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読んだり、書いたり、編んだり 

昭和のエートス(内田樹)

内田樹(うちだ・たつる)の『昭和のエートス』はだいぶ前から図書館にリクエストして、順番待ちをしていた。

昭和のエートス昭和のエートス
(2008/11/21)
内田樹

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こないだやっと順番がまわってきて、借りてきたその足で喫茶店へ。コーヒーをゆっくり飲みながら一時間半ほど、本の三分の一あたりまで読んでから帰宅。その日のうちに読んでしまった。

内田といえば、竹信三恵子さんの「ミボージン日記」@『We』でもその名が何度か出てくる。「ミボージン日記」で「冬ゴキのノブ様」と書かれた夫・悦夫さんの大学時代の友である内田は、悦夫さんの遺稿を編んだ『ワンコイン悦楽堂』にも高橋源一郎との対談で登場している。
私が最初に読んだ内田の本は、『「おじさん」的思考』だったか(だいぶ前の「乱読大魔王日記」でチラッと書いたおぼえがある)。そもそもは内田のブログを読んだのだったと思う。

内田の書くものは私の好みに合って、以来、ブログをときどき見ながら、内田本をときどき読む。何度か読んだ本もあるし、買ったのもある。この数年のあいだにバカスカと出ている内田本のほとんどは、既に発表された「ありもの」テキスト(ブログにこりこりと書かれたものや新聞・雑誌に依頼されて書いたもの)を編んで仕上げたものである。

とくにブログにこりこりと書かれたものは、今でも内田ブログをあされば(ネット接続環境があれば)タダで読める。それでも本にまとまったものが売れるのは、内田の書くものが好みに合うという人が少なくないからなのだろう。

たとえば、フェミニズムやその他のサベツ反対運動に含まれる「奪還的なもの言い」(「ワレワレはサベツのために、それがなければ本来手に入るはずだったものを奪われているのだ、これは不当にそれを手に入れてるヤツラから奪い返すべきなのだ」というようなもの言い)について内田が書いていることを、私は、でっかい飴玉をほっぺたの中でちろちろと転がしている気持ちで、読む。ときどき思い出して、また読む。

私にとって内田本はそういう本で、だからときどき同じのをまた読むのである。

さて、『昭和のエートス』も、「ありもの」を編んだ本である。
この本のタイトルにも関わる冒頭の「私的昭和人論」は、かなり歯ごたえのある文章だった。
内田の考える「昭和人」、それは「明治人」と似て、「断絶」経験をどう受け容れ、その後どう生きたかがポイントである。昭和人にとっての断絶とは、「1945年8月15日」のことである。

断絶は、「断絶以前」を自分のうちに抱え込んだまま「断絶以後」の時代を生き延びることを選んだ人間にとってしか存在しない(p.11)

私はこの「私的昭和人論」を読みながら、父と話してみたいと思った。8月15日ではないけれど、父は父なりの「断絶」経験をどうしたものかと思いながら生きてきたようにも見えるから。



その他の文章で、印象に残ったところなど。
▼貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ…そういうものは富や強さや傲慢や規律によって矯正すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身にしみて感じている。(p.68「北京オリンピックが失うもの」)

▼断定することはむずかしい。断定しなくてもよいものであれば、学者の仕事はずっと楽になる。「…という説もあり、…という説もある。その当否はしばらく措く」というような言い方が許されるなら、資料批判の重荷はずいぶん軽くなるだろう(現に私はそのようにして心理的負荷を軽減している)。しかし、白川先生はこれを退ける。「判断保留」は一見すると客観性を装ってはいるが、実はしばしば不勉強者の遁辞にすぎぬことを白川先生は見抜いているからである。「こちらの言い分も、あちらの言い分も、それぞれに掬すべき知見が含まれる」というようなことを、例えば私が書くときには、たいていの場合、私はろくに調べもしないでそう書いている。「そんなことの正否なんてどうだっていいいじゃないか」と思っているからこそ、平然と判断保留して話を先に進められるのである。(pp.77-78「白川先生から学んだ二、三のことがら」)

▼暮らしやすい社会を作り、それを守るのは「誰か」の仕事ではない。それは私たちひとりひとりの仕事である。その当たり前のことが今、常識でなくなりつつある。いずれ国民の大多数が身銭を切って民主主義を守る責務を忌避するようになったときに、「弱い人間でも自尊心を持って生きることができる社会」は崩壊するだろう。
 言論の自由を守るのは「政治的に正しい意見」を主張し、「私は最後まで戦うであろう」と宣言する「強い人たち」の理説や運動ではない。そうではなくて、圧制の下になれば隣人を売っても生き延びるはずの「弱い人たち」が、そのあと生涯にわたってひきずらなければならない悲しみと恥の予感なのである。(pp.117-118「悲しみと恥の予感の中で」、下線は本文では傍点)

