FC2ブログ
 
読んだり、書いたり、編んだり 

こっちへお入り


こっちへお入り
平安寿子
\1,680
祥伝社
2008年

落語小説。 と名づけてよいかどうかわからんが、友だちの落語発表会を聞きにいき、その打ち上げの飲み会にもついていき、そこで落語をやってみることにした吉田江利。

会場は女性教育センター。自治体による市民サービスの一環で部屋代タダ、講師もボランティアで受講料タダ、それもあって江利は落語教室に通いはじめる。

だんだん落語にハマっていく江利。
つけた高座名は 秋風亭小よし(しゅうふうていこよし)。

江利が、もやもやとしてしまった人情噺「文七元結」。
師匠の楽笑がこう語る。

▽「噺家なら誰でもやりたがる大ネタだってこと、わかってくれましたか」
 楽笑は真面目なことを言うときの癖で、おおげさなくらい目を見張った。
 この噺が円朝の手で作られたのは、明治だという。そして、今に至るまで、大事にされ、くり返し演じられてきた落語の代表作だ。それは演者も聞く者も、知っているからだ。あるいは、信じたいからだ。
 貧しいくらいじゃ、人は死なない。苦界に落ちても、人は死なない。少しでも人のために生きることができる人間は、決して絶望しないのだと。
 …(中略)…
 「落語は、その日暮らしがやっとの庶民が現実を生き抜くための気力増強サプリとして誕生し、伝えられてきたものだと、僕は思ってます。…(後略)」(pp.178-179)


江利は落語仲間をみながら、こう思う。

▽…人間は状況によって、変わるのだ。確固たる自分なんて、ないから。
 仲間たちの演じぶりを見ながら、江利はそんな風に分析した。
 その発見は大きかった。確固たる自分がないことを負い目に思っていたが、そんなことで悩む必要はないんだ。みんな、そんなものなんだから。
 そのかわり、変わったり、幅を広げたりができる。
 仲間たちだけでなく、自分の身に照らしても、江利にはそれがわかった。(263p.)


フェミニストとかフェミニズムとか男女共同参画というコトバが登場する小説、という意味でもオモロイ。

いやー、近所の女性センターで「落語教室」やってないかなと思ってしもうた。

(5月21日読了)

それでもボクはやってない 日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!


それでもボクはやってない 日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!
周防正行
\1,470
幻冬舎
2007年

去年いちど読んだ本だが、この本の後半で周防監督と対談している木谷明さんの本を読んだこともあり、また借りてきて読む。

その対談の一部。

▽(周防)…「裁判員制度」に関しては「あなたは被告人を裁けますか」といった形で宣伝していますが、これは裁判の経験がな一般の人たちを怖気づかせてしまうのではないですかね。つまり、法廷で明らかになった証拠を基に、目の前に立つ被告人が有罪であるか無罪であるかを自分で過投げ、判断しなさいと言ってるように思えてしまう。「裁判員」が判断しなければいけないのは、そこじゃないと思うんですよ。「検察官の有罪立証に、なるほどその通りだと思えば有罪。一つでも有罪立証に疑問があれば、無罪」。こう伝えるべきだと思う。要するに、最終的に裁くことになるのは被告人かもしれないけれど、実際に裁判で裁かなければならないのは、「検察官の有罪立証」である、ということです。自分で勝手に証拠を判断し、組み立てて、有罪か無罪かを判断するのではなく、検察官の証明に納得したかしないか、それを言えばいいのだと考えています。(267p.)


