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ヒロシマの歩んだ道(文沢隆一)/被爆体験記 ピカに灼かれて 第3集

『この世界の片隅で』の「広島研究の会」についてレファレンスを頼んだときに、いろいろと本を出してもらった中から、相貸で取り寄せてみたというヨソの図書館の本を借りてきて読む(近所の図書館にあるものは予約して取り寄せるのも気軽だが、ヨソの本はまた今度と言って借りる手間をかけるのが申し訳ないので)。

『ヒロシマの歩んだ道』と、『被爆体験記 ピカに灼かれて 第3集』である。

ヒロシマの歩んだ道とピカに灼かれて
文沢隆一は、『この世界の片隅で』の冒頭、原爆スラムとよばれた相生通りに住み込んで、被爆者の話を聞き「相生通り」を書いた人である。

『ヒロシマの歩んだ道』は、文沢自身の「自分史」を交えつつ、さまざまな資料にあたり、"ヒロシマ"の歩んだ概略史を、広島がヒロシマに変わっていったいきさつを書いたもの。

この本は、私が知っていたつもりの「原爆」についての知識に、多くの誤りがあることを気づかせてくれるものだった。

たとえば原爆による火傷のこと。
▼原爆の熱線は電磁波によるものであって、わたしたちが普通取り扱っている火熱の酸化化合物による燃焼効果とは違っているということである。(p.94)

原爆の火傷は、電磁波の赤外線による火傷である。だが、多くの被爆体験記でも、これを通常の火傷と混同している。文沢は、初期の体験手記には「たいして熱さも感じないのに皮膚がずるずるとむけた」という正確な描写がなされている、と述べている。

わかりやすくいうと、強力な電子レンジで加熱されて起こった火傷、に近い。それによって、

▼皮膚の表面にはほとんどなんの変化もないのに、皮下(真皮)の組織を熱傷し、そのために体液の滲出(異常な水分を必要とする。水をくださいという被爆者の叫びは、こうした生理現象でもあった)がはじまり、皮膚の剥離がおこる。その間、ほぼ30分から1時間を要し、顔面熱傷の場合は浮腫のために目ぶたがふさがり、避難が困難な状況となる。また、しばしば手記に書かれている、両腕を幽霊のように持ちあげて歩く姿勢は、体液の垂下をできるだけ防ぐ、という自然の自己防衛でもあった。(p.96)

という被害状態となる。もちろん、原爆による"電子レンジ"火傷に加え、のちに起こった火災によって火傷をうけた例も多くあった。だが、その赤外線による火傷は、「いったん治癒した皮膚がケロイド化するという深部の損傷である」というところに、火であぶられた火傷との本質的な違いがある。

もうひとつは、長崎のことである。文沢は、長崎への原爆投下、それが市街地の中心ではなく、偶然の重なりから浦上地区に投下されたことを丹念に記している。原爆は長崎にではなく、浦上に落ちたのである、と。そして、広島の被爆者が一般市民であったのに対して、長崎の被爆者の大部分が軍需工場の労働者であったことの違い。

▼浦上地区の住民以外の被爆者がどれだけいたのか、明らかにされていないが、大部分工場労働者であったことは確かである。そのうち、佐賀、熊本、鹿児島などの各県から、大量の学徒や挺身隊、報国隊、徴用工が動員されて浦上にきていた。それが敗戦後の動員解除とともに帰郷し、長崎の被爆者の実数からは欠落していることも、今日までほとんど未調査のままである。(p.147)

文沢は、このような感想を書いている。

▼率直なわたしの感想を言うなら、原爆の被害はその都市の歴史と住民の意識によって、それぞれ異なってくるということである。いわば、原爆はその都市の衣装を剥ぎとって、その本質をむきだしにしてみせる。百の都市があれば、百通りの原爆被害の様相を呈するということではなかろうか。それを一様にヒロシマ・ナガサキと抽象化するところに、多くの見落としが生じたのではなかろうか。

