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ひとりでは生きられないのも芸のうち(内田樹)

内田樹のこの本は再読か三読め。(買うか~?)と思いながら、また図書館で借りてくるのである。そのうち買うかもしれない。

ひとりでは生きられないのも芸のうちひとりでは
生きられないのも
芸のうち

(2008/01/30)
内田 樹

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内田が何度もくりかえしあちこちで書いているように、自分の書いていることは「おおかたは先人の『受け売り』」(p.286)といい、たしかに内田本を読むと、人類学的知見とか、それは常識でしょという話がほとんどである(たぶん)。

当たり前すぎることはふだんあまり言及されないので、それが「当たり前」かどうかわからなくなってるんじゃないか、というのが、内田の見方である(たぶん)。

▼というわけですから、本書が扱うのは「あまりに(非)常識的であるがゆえに、これまであまり言われないできたことだけれど、そろそろ誰かが『それ、(非)常識なんですけど』ときっぱり言わねばまずいのではないか」という論件であります。(p.9)

「当たり前」には注意が必要だと思うけれど、内田のいうことに「そうよね」と思うことは多いので、それで私はまた読んでみたりするのだろう(たぶん)。
▼…社会的なふるまい方の根本原則はどんな場合も同じである。
 それは「世の中が全部『自分みたいな人間』ばかりになったときにでも愉快に生きていけるような生き方をする」ということである。(p.50)

▼…労働というのは本質的にオーバーアチーブである。オーバーアチーブという言葉には、単に「賃金に対する過剰な労働」のみならず、個人にとっては「その能力を超えた成果を達成すること」を意味している。
 というより、「賃人に対する過剰な労働」というのは労働者自身が「能力を超えた働きをしてしまった」ことの副作用なのである。…(中略)…
 労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な賃金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。…(中略)…
 人間が継続的に活気にあふれて働くのはどういう条件が整った場合か?…(中略)…
 人間は「フェアネス」の実現と、「信頼」に対する応答のために働くときにその能力の限界を超える。(pp.75-76)

▼…労働はほんらい「贈りもの」である。すでに受けとった「贈りもの」に対する反対給付の債務履行なのである。…(中略)…
 私たちの労働の意味は「私たちの労働成果を享受している他者が存在する」という事実からしか引き出すことができないからである。(pp.89-94)

▼…労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。
 報酬はつねに集団によって共有される。
 個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。個人的努力は集団を構成するほかの人々と利益を分かち合うというかたちで報われる。
 だから、労働集団をともにする人の笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間には労働ができないのである。…(中略)…
 「職能給への切り換え」や「独立事業部制」を求める若い人は今も多い。彼らはそうやって仕事を他者たちから分離し、誰からもあれこれ指図を受けない独立の労働圏を確立したら「働く自由」が手に入ると思っている。
 だが、その代償に彼らは同じ立場の労働者と連帯する機会を失い、労働条件を切り下げ、労働のモチベーションそのものを損なっていることに気づいていない。(pp.104-111)

▼…どれほどポテンシャルが高い人間でも、誰もがかつては非力な幼児であったし、これから病気になることもあるし、怪我をすることもあるし、トラウマ的経験に遭遇して生きる意欲を失うことだってあるし、間違いなくいずれ老齢化して、足腰にがたが来るようになる。そのような「アンダーアチーブ状態の私」に対して、今の自分自身に対するのと同じような配慮を示すことが必要であるということに(とりあえず理論的には)同意できるというのが共同体の成員の条件である。「社会人になる」ということを単純に「金を稼ぐ」ということだと思っている人間は長期にわたって労働を続けることはできない。(p.118)

▼…自在な視点の転換ができるということ、矛盾を矛盾のまま引き受けることができるという点がトリックスターの知のありようなのである。
 私たちの時代の不幸は、このような「無規範状態を生きのびる規範」の探求を人間的成熟の目標に掲げる習慣を失ったことにある。
 その現代日本に登場したグローバリスト・トリックスターは「王師の道」も「君臣の情」もすべては「金」という統一度量衡でカバーできると考えた。
 価値観を異にする複数の世界のインターフェイスでどうふるまうかという真に人間的な問いは、「世界中どこでも欲しいものはすべて金で買える」という「イデオロギー」の瀰漫によってかき消されてしまったのである。(p.126)

▼…「身の程」というのは、自分がそれを基準にして生きている規範の地域性・特殊性のことである。
 自分の採用している度量衡は他の社会集団には適用されない
 だから、自分と同じ規範に従っている人の言動については、ことの良否を言うけれど、自分の規範とは違う規範で行動している人については、礼儀正しい不干渉を保つ、というのが「身の程を知る」ということである。
 今、日本人たちは「権力、財貨、情報、文化資本の占有を求めることがすべての人にとって生きる目標である」と信じている。
 それが日本的グローバリゼーションの帰結である。(pp.188-189)

▼…人類学的に言えば、ある共同体を基礎づけている宗教的な儀礼を否定する場合には、それに代わって、その共同体を一層堅牢なものとして基礎づけるような儀礼を「対案」として提示すべきである。
 対案の提示をなさないままに、ある共同体に向かって「お前たちが維持しているのは非合理的な陋習であるからただちに廃絶せよ」と告げるのはかなり自己中心的なふるまいとみなされる。
 世界には無数の「陋習」があり、無数の性的禁忌がある。そのひとつひとつに向かって「愚かな真似はやめなさい」と告げて回ることそれ自体が啓蒙的な実践たりうると私は思わない。実効的に啓蒙的であるためには、「陋習」に代わって、同一の人類学的機能を代替する別の擬制を提示しなければならないと思うからである。(pp.216-217)

▼…自我というのは他者とのかかわりの中で、環境の変化を変数として取り込みつつ、そのつど解体しては再構築されるある種の「流れのよどみ」のようなものであるという「常識」が私たちの時代には欠落している。(p.252)

▼…「餅は餅屋」「蛇の道は蛇」「好きこそものの上手なれ」と多くの俚諺が教えている。
 ひとりひとりおのれの得手については、人の分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意な人にやってもらう。
 この相互扶助こそが共同体の基礎となるべきだと私は思っている。
 自己責任・自己決定という自立主義的生活規範を私は少しもよいものだと思っていない。
 自分で金を稼ぎ、自分でご飯を作り、自分で繕い物をし、自分でPCの配線をし、自分でバイクを修理し、部屋にこもって自分ひとりで遊んで、誰にも依存せず、誰にも依存されないで生きているような人間を「自立した人間」と称してほめたたえる傾向があるが、そんな生き方のどこが楽しいのか私にはさっぱりわからない。
 それは「自立している」のではなく、「孤立している」のである。(p.278)
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在92号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第69回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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