いま売ってる『週刊ダイヤモンド』(5/24号)の特集が「裁判がオカシイ!」
ぱらぱら立ち読みしてみたが、「裁判官のトンデモお言葉集」という常識はずれの判決文を集めたページもあり、買おうかな~と思った(まだ買ってないけど)。

雑誌




読んでみたいのや、ぱらぱら眺めたいのや、じっくり読みたいのや…雑誌を購入。

◆「論座」
2008年6月号
\780

特集:映画「靖国」騒動への疑問
特集:ねじれ国会 打開の糸口
特集:笙野頼子

読みたかった特集は「映画「靖国」騒動への疑問」。
森達也とか斎藤貴男とか内田樹とか鈴木邦男などがあれこれと書いている。この人たちが書いているのは買う前から知っていた。
買ってみたら、会田誠や是枝裕和や上野千鶴子も書いていた。
ほかにも何人かが書いている。

映画「靖国」はまだ見ていない。
七藝では連日満員で立ち見も入れているらしい。

◆エルマガmook「アートを楽しむ京都地図本」
2008年4月24日(木)発売
\580

これは本屋でぶらぶらとしていて見つけた。
美術方面はもちろん、食べるもの、お土産、こんな場所があるよとか、そういうのが地図と一緒にのっている。
全然知らなかった小さな美術館もある。おいしそうなところものっている。

◆「フリーターズフリー 働けと言わないワーキングマガジン」
vol.01
2007年6月発行
\1,575

有限責任事業組合フリーターズフリーが出した最初の雑誌。読んでみたくて買ってみた。

▽働くことについての雑誌を作ろうと思いました。(4p.)

▽…タイミングよく新会社法が施行されたこともあって、有限責任事業組合(LLP)として登記しました。どうしてこのかたちを選んだのかは巻頭セッションでお話しします。もちろん「権利要求だけする甘えた奴らだ」と言わせたくなかったということもあります。とにかく、これでわたしたちは「組合員」として、協同事業を行う選択をしたわけです。(6p.)

▽…このような「社会的起業」を試みるのは、もう我慢できないから。さんざん使いまわされた挙句、路上に放り出されて死んでいく人々がいます。日々の労働の中で精神がボロボロになってしまい、一生薬を飲み続けなければならない人がいます。どうやってもお金を稼げない人に対しても、社会は最低限の保障さえできません。何よりそれらすべてが「ないもの」とされていく現実がたまらない。そんな現実に対して一矢報いたい。そんな思い出出来たのがこの「フリーターズフリー」(通称FF)なのです。(pp.7-8)

フリーターズフリーのHP
http://www.freetersfree.org/

とりあえず、その巻頭セッションを読む。

戸村飯店青春100連発


戸村飯店青春100連発
瀬尾まいこ
\1,575
理論社
2008年

図書館ではリクエスト待ちがたくさんで、なかなかまわってきそうにない本を同僚さんから借りることができた。

瀬尾まいこの小説は、読後感がよくてイイ。
戸村飯店の長男ヘイスケと次男コウスケの兄弟の青春話。

おもしろかった!

うまいなー、瀬尾まいこ。

パリ砂糖漬けの日々 ル・コルドン・ブルーで学んで


パリ砂糖漬けの日々 ル・コルドン・ブルーで学んで
多田千香子
\1,800
文藝春秋
2007年

朝日新聞で記者として12年働いて、奨学金という名の借金もだいたい返して、34歳。

▽父は三十八歳で病死した。いま私は三十四歳だ。人生の残り時間が、あと四年しかなかったら。十年ぶりにパリを旅して、お菓子を学びたくなっていた。おやつを作って、書く人になりたい。食べる喜びを言葉で伝えたい。(11p.)

34歳の多田さんは、朝日新聞を辞め、パリへ製菓留学する。
この本は、辞めるあたりから、パリへ発ち、むこうでの怒濤の日々、帰ってきて京都の町家を借りるあたりまでを書いたもの。

朝日を辞めるというと、20~30代の女性にありがちな「パリ症候群」じゃないの?お金あるの?夢破れて帰ってくるんじゃないの?云々と、周りから言われたらしい。
言われるだろうなと思う。
ありがちな気もする。
でも、それが「ありがち」なのは、なんでさ?
20~30代の女性に「ありがち」なのは、なんでさ?

多田さんのパリでの暮らしは、日本と勝手が違うことありまくりで、一人でこれに立ち向かうのはドキドキばくばく大変だったことだろう…と思う。パリで買ったアパートを、売り払って帰ろうというのに、手続きがどうなったのか、買い手にカギを渡したのに、カネはあとだと言われたり!