広島の場合、軍都広島という衣装を剥ぎとられ、平和都市広島に生まれ変わるために、住民の八割は、無垢な、新しい市民にとって代わられたのである。

長崎の場合、旧市街地の住民がそのまま昔ながらの伝統的な文化を受け継いでいる。そして、驚いたことに、浦上地区は新興住宅地として、いまや長崎の中心的な町としてよみがえりつつある。そこにはむろん、三菱を中心とする企業集団が、戦後、日本の経済発展とともに復活したという事情がある。しかし、いまひとつは、江戸時代以来、外部との唯一の通路であった日見峠の不便さが、浦上を通る国道三四号線バイパスの開通によって、長崎の出入口になったという、まことに即物的な現実がある。そうした事情があるにもかかわらず、かつて国会で議決された長崎の国際文化都市という性格は、国際化ということはしばらく置くとして、戦前戦後をとおして一貫して流れている気質である。それは原爆によっても剥ぎとることのできなかった、長崎の文化の根の深さのようにわたしには思われる。(p.149)

こうした長崎の話を読んだあと、ちょうど図書館で『ナガサキノート 若手記者が聞く被爆者の物語』を見つけて予約した。

文沢は、ある時期まで「ワンスモア・ヒロシマ」という不遜な意識をいだいていたことさえある、と書いている。文沢がそう願ったことさえあったのは、それほどまでにヒロシマは忘れられ、被爆者は無視されていたからである。とりわけ被爆からの10年間は被爆者はまったく孤立無援の状態だった。
▼"生きていてよかった"ということばは、55年の第1回原水爆禁止世界大会からやっと被爆者の口から洩れるようになったことばで、それまでは…なぜあのとき死んでしまわなかったのかと、にがい悔いをおぼえる日々を被爆者は過ごしていた。(p.231)

1954年、第五福竜丸の"死の灰"騒動のときにも、広島・長崎の原爆や被爆者のことは話題にあがらなかったという。この"死の灰"の恐怖に対して、東京・杉並区の主婦たちは「水爆禁止を!」というスローガンをかかげた。それは、平和な日常生活をおびやかすものへの反対であったが、"死の灰"と同じく放射能被害に苦しんでいる被爆者を考慮する余地はなかったと、文沢は書く。

こうした「水爆禁止」に始まった運動が、紆余曲折を経て「ノーモア・ヒロシマズ」という反戦運動となってゆくのは、まだ後のことだった。

読むうちに付箋だらけになったこの本は、近所の図書館にないこともあり、買うことにした。
巻末にあげられている引用文献も読んでみたいと思う。
前に読んだ『原爆神話の50年』もまた読みたいと思うし、おととしだったか映画をみた「二重被爆」の山口さんの本『ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆』も出ているそうなので、これも読んでみたいと思っている。

『ピカに灼かれて』は、被爆から34年たった1979年にまとめられた体験記。広島医療生協の「原爆被害者の会」の方々が書かれたもの(一部は、聞き書きのようである)。『ヒロシマの歩んだ道』と並行して読みながら思ったのは、どれほど想像力をたくましくしても「におい」は分からないだろうなということ。いつだったか、被爆者のお話を聞いたときだったか(それとも何かで読んだのだったか)、原爆資料館のジオラマに欠けているのは「におい」だというのを聞いたことがある。

被爆した娘から、臭い膿が出つづけて、親でも近寄りたくないくらい「くそうてくそうて」たまらなかったという手記。道には死体が積み重なり、自転車では通れなかったという手記。死体をまたいで歩き、行方のわからぬ家族を捜したという手記。川は大根を何本も差したように死体で埋まっていたという手記。そして8月の気温のなかで死体はすぐに腐っていったのだから、猛烈なにおいだったことだろう。

『ヒロシマの歩んだ道』を読んで、少し更新された目で、被爆者の体験記や原爆文学をあらためて読んでみたいと思う。
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在91号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第65回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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