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否定されるいのちからの問い 脳性マヒ者として生きて(横田弘対談集)

なにがきっかけでこの本をリクエストしたのだったか忘れたが(ベーシック・インカムがらみで「青い芝」が出てきたからだったかな)、近所の図書館に所蔵がなかったので、他市からの相貸で借りた本。

否定されるいのちからの問い 脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集否定されるいのちからの問い
脳性マヒ者として生きて
横田弘対談集

(2004/01)

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横田弘は、「青い芝」の人であり、『母よ、殺すな』の横塚晃一と同世代の人である(私の父と同世代、別の表現をすれば『やまびこ学校』の世代である)。
対談者は5人。
立岩真也とは障害者の自己主張について、
原田正樹とは地域について、そして地域福祉について、
米津知子とは優生思想と女性の自己決定について、
長谷川律子とは養護学校義務化と地域の学校へ行くことについて、そして親の意思と子ども本人の意思について、
金満里とは障害者の自己表現について、
それぞれ語りあっている。
これら対談の5つの章に加え、終章で横田が自分史のようなものを書いている。

5年前に出た本だが(対談は、横田が古稀をむかえた2003年におこなわれている)、どの対談も、今読んでおけ!という感じ。政権が変わって、いろいろ動きがありそうな今、じっくり読んでおこうと思えた。

自己決定と自己責任のこと、地域って何なのか、「優生思想の否定」と「産む産まないは女性が決める」との間で障害者の運動と女性の運動とが互いに了解できなかった過去、生存権を求める運動と生活権を求める運動との違い…

そのあたりが今の私にはもっとも印象深かったし、とくに優生思想と女性の自己決定のとの間のこと(主に米津との対談と、終章で言及されている)は、すとんと腑に落ちたとは言わないが、そうだったのか、そういう筋道で考えられていたのか、と思えた。

立岩の「できない、できる」が人間の肯定や否定になっててええんかという話。
立岩 …正しさというか、あるいは腑に落ちる感じというのは、僕はもちろん障害がある人とない人によって受け止め方というか、もっている意味、大きさは全然違うと思うんです。つまりまがりなりにも働けて食える人間にとって、働けなければ食えないという社会のもつ脅迫性というか、その怖さみたいなのはやっぱり全然違いますよね。それでも生きていけるのと、そういう社会だったら生きていけない人にとってのその怖さっていうのは。だからそういう意味で「違うんだ」って「青い芝」が言ってきたことはそのとおりだと思う。と同時に、だけど、できないとかできるってことが、自分の存在が肯定される、許容されるということにつながってしまうような我々の社会のあり方というのは、とりあえずたまたまできちゃう人間にとっても、潜在的には脅威であると思うんです。そういうことによって自分の存在が肯定されたり否定されたりするということは、やっぱりおかしいんじゃないか。いわゆる障害者じゃなくても脅威みたいなものがあって、そういう社会は息苦しいし生きづらい。本当はもっと別の社会のほうがよいのじゃないかというのは、障害者だけの問題じゃないと思うんですよ。そういう意味で障害者であることに徹底的にこだわったことから出てきた主張というのは、実は障害者じゃない人に対しても腑に落ちさせてしまう、いいんじゃないと思わせるようなものがあったし、今でもある。ですから、とりあえずメシは食えていくだろうけど、あんまり嬉しくないという人たちも、潜在的な味方ではあるわけで、この社会で不利になる人たちがガンガン言っていかないと、そういうふうなところを言っていけば、、もっと味方が増える、そんな気がするんです。…(p.14)

「権利」という言葉をあまり使いたくないという横田。
横田 権利と言う前に、権利と言わなければならないような状況をつくったことが、やっぱりおかしいんじゃないかと。だから僕は県の障害福祉課でも、どこにでも権利という言葉はあまり使わなかったはずと思いますよ。要求はします。これだけは補ってちょうだいと要求はするけど、これは障害者の権利だということは、僕は言葉で出した覚えはない。(p.16)