昂揚も落胆も、悲喜こもごも書かれた、オモシロ留学記。

多田さんの「おやつ新報」blogもあった。
http://d.hatena.ne.jp/oyatsu-shinpo/

三面記事小説


三面記事小説
角田光代
\1,300
文藝春秋
2007年

ここしばらく小説を読んでいなかったので、休息がてら、布団にころがって、本を読む。
タイトルどおり、「三面記事」に出た事件を着想の発端とした小説群。

ちょっとこわくて、ウトウトすることもなく、一気読み。

うまいなー、角田光代。

お父さんはやってない


お父さんはやってない
矢田部孝司
矢田部あつ子
\1,600
太田出版
2006年

痴漢冤罪で一審有罪となり、控訴審で無罪をかちとった矢田部さんの記録。

映画「それでもボクはやってない」の周防正行は、この矢田部さんの控訴審無罪の翌日に出た特集記事を読んで、痴漢冤罪に関心をもち、映画をつくったという。

矢田部さんご夫婦への取材や弁護士、司法関係者への取材、裁判の傍聴、記録の読み込みなどがあったうえに、あの映画はできている。

「それボク」にあったエピソードの多くは、矢田部さんの経験にもとづいていることがよくわかった。矢田部さんはこの事件のために職を失い、保釈後はひどいうつになり、子どもを道連れに死のうとまで思ったこともある。支援に対しても揺れている。拘留中に、妻が友人たちに事件の話をして支援を求めていったことに、なんで言いふらすんだという思いがつのり、保釈後は口論が続いた日もあるという。
もうだめなんじゃないか、裁判はやめて、早く人生を再建することに力を向けたほうがいいんじゃないか、なぜ妻は無罪にこだわるのか…といった思いで揺れ続けた矢田部さん。

捜査はろくにされておらず、取調べは最初から犯人扱い、快適とはいいがたい拘留生活のなかで、虚偽の“自白”をしてしまう可能性を感じた。

矢田部孝司さんはデザイナーで、支援する友人らとともに、様々な証拠を作成し提出している。とりわけ、犯行時の車内状況を視覚的に伝えようと、CGやビデオを用いた再現をおこなっている。また、乗車した車両の状況、降車時の状況を、実際に現地で確かめていくことで、一審の裁判官が認定した「事実」がいかに現実的ではないか、自身が納得できたという。

ただ、矢田部さんも書いているように、裁判のために自分が動こうと思えば、就職活動もままならず、ましてや職について証拠集めなどをしていくことはかなり難しい。


当初は、被害者の狂言ではないか、示談金めあての悪質なものではないかと、そこを突く方向で弁護がなされた。当時、痴漢冤罪についての無罪判決がいくつか出ていたこともあったためのことらしい。

一審判決を読み、控訴審での弁護をどのようにしていくかを検討するなかで、被害者が、矢田部さんの近くにいた別の男から痴漢被害を受けた可能性がある、そして似たような黒っぽいコートを着ていた矢田部さんと間違えたのではないかということが分かってきた。そこで、控訴審では「痴漢被害はあったが、矢田部さんは犯人ではない」という方向でいくことになった。

妻の矢田部あつ子さんが、あとがきにこう書いている。

▽二年間の裁判経験を通して、書類だけで善悪が判断され、まるでベルトコンベアーに乗せられてしまったかのような司法システムの恐ろしさに、何度も愕然とした。
 警察のいい加減な捜査がまかり通るのは、簡単に勾留を認めてしまう裁判所の責任が大きい。裁判官は、勾留を延長すれば被疑者とされたサラリーマンが職場でどれほどのダメージを受けるか考えたこともないのだろうか? 否認すればなかなか保釈されないというシステムは、無実の者を追いつめるだけの手法としか思えない。この国の司法は、平凡に生きている私たち国民を簡単に握りつぶしてしまうだけの権力を、無責任に行使するのである。
(295p.)


