところはある。でも、「この子ら世の光」という理念が、決して「この子ら世の光」でないことも、またあちこちで感じる。

重症心身障害児についての考え方の方向が根本的に変革されつつあるのではないかと、糸賀さんはこう書いている。
…いわゆる社会復帰などは期待できなくても、そこにこの子たちがいるのだというただそれだけの理由で、重症の心身障害児という現実に、真正面から取り組む姿を示しているからである。(p.294)

精神の発達が3歳を越えることのできない人たちの心の世界を、仮に「一次元の世界」と呼ぶとして、その声なき声を糸賀さんはこう書く。
一次元の世界に住んでいる人たちは、声なき声をもって訴えている。それは、人間として生きているということは、もともと社会復帰していることなのだということである。ここからここまでが、社会復帰、それ以下は社会復帰でないとして、価値的に低いとみるべきではない。しかも、ここからここまでというのが、その時の社会のつごうで勝手にきめられるべきものでもない。すべての人間は生まれたときから社会的存在なのだから、それが生きつづけているかぎり、力いっぱい生命を開花していくのである。

 このように見てくれば、精神薄弱児(者)の対策として、普通の意味で社会復帰できる、できないということは、問題のそとに置かれることになる。つまりいわゆる社会復帰という方向から対策が一歩や二歩の前身をみたというのではなく、考えかたの質的な転換であるとさきにいったのはこのことである。

 この考え方の質的な転換というのは、とりもなおさず、すべての、文字どおりすべての人間の生命が、それ自体のために、その発達を保障されるべきだという根本理念を現実のものとする出発点に立ったことなのである。
(p.298、下線は原文では傍点)

※精神薄弱児を知能水準で分類すると、魯鈍はだいたいIQ70~50程度、痴愚はIQ50~25程度、白痴はIQ25以下(p.241)

wikipediaの「知的障害」によると、「日本では1950年代から学校教育法では、精神薄弱という語が使われていたが、1998年に法改正があり「知的障害」に変わった。」また、「かつては重度知的障害を「白痴(はくち)」、中度知的障害を「痴愚(ちぐ)」、軽度知的障害を「魯鈍・軽愚(ろどん、けいぐ)」と呼称しており、これらの用語は法律などにも散見されたが、偏見を煽るとして「重度」「中度」「軽度」という用語に改められた。」とある。

今では見慣れない「痴愚」や「白痴」などの言葉がばんばん出てきて、ちょっとぎょっとするが、言い換えただけよな~という気もする。
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在92号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第69回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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