「自分のことを自分で決める」、それができないのもありなんじゃないかという立岩の整理。
立岩 …日本の障害者運動が面白かったのは、そうやって自分で決めてやっていくんだということを言いながら、そうやって決めて整理してやっていくということが、それで100だろうかという疑問、それが全部じゃないだろうみたいなことを同時に言ってきたところが面白いと思うんです。これは横田さんの文章の中にもある。自分のことを自分で決めるというそのあり方そのものがどこかで相対化されなきゃいけない、されていいんだと。人間自分のことを決められなきゃ人間は人間じゃないのかということはないだろうと。そういう言い方を初期の頃からはっきりなさっていますよね。どっちが正しい、当たっているかと言えば、自己決定とか自立とか言いながら、それが人間のあり方の全部じゃないってことを言ってきた運動のほうがやっぱり当たっていると思うんです。(pp.26-27)

お金が間に入る介護はどうやねんということについて、立岩の苦しい理屈。
立岩 …介助というのはどっかで本当は基本では無償でないと成り立たないんですよ。基本的に一方から一方に流れて、その見返りがないというか、なくてもやるっていう意味ではね。返せる人しかやってもらえないということになったら、返せない人はやってもらえないですから、その時点で生きていけないわけです。そういう意味では介護は無償の贈与であるべきだし、でなければ成立しない。それを社会的な中で全員が負担する義務であるという条件を付け加えたときに、現実に可能とする条件として考えていくと有償ということになるというのが、一応僕の理屈なんです。ちょっと苦しいかもしれないですけど。…(p.31)


原田の「地域福祉」のはじまり。
原田 …施設あるいは社会福祉に関わる職員のもつ欺瞞性みたいな、自分も含めてですけども、「ノーマライゼーション」だとか「共に生きる」だとか、それを結局福祉関係者が関係者の中だけで使っている現状に気付いて、具体的に言えば、利用者に対して施設職員が「これからはノーマライゼーションの時代だ」なんて言うわけですね。そんなことは利用者は家族は言葉なんか知らなくたって、当たり前のこととして考えているにもかかわらず、職員はそれを彼らに偉そうに言うわけですよね。
 …だけど、本当に福祉関係者が言わなくてはいけないのは、地域の住民、施設の外の無理解、無関心な人に対してこそ言わなければならないのに、それをしてこなかったという施設の限界も見えてきて、そこから地域福祉とか、地域にどう働きかけていけばいいのかと、障害に無関心な多くの地域住民に何を伝えていけばいいのかみたいなところから、自分の地域福祉が始まってきたわけです。(pp.38-39)

「地域」とは何か。ひとつに、「行政の圏域、集団の単位としての地域」がある。これに対して「生活主体の場、生活者が生きていく場としての地域」がある。それだけでなく「村八分と言われるように、異質なものを排除するのも地域」である。
これまで施設に押し込めてきた"福祉サービス"を、「地域」に押し込めるという発想になってるんじゃないかという話。
横田 「あいつはばかだけど、この仕事をやらせたら俺たちより上手いじゃあねぇか」とか、「あいつは目が見えないけど面白え話をたくさん知ってるじゃないか」と、それだけで周りの人間が障害者と関わって「面倒くせえけどよぉ、面倒くさいけどあいつがいないと面白くないんだ」「あいつの面倒みるのは、まぁしょうがねぇか」とか。そういう関係が僕たち障害者を今日まで見守ってきたっていうかな、暮らしていたわけですよ。
 ところが今ひじょうにそれが稀薄になってるんです。個対個の関係がものすごく稀薄になってるんですよ。
 …だから周りに障害をもった子どもがいれば、「車いすに乗ってるの? だったら養護学校行けばいいのよね」とか、養護学校終わったらば、「家にいないで作業所行ったらどう」とか。「お母さんが亡くなったの。まぁお気の毒に。でもグループホームがあるから、お父さんも楽よね」とか。こういうことで自分が障害者に関わらなくても、近くに障害者が集まるところがあるじゃないのと。そこに行けばいいじゃないの、ちゃんとやってくれるわよと。そういうことがねー、非常に多いんですよ。(pp.42-43)