控訴審の弁護団には、先日読んだ『裁判官はなぜ誤るのか』の著者、秋山賢三さんも入っていたという。
控訴審判決については、秋山さんの『痴漢冤罪の弁護』(現代人文社)に入っているそうだ。いずれ読んでみたいと思う。

(5月12日読了)

刑事裁判の心 事実認定適正化の方策


刑事裁判の心 事実認定適正化の方策
木谷明
\3,780
法律文化社
2004年4月

秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』のなかで、「疑わしきは被告人の利益に」の原則を貫徹した裁判官として、秋山さんが深く尊敬してきた先輩裁判官として言及されていた木谷明さんの本。

漢字が多く(ページが黒っぽい)、研究者向きというつくりらしく、とくに注釈もなく法律関係の言葉がいろいろ出てくる。ややとっつきにくい本ではあるが、読みはじめると、読みやすい。木谷さんが書いた判決文も、いちど読んでみたいと思った。

この本はなぜか2004年4月に出たあと、わずか3ヶ月後の7月に新版が出ていて、その理由が分からないまま図書館へリクエストしたところ、初版なら相貸できるが、新版をもっているところから借りるのは難しいと言われ、とりあえず初版を借りた。

なんとかして新版が見られないかと思案のすえ、でかい本屋をハシゴして探してみたら、A書店にあったので、立ち読みした。

すると、「弁護人が被告人のいい分を十分理解していなかったと思われる実例について」であげた「富士高校放火事件」に関する記述に関して、元弁護人の方から、事実と違っていると抗議があり、その部分についての謝罪と全面削除をおこなったものが新版だ、ということがわかった。

その他の部分は、旧版どおりのようだ。

「はしがき」にはこうある。

▽刑事裁判の事実認定は実体的真実主義に基づくものであり、形式的ないし訴訟法的真実への到達で満足する民事裁判のそれとは異なるといわれている。つまり、民事裁判では、裁判所は、当事者双方の提出する証拠の優劣により最終的には挙証責任分配の原則に従って事実を認定すれば足り、認定された事実が客観的真実と合致することまでは期待されていないのに対し、刑事裁判では、犯人として訴追された者が真犯人であるかどうかなどを誤りなく判定することが期待されている。

 この論理を突き詰めると、刑事裁判では、真犯人を一人も取り逃がすことなく、また、犯人でない者には必ず無罪の判決を言い渡さなければならないということになる。確かに、それは刑事裁判の理想であろう。しかし、神ならぬ人間のする裁判で、そのような完璧な結果を期待することは、もともと無理な話である。…[中略]

 真犯人とそうでない者を常に明確に区別できるという保証がないのであれば、(1)「真犯人を取り逃がすことになっても無実の者を処罰しない」ということで満足するか、(2)「真犯人は絶対に見逃さない。そのためには、無実の者がときに犠牲になってもやむを得ない」と割り切るか、どちらかである。

 ところで、刑事裁判においては、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従い、「合理的な疑い」があれば被告人に無罪判決を言い渡すということになってはいても、それでは、どの程度の疑いがあれば「合理的疑い」があるということになるのかが、必ずしも明確でないのである。そこで、社会秩序維持に軸足を置く裁判官は、真犯人を取り逃がさないようにするため、「合理的疑い」の範囲をできるだけ狭く解釈しようとするのに対し、無辜の不処罰を重視する裁判官は、「合理的疑い」の範囲をやや広めにとろうとする。その立場の違いは、合理的疑いの生むに関する最終的判断においてだけでなく、個々の具体的事実(間接事実)の認定においても、いわゆる「強気の判定」「と「弱気の判定」の差となって現れる。