人々が共同体の存続を最優先に考えるときには貧困問題は存在しない。というのは、そのとき共同体に「弱者」として含まれる幼児や老人や病人や障害者はいずれも共同体のすべてのメンバーにとって「かつてそうであり、これからそうなるかもしれない」存在様態だからである。あらゆる成員はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人あるいは障害者あるいはその両方になる。だから幼児を養い、老人を敬し、病者や障害者に配慮するというのは、自分自身に対する時間差をともなった配慮に他ならないのである。その語の始源的な意味における共同体主義(コミュニズム)というのは、そのような想像力の使い方をすることであった。現に自分が受け取っている社会資源の配分について、それをひとり占有することに「疚しさ」を感じること。それが共同体の成員であるための心理的条件である。同意してくれる人は多くないが、私はそう考えている。(p.137「善意の格差論のもたらす害について」、下線は本文では傍点)

※「奪還論的なもの言い」については、ここでも現代の格差社会論のもの言いを扱うなかで書かれている。ロスジェネに属する論者たちが「私が格差上の不利益をこうむっているのは、本来私に帰属すべき資源が他者によって簒奪されているからである」という言明から出発していることを述べるかたちで。それが「最初の「ボタンの掛け違え」ではないかと内田は考える。

▼「こんなことが許されていてよいのでしょうか?」というのは典型的なテレビの語法である。…(中略)…
 ここには二つのメッセージが含意されている。一つは「私はこの事件の発生に何の責任もありません」であり、もう一つは「私はこの事件が解決しないことについて何の責任もありません」である。その事件は彼のあずかり知らぬところで起き、彼のあずかり知らぬところで解決されねばならぬ問題なのである。…(中略)…
 「テレビの語法」と私が呼ぶのはテレビで社会問題を批判的に論じるすべての人々が共有する、この「先取りされた責任放棄」のことである。(pp.203-204「『テレビ語法』の寒々しさ」)

※私はいまのNHKの夜9時のニュースで出てくるキャスター(とくに男のほう)がキライでたまらないのだが(こいつのコメントを聞くのがいやで、9時のニュースは最近ほとんどつけない)、どうしてこんなにイヤだと思うのかと考えていた。
 内田のこの文章を読み、私が「イヤだ」と感じる一因は、この責任放棄の態度(そのくせもの言いがエラそう)なのだろうと思った。

▼当世風アイデンティティは「どこまで行っても、私は私」という「私であること」へのこだわりのことだが、襲名という風儀はそれとは逆のことをめざしている。すなわち、別人になることによって、「私の限界」を超えることである。
 芸の世界には「隠居名」というものがある。…(中略)…隠居名を持つことで、彼らは伝えられた芸風を次世代に伝承して、その「パス」を終え、これまでのしがらみから離れた自身の新境地に抜け出す。
 これはたいした知恵だと思う。(p.239「隠居の愉しみ」)

▼「いかなる上位審級も自分の選択の正しさを保証してくれないときにもなお人は正しい選択を行いうるか?」という問いこそカミュが最初から最後まで手放すことのなかった問いだった。(p.271「アルジェリアの影」)

※カミュについては、内田の『ためらいの倫理学』で、その巻末に表題作としておさめられている文章によって読み、それで私は、あらすじは知っていたカミュの『異邦人』を初めてきちんと読んだ。

そのときの古い日記に私はこんなことを書いている。

▽あらすじは知っていたといっても、「殺人をおかした主人公が、それは太陽のせいだと言う、よくわからん小説」という程度のことだ。「きょう、ママンが死んだ。」という書き出しから読んでみると、きっちりと書かれた小説と思えた。たしかに主人公は「それは太陽のせいだ」と裁判で述べる。私には、ママンの葬儀を詳しく述べた第一部が印象に残った。それは、ついこのあいだ幸田文の父を送った記録を読んだためかもしれない。ムルソーは、母親の遺骸を見ない。泣くこともなかった。裁判において、そのことが(そして母親の葬儀の翌日に女友達と海水浴にゆき、喜劇映画を観、共に寝たというようなことが)ムルソーの非人間性の証のように扱われる。(2002年10月)

カミュについてもっと知りたいと思うのである。
そして『昭和のエートス』を買おうかなとも思うのである。
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在91号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第66回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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