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読んだり、書いたり、編んだり 

ママン(I)

 出勤のときに、カミュの『異邦人』(新潮文庫)を読みながら、乗り換えて、席について、ふっと向こうの席を見たら、母ちゃんにそっくりなオバさんがいた。黒い帽子をかぶり少し色のついた眼鏡をかけた横顔に、釘付けになった。目を離せずにいると、そのオバさんがちらっとこちらを向かれた。(ああ違う人だ)と思いながら、モノレールを降りるまで、そのオバさんを見ずにはいられなかった。モノレールを降りて、エスカレーターをとんとんと降りて、改札を出て、そのオバさんが病院の建物へ向かうのを見送った。すたすたと歩かれるのを見て、母ちゃんがすたすた歩いていた頃の姿はもうあまり思い出せないと思った。すたすたと歩かれる姿を見ると、ああ違う人なのだと思わされた。

 「きょう、ママンが死んだ。」と書き出される『異邦人』の、あらすじは知っていた。けれど作品そのものを読んだのは初めてだ。内田樹の『ためらいの倫理学』のなかで、カミュのこの作品のことが触れられていた。

▽罪あるものを前にしても、なおそれを断罪する資格が自分にあると言い切れない主体の遅疑。正義を明快な論理で要求しながらも、いざ正義の暴力が執行されるときになると、正義があまりに苛烈であることに耐えられなくなる柔弱。自分の手が汚れていないと言い切るには、あまりに深く現実に手を染めてきていることへの疚しさ。
 私は「裁判官の尊大さ」をもって語ることができない、とカミュは率直に告白している。(239-240ページ、「ためらいの倫理学」)

▽・・・それにもかかわらず、「殺すもの」と「殺されるもの」が最終的局面において顔と顔を見合わせるとき、そこには「殺すな」という訴えがあり、殺すことへの抑えがたい「ためらい」が生じる。それが暴力を「限界づける」のである。現代において、もし暴力を効果的に制御しうる可能性があるとすれば、それは信仰の完成でも階級社会の廃絶でもなく、この「ためらい」を思想の準位へと繰り込む知性の努力ではないか、カミュはおそらくそう問うているのである。(247ページ、「ためらいの倫理学」)
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在91号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第65回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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