 刑事裁判官として永年職務を続ける中で私が最も頭を悩ませたのは、まさにこの問題であった。そして、私のたどり着いた結論は、?「刑事裁判における最大の不幸は何といっても冤罪の発生」であるから、?「被告人側の提起する疑問には正面から取り組んで極力疑問点の解消に努める」べきであり、?「このような審理の結果証拠上の重要な疑問が解消できず、有罪であることについて説得力ある説明ができないときは、形式的な有罪証拠に引きずられることなく無罪判決に踏み切る」ことに躊躇すべきでなく、?「証拠の不足を推測や想像で補うのは適当でない」ということであった。それと同時に、私は、?「刑事裁判において犯人を処罰する手続は、あくまでフェアーなものでなければならない。そうでなければ、たとえ有罪判決を受けた者が真犯人であったとしても、その判決は感銘力に乏しく、被告人を本心から更生させる力に欠ける」と考えるに至った。私は、刑事裁判官として終始このような考えで仕事を続け…[後略]
(pp.i-iii)


サブタイトルにもなっている「事実認定」について、木谷さんの考えはシンプルだ。

第一章「事実認定の適正化」のなかで、ある若い判事補からの質問にこたえてこう書いている。

▽この判事補の質問は、次のようなものでした。それは、「木谷さんが無罪を言い渡された事件で、本当は被告人がやっているかもしれないと思ったことはどれほどありますか。またやっているかもしれないと思えた場合に、一人の人間としてどのように気持ちの整理をつけていったのですか。」というものでした。

 これは、まことに素朴な疑問ですが、考えようによっては、実体的真実主義と適正手続の狭間で揺れ動く刑事裁判官の悩みを的確に指摘しているのではないかと思います。しかしながら、私は、このような問題について、それほど深く悩んだことがありません。私は、刑事裁判の事実認定は、あくまで、検察官が合理的な疑いを容れない程度の証拠を提出したかどうかを判定する作業だと割り切って考えていましたし、今でもそう考えています。ですから、私は、証拠が薄いが本当は被告人が真犯人ではないのかというような次元の問題で裁判官が悩む必要はないし、またそのようなことで裁判官が頭を悩ましてはいけないのだと割り切っております。そういう問題について裁判官が余り頭を使い過ぎますと、証拠の不足を推測や想像で補って有罪の認定をしたくなると思います。そして、そのような作業からは、ときに無辜を処罰する結果が生ずることになるのではないでしょうか。私は、この判事補に対しては、おおよそ以上のような返事をして質問に対する回答といたしました。
(pp.35-36)

映画「それでもボクはやってない」の中でも、似たようなことを司法修習生がたずねる場面があったかと思う。それに対して、木谷さんと同様の考えを述べ、「疑わしきは被告人の利益に」「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰すなかれ」という法格言を言い聞かせた裁判官が描かれていた(この裁判官のモデルは、木谷さんらしい)。

第三章の「犯人の特定」のなかで、たとえば「被告人の言動による認定」について、こう述べる。

▽…上告審判例は、被告人の不審な言動に注目して裁判所が有罪心証を抱くことに対し、多分に批判的であるといえる。…[中略]…判例が、このような被告人の言動の評価に慎重な理由は、?それが「そのような発言を聞いた」という第三者の証言に現れたものであるときは、伝聞の過程に誤りが介在し得ること、?それが被告人作成の書面に現れている場合は、伝聞過程の誤りという問題は生じ得ないが、記載された文言自体に多義的な解釈を容れ得る場合が多いこと、?身体拘束中の被告人の場合は、取調べによる影響を無視できないこと、?身体拘束以前のものの場合も、当該発言をした際の被告人の精神的・肉体的条件を十分考慮する必要があることなどの点にあると思われる。
(pp.183-184)


基本的に木谷さんは、「…刑事裁判における事実認定は、当事者双方から提出される各種の証拠を総合して、検察官の主張する過去の事実が合理的な疑いを容れない程度にまで立証されたかどうかを判断する作業である」(78p.)という考えにもとづき、事実をどう把握するかに全力を傾けてきたということらしい。

「犯行当時の具体的な状況を把握するのに最も適した採証の方法は、裁判官自らが犯行現場に赴いて行う現場検証であり、特に犯行が夜間に及ぶ場合に夜間検証が重要であることは、容易に理解できることである」(79p.)というとおり、とくに自白のみが重要な証拠となっているような場合に、現場検証をおこなうことで、自白にあるような行動をとることは極めて困難だと判断された事例があげられている。