横田 …現在、横浜市の場合では大型活動ホームをものすごい勢いでつくってますよね。確かにあそこへ行けばデイケアはあるし、ショートステイも可能だし、介助者も何とか探してもらえる可能性もあるし、ということで、結局ご近所とか周りの人と出会うことが疎外されちゃうんですよ、このままだと。(p.57)


1972年の優生保護法改正案と胎児条項(お腹の中の胎児が障害をもっていることがわかれば人工中絶してもかまわない)に関して、胎児が殺されるなら、今生きている障害者の存在基盤がなくなると「青い芝」は動いた。女性の自己決定権と、胎児条項、優生思想について、横田と米津の話。
横田 子どもを産むか産まないかは女性が決めるんだろうということで、それはおかしいんじゃないのと。産むか産まないかは女性が決めるということは、障害児を殺せる自由もあるわけですかということで、まぁいろいろぶつかったわけですよね。

 米津 うん、うん。あの、いいですか? 女の運動が、産むか産まないかは女性が決めるということの言葉に込めた意味というのは、「国が管理するな」ということ。「国が女に、産めとか産むなとかを言うな」ということを、国に向かって言ったつもりだったのね。だけど、そういう胎児条項が出てきているような状況の中で産むか産まないかは女が決めるって言ったら、それは自分たちが考えているような国に向かった言葉とだけ受け取られるものではないということについて、もう少し自覚してなくちゃいけなかったと、後からは思います。
 つまり、自分たちはただ子どもを産むか産まないかということだけに関し言っている。国に自分たちに介入するなと言っているつもりなんだけど、世の中から見たとき、聞いたときに、やっぱり障害のあるなしで子どもを選ぶことができるような技術ができちゃったときには、子どもを障害のある・なしで選ぶことも女が決めるっていうふうに聞こえてしまう、そういう状況でしたよね。だから「青い芝」の人たちから言われて、ああやっぱりそういうことなんだって思って、その後はずいぶん考えていったと思うんです。
 ただ「青い芝」に言われたときに、今度は逆に、じゃあ産むか産まないかは女が決めちゃいけないのかっていうことはね、ちょっと被害者意識的に、全部ダメだって言われているように聞こえちゃっているような…

 横田 そうそうそう。

 米津 だから、お互いに言っていることが本当はどう言いたいかっていうのがうまく伝えられていなかったと思うし、女の側も戦前までは刑法の堕胎剤ですごく取り締まられていたり、戦後だって、けしからん女たちが身勝手に子どもはいらないと言って、中絶しててけしからんみたいな非難をされてね。…(pp.73-74)

この後、1996年の優生保護法見直しにあたって、横田が取り返しのつかない過ちであったと反省の弁を記しているとおり、「青い芝」は、女性に対する差別を肯定し、かつ女性の主体性まで否定するような要望書簡を衆院議員あてに送っている。その全文もこの本には掲載されている(pp.119-120)。重大な過ちの箇所とは「中絶不妊手術の配偶者同意をなくす件に関して多くの女性自身が自己決定を出来るだけの意識が高まっていない状況を考察すれば、時期尚早ではないかと思われます」というところだ。


「何かができること」もいい、、でも「何もやらない」ことを認めること。
米津 …いろんなことができる機会がたくさん増えて手段も増えて、その中でできることが増えるのは本当にいいことなんだけど、じゃあ皆が何かを成しとげなければいけないのかっていったらそれは違うものね。

 横田 そうなんですよ。

 米津 片方ではいろんな機会が増えるように働きかけながら増やさせながら、でも一方では何もやらないことを保障する、何もやらない人の尊厳をちゃんと認めていくっていう、その両方をやるのがすごく難しいね。(p.78)

