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母たちの戦争体験 ひき裂かれて(鶴見和子、牧瀬菊枝)

たしか、『谷間の底から』の巻末解説で、鶴見俊輔がこの本のことを書いていた。

母たちの戦争体験―ひき裂かれて (1979年)母たちの戦争体験
―ひき裂かれて

(1979/08)
鶴見和子
牧瀬菊枝

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もとは1959年に筑摩書房から出た本を、20年たって新版として麦秋社が出した。筑摩のときの編集者は原田奈翁雄だそうである。原田といえば径(こみち)書房をつくった人やったなあと思う。
初版の頃には「戦争体験」という言葉も耳慣れないものだったと牧瀬菊枝が書いている。
「『ひき裂かれて』のその後」という巻末の一文である。

▼…『ひき裂かれて』が出たころは「戦争体験」という言葉も一般には耳慣れないものであったし、また庶民が戦争体験をつづることなど考えられない時代であった。今日では「東京空襲を記録する会」をはじめとして、いろいろな戦争体験記が世に出ている。戦争体験記ブームといってもいい時代である。『ひき裂かれて』の出たころは、そういう雰囲気は皆無であり、庶民の戦争体験記録などかえりみられない時代であった。(p.365)

そして、鶴見和子は巻頭の「新版によせて」で、こう書いている。

▼…今日からみれば、この戦争体験の記録は、多くの欠陥と弱点とをもっている。しかし、一九五〇年代のはじめに、戦争体験を語ることは、新しいこころみであった。もう一度日本人が戦争におもむくことがあってはならないという強い念願をもって、わたしたちはこれを書いた。今もその気持は変らない。しかし、戦争を知らない世代に、わたしたちの体験を伝えることが、大変むずかしいことに、今は気がついている。共有しない体験を、どのようにして、伝達しあえるのか。(p.1)

その方法に二つあるとして、鶴見は「異なる体験を相互に翻訳して理解すること」と「個別的な体験を普遍化すること」と書く。

前者について、鶴見は1968年の11月に秋田の農村をたずねた時に主人が出かせぎに出ている家の妻から聞いた「出かせぎは、まるで戦争みたいだ」ということばをあげている。

▼…もちろん、出かせぎは、自分の意志で出てゆくのであって、赤紙一枚で戦地へ送られるのとはちがう。
 しかし、高度経済成長政策の下で、都市と農村の収入の格差がはげしくなってゆく中で、とくに一ヘクタール以下の農家は、「必要に迫られて」出てゆくのだった。
 しかも、行く先々で、どのような危険に出あうかもしれない。いつ帰ってくるかの保証もない。戦争体験と重なるのは当然であったろう。そして、そのことが、のちに、留守家族の「おとうをかえせ」の運動につながっていった。(p.2)

もう一つ、鶴見は1975年の春、はじめて行った水俣で、「水俣病は、戦争よりひどい」ということばを水俣病多発地区で聞いている。

▼…日本の中で公害反対の住民運動が高まると、企業は日本の外へ、とくに発展途上国へ出てゆく傾向がある。たとえば、六価クロム公害を出した日本化学は韓国の尉山へ、大気汚染による喘息患者を出した川崎製鉄はフィリミン・ミンダナオへ、住友化学はアジア最大の石油化学工場をシンガポールへ、という具合に。
 第二次世界大戦で日本が侵略し、被害を与えた国々と、公害輸出の相手国とが一致していることがしばしばある。日本で公害反対運動をすることが、結果として発展途上国の住民に犠牲を強いることにつながる。公害の問題を調べてゆくと、わたしたちが、被害者であると同時に、加害者であるという構造が、戦争体験にも、公害体験にも、共通していることがわかる。(p.3)

20年前に書いた「戦争体験」を、あらためて出版するにあたり、鶴見は、これらを書いた自分たち自身がこの20年間をどう歩んできたか、これからどう生きていくか、お互いのノートを比べあってもう一度「戦争体験年代史」を作り直すこと、そしてこの新しい本を読む若い読者が、戦後34年のあいだに起こったさまざまの事件、これから起こるであろう事件と照らし、戦争体験を翻訳することに参加するならば、「その時はじめて、共時、通時をつらぬく、複眼でとらえた「戦争体験年代史」ができるだろう」(p.7)と述べている。

自分が子どもの頃は、それでも「まだ」戦後30数年だったなぁと数えてみる。
この新版が出てからも、すでに30年がたつのである。

この本に収められたさまざまの「戦争体験」記録はいずれも印象深いものだったが、巻末の一文「その後」の中に牧瀬が書いている話にも強い印象を受けた。

1960年代の岩手県でひろがった生活記録運動。その各地の集会のなかで、ある年の冬、和賀町でひらかれた「おらたち農村婦人の戦争体験を語るつどい」で牧瀬はこんな体験を聞く。

▼その集まりに参加したのは、一人残らず息子を戦争で失った母たちであった。司会者は「みなさんの体験を語ってください」というが、六十、七十のおばあさんたちは、「昭和十四年、北支」、「昭和十九年、ニューギニア」とだけいって、あとは口をつぐんでしまう。昭和十四年北支で「戦死した」ということがいえないのだ。それをいえば涙になってしまうから固く唇をかみ、だまってしまう。つぎからつぎへと発言するおばあさんたちはみな同じように息子の戦死した年と場所だけしかいわない。(p.369)

牧瀬は、司会者への助けのつもりで「みなさん、息子さんが戦争にいっているお留守のあいだ、どんなふうにしていられたのですか」と問いかける。そこから、おばあさんたちが語り始めたのは、長靴を洗う話であり石を洗う話であった。

▼「オラが息子はきれい好きで、夜、足を洗わねえと寝なかったもんだス。息子がいくさに出ているあいだじゅう、足もろくに洗われねえと思って、日に三度、長靴を洗って、神棚に供えて息子の足にマメができねえように祈ったもんだス。それでも息子は死んだス…」
 いい終わると、大粒の涙がハラハラと皺の寄った頬を流れ落ちた。するとつぎのおばあさんが語り出した。
 「このへんじゃ河原の石を洗って、日に三度神棚に供えると、息子の足にマメができねえというから、オラ毎日毎日、日に三度、河原の石を拾ってよく洗い、神棚に供えた。それでも息子は死んだ…」(p.370)

その場にいたおばあさんたちは、「オレも石を洗って、拝んだもんだ」「オレも洗ってた」と次々に同じまじないを語ったのである。語りながら、その話を聞きながら、みんな泣いていた。

▼…おばあさんたちは、石を洗って神に供えると、兵隊に出た息子の足にマメができないという呪術にも似たかくしごとを人に知られぬように、ひそかに続けていたのだ。それを戦後二十年近くも、誰にも語らずにいて、今日初めて、みんなの前で語ったのだ。戦争中の母たちは、自分の息子の身の上をそれほどまでに思いながら、それを誰にも明かそうとしなかった。明かせば息子を戦争に出したくないのかと思われるのが恐ろしかった。ひたかくしに、その呪術をひとりひとりひそかに続けていたのだ。(p.371)

この母たちの話は、『石ころに語る母たち』として1964年に出版されているという。そのうち読んでみたいと思う。
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在91号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第65回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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