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障害児殺しの思想(横田弘)

横田弘対談集『否定されるいのちからの問い』を読んだあと、なにかほかに図書館にあるかなと探したら、この古い本『障害児殺しの思想』(1979年、JCA出版)があって、借りてきて読む。30年前の本だ。

1974年に横田が自費出版した『炎群』のあと、養護学校義務化、遺伝相談センターの設立、車イスの路線バスへの乗車拒否など、ますます拡がった障害者抹殺の風潮について、その状況を書き加えたもので、『炎群』の言わば新版であるという。

各章は順に、「障害者殺しの事実」「障害者殺しの思想」「「優生保護法」とは何か」「障害者はどのように生きたか」「われらかく行動する」「カナダのCP者たち」…
読んでいて、ちょっと気が滅入ってくる。横塚晃一の『母よ、殺すな!』のことや、「青い芝」の運動のこと、つまりは「われわれは殺されて当然の存在なのか!」という訴えのことを、私も多少は知っていたけれど、30年前のこの本を読んでいて、ここまでひどかったのかという思いと、今はどうなのか、現状はいいのかという思いがぐるぐるとする。

▼…障害者が本当に地域の中で生きるとしたら、地域の人々との関わり合いをこそ重要視しなければならないのではないだろうか。…障害者それぞれが住んでいる場で他のひとびとと如何につきあって行くか、障害者が生きるという事は正にそうしたひとびととのつきあい方の問題であると言ってもいいだろう。

 無論、私は全障研のいう「健全者と同化して」とか「障害者も発達しつづけるのだ」という融和主義・誤魔化しの障害者と健全者との共生をいっているのではない。

 私が歩けないなら歩けないままに、言語障害があるならあるままに、相手の健全者が歩けるなら歩けるままに、喋べれるなら喋べれるままに、お互がその存在を認め合う、それでケッコウじゃありませんかと認めあう、そうしたつきあい方を言っているのである。(p.49)

▼…たとえば、ある親は、「私の子供などが親がオムツをとりかえてやる時、自分から腰を浮かせようと一生懸命になっている。それだけでも子供にとっては大変な労働である。」とか、「頭もだめ、体もだめ、しかしそれだけに重症児は生命そのものだ。その生命を守る為に新しい価値観が必要である」とか言っている。…(p.54)

…ある親が言った「オムツを代える時、自分から腰を浮かす。それだけでも大変な労働である。」という言葉の中にある「労働」の意味を「親」はどうとらえるのだろう。

 「労働」とは単に「骨のおれる仕事・力仕事」という意味ではない。私たちの、いや私の考えでは、「労働」とは「社会参加」でなければならない。すなわち、自己の生命を強烈に燃焼させうる場としての社会に参加していくことではないのだろうか。重症児が事故の生命を燃焼させるという意味で「労働」という言葉を使ったのだとしたら「福祉行政の充実」とか、「施設は重要」などという発想はなされないと考えるのだが。(p.55)


『We』162号の山森亮さんのインタビュー「ベーシック・インカム」には、「生きていることがすなわち労働」というサブタイトルがついている。

これは、山森さんがアントニオ・ネグリの論からつれてきたものらしく、ネグリの考えによれば「労働の成果は共有のもの、協働の成果」であり、その成果のうち個人に帰属できるものがあるとすれば、それはそれぞれの個人の「生」(つまりは個人の特異性)である、ということらしい。(参考:山森亮「生きていることは労働だ」

この横田が書きつけた部分を読んでいて、私は「生きていることがすなわち労働」という山森さんのサブタイトルを思い浮かべた。横田が「労働は、社会参加だ」と言うのは、山森さんがネグリから引っぱってきた「労働の成果は協働の成果だ」という話と、たぶん通じるのだろう。


▼…優生保護法改定案反対運動の中で、私を驚かせたのは、…大多数の「障害者」は基本的にこの改定案に賛成だったということである。
「こんな体に生まれない方が良かった」
「障害者だった為にこんな苦労をするのだから、私の子供が『異常』だったら中絶する」
という発想が多くの障害者によってなされており私たちの改定案反対署名にも冷たい態度をとりつづける者が多かった。(p.119)

七沢リハビリテーションセンター交渉(1976年1月)の記録より
(このセンターは、リハビリという名の隔離の新たな拠点ではないのか、という認識のもとで、青い芝と神奈川県の民生部長や教育委員会との話し合いがおこなわれた)
▼寺田 …技術を身につけるとか、そういう事よりも、まず、我々の仲間に欠けているのは、人との関わりね、滑ったり転んだりするそういう試行錯誤の機会が奪われて来た訳ですね。親兄弟のもとで何かしようとすればそれは危ないからダメだとか、みっともないと言う事で…お前は奥に引っ込んでいろと言う事で、こう、奪われて来た。…

…山奥の確かに、その空気はいいし、景色はいいだろうと、だけども、敷地の中では段差も何もなくてどこでも車イスで行けると。

しかし、実際に社会の中で生活する時はいろんないろんな障害物がある。そういうものも、そこの階段に段があるとするね、段差がある時にどの様に声をかけて人に援助を求めたらいいかと言う事。そこで、声をかけようとしても声が出なくなる訳ですよ。これは、そのいわゆる言語障害があるから声が出なくなるのか。そうではないんです。小さい時からですね、家の中、あるいは施設の中で閉じ込められて、特定の人としか関係性を持たなかったから。

…職業に就けられなくても、例え人に多くの手間をかける様であっても、自分に誇りを持って生きて行かれる様に、そういう状況を創り出す事を、その事を抜きにして福祉を語ってもらいたくない。…(pp.139-140)

▼…特に脳性マヒ者は「言葉がわからない。何を言っているのかわからない」という形で社会から疎外され、親、家族ないし施設の職員、養護学校の教師という形で代弁、代行を繰り返えされ、私達の意志とはまったくかかわりのないところで、「障害者はこう考えているのだろう。こうすることが障害者の幸せなのだ」という一方的な判断の下に、私達の生命、生活を奪い尽くされてきたのである。(pp.171-172)


むかしの『母よ!殺すな』は読んでいるが、立岩真也が解説を書き、いくつかの資料が加えられて復刊した『母よ、殺すな!』を読んでみようかなと思う。
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在91号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第65回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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