胎児の"障害"の有無をチェックする技術ができてしまったこと、そして胎児診断を受けることが当たり前のようになっていること、その辛さと、米津が《制度化》という意味。
米津 …出生前診断を受けるか、あるいは障害児だとわかったら中絶をするかという話をしてましたでしょ。あの時にね、そのことをもっと健常者の女も男も考えなきゃいけないってことになったけど、胎児を選別することってね辛いことだと思うのよ、本当は。…
 …どういうふうになるかっていうと、子どもが欲しいなと思っていた人が、妊娠したってことだけで喜べないわけよ。もし検査なんてものがない時代だったら、妊娠したら「あー嬉しい、待ち望んでいた子どもが私たちのところへ来てくれたんだわ」って最初から喜べるでしょ。ところがこの子どもは産んでもいいのかどうかって調べた後でなければ喜べない、人にも言えないわけよ。「子どもができたのよ」って喜ぶのは、その検査が終わってからでなければできないわけ。すっごくおかしいことだと思うでしょ。子どもを欲しがっている人にとっては、ものすごく苦痛なはずよ。だけど、それを苦しいことだとは言えない状況でしょ、皆がやっていることだから。そこのところで、検査を受けなければ喜べないってことはおかしいっていう気持ちをね、思い起こしたらいいと思うの。それを当たり前だと思ってしまわないで。そのことを当然のように受け入れてしまうことが、私が言いたかった胎児選別の《制度化》なんです。(pp.82-83)

米津も、自己決定について語る。
米津 自己決定っていうと、じゃあ自己責任なんだろうって言われちゃうことですよね。決めたことなんだから責任を負えっていうか、自分たちは手伝わないぞ、みたいな感じ。…
 …それはおかしいって言っていいと思っているの。それこそ一人で生きているわけではないんだから、健常者だってすごく助け合いながら生きているでしょ、そうしているはずよ。立岩真也さんが「弱くある自由」ってすごくうまい言葉で言っていた。私はそれがうまく言えないんですけど、人に助けてもらっていい、すべての責任を負わなくていいっていうのを自己決定の中に入れてもいいと思っているの、私。私はこいうふうにしたい、けど自分ではできないので助けてくれとか。で、だいたい自己責任を最初に言って、自分で決めたんだから後の責任はとれよみたいに言ってくるというのは、自己決定するなと言っているのと同じですね。(p.85)


みずから繰り返し語っているように、横田には言語障害があり、その言葉を聞き取り、語りあうには、こうして活字におこされた本をすらすらと読むのとは違い、時間がかかったはずなのだ(金満里は聞き取れなかったところで、「もう一回」と声をかけている)。

その横田の言葉を、もっと時間をかけて読むべきかもしれないと思いながら、その時間こそが必要なことなのかもしれないと思いながら、私は活字をいつものようにすらすらと読んでいた。本のかたちになって、こうして出たものなのだから、気にせず読めばいいのかもしれない。でも、読みながら、この言葉を聞き取り、言葉を交わすのに、どれくらい時間があっただろうかと思っていた。母も、死ぬ前の数年は構音障害などによる言葉を発する不自由さがあった。生まれながら、そういう言語障害をもっている横田と、50代の半ばになって思うように言葉を発することが難しい状態になった母と、違いは大きいだろうと思いながら、横田が「言語障害がないと、健全者の考え方が全部飛び込みやすい」(p.154)と言うのを考えたりしていた。

この本は残念ながら近所の図書館にないのだが、横田の『障害者殺しの思想』は所蔵があったので、次に読んでみようと予約した。

◆「青い芝の会」の四つのテーゼ

一、われらは自らがCP者であることを自覚する

 われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且つ行動する。

一、われらは強烈な自己主張を行なう

 われらがCP者であることを自覚した時、そこに起こるのは自らを守ろうとする意志である。
 われらは強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。

一、われらは愛と正義を否定する。

 われらは愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。

一、われらは問題解決の路を選ばない。

 われらは安易に問題の解決を図ろうとする事がいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。
 われらは、次々と問題提起を行なう事のみわれらの行ないうる運動であると信じ、且つ行動する

(pp.247-248)

※CP者とは脳性マヒ者(CPとはCerebral palsy)
青い芝の会「行動綱領」として、これに加えて「われらは健全者文明を否定する」もある。「われらは健全者文明が創り出してきた現代文明がわれら脳性マヒ者をはじき出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中からわれら独自の文化を創り出すことが現代文明を告発することに通じることを信じ、且つ行動する。
 
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在92号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第67回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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