木谷さんは、かなり多くの事件で、無罪判決を言い渡してきている。検察官から控訴された場合に、一審での無罪が逆転する事例は、かなり目にするように思うが、木谷さんが無罪判決を言い渡した事例では、すべて無罪で確定している。

そうした逆転は、被告人の運命を左右するものであり、徹底的に避けねばならないと考えていた木谷さんの考えはこのようなものである。

▽…?第一審での審理を徹底的に行い、上級審で新しい別の証拠が出てくる余地を事実上なくしてしまうこと、?判決では、言葉を惜しまず十分な説明をして、自分の考えが上級審に正しく伝わるようにすること、?理由付けでは、多くの人の理解し易い言葉と論理を心がけること…
(24p)


木谷さんは、検察官ともあろうものが法廷で嘘をつくはずがない、被疑者に対して不当な言動をするはずがないといった先入観は捨てるべきだという。

実際に冤罪はおこってきたし、おこりうる場合があるからだ。

愛国者は信用できるか


愛国者は信用できるか
鈴木邦男
\735
講談社現代新書
2006年

パン!セの『失敗の愛国心』がおもしろかったので、続けて借りた本。

「私の愛国心 まえがきに代えて」で、鈴木はこんな風に書いている。

▽…またちょっと考えが違うと右翼から「売国奴」「非国民」と言われる。愛国者ゆえに日の丸・君が代は大切にすべきだと思うし、〈強制〉なんてすべきじゃない。日本はもともと寛大な国なんだし、在日の人々の参政権を認めたらいい。そう発言しただけで「売国奴」と罵られる。
(9p.)

40年間、「量」では誰にも負けない愛国者だという鈴木が、「売国奴」と罵られたりするのだから、「右」の世界もかなり右寄りになっているのだろうか。

鈴木が、竹中労から、「三島由紀夫の『文化防衛論』のネタ本は里見岸雄」と聞いて、里見のことを「忘れられた思想家」だと紹介している。田中智学の三男だそうだ。

▽[里見の]『天皇とプロレタリア』は、昭和六年に何と、百版を重ねている。「プロレタリア」と題名がついた本はすべて発禁になっているが、これだけは例外だ。左翼の人も随分買ったという。この本の中で里見は言う。

 〈国を滅ぼすのは「無智」と「愚かさ」とである。日本を尊崇するのは結構だが、「悪しく敬はば国亡ぶべし」である。
 予は断然叫ぶ。社会主義を日本国体化せよと。毒魚河豚ですらも、これが毒素を除去すれば、膳に賞味すべき佳肴となるではないか。一社会主義を消毒利用し得ざるが如き無力なるものにして何の万邦無比の国体であらう〉
(132p.)

里見には、『国体に対する疑惑』という本もあるそうで、そこには「天皇陛下のご真影に敬礼するは要するに偶像崇拝にあらずや」とか「忠君愛国といふことは要するに資本階級特権階級が自己の保存の為にする宣伝道徳にはあらざるや」といった疑惑(問い)があげられているという。

里見の本は、古い古いものだが、復刻もあって、調べたら(近所の図書館にはないが)ヨソの図書館に所蔵があったので、リクエストすれば借りられそうだ。
ひまができたらちょっと読んでみるかな。

希望は生徒 家庭科の先生と日の丸・君が代


希望は生徒 家庭科の先生と日の丸・君が代
根津公子
\1,785
影書房
2007年

『歌わせたい男たち』を読んだところで、リクエストして待っていた(ふだんは他市相貸ですぐ借りられるのだが、近所の図書館で購入することになったらしく)根津さんの『希望は生徒』が入った。

早速読む。

2004年の春に東京都では、君が代斉唱時の不起立や伴奏拒否で処分されたセンセイが250人もいた。根津さんもその際に処分されたひとり。

前年の2003年10月23日に、都教委から通達が出された(10.23通達、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」)。

ここには日の丸・君が代の扱いについて、ことこまかに書いてあるそうで、「本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」とあり、これを根拠に、その後の大量の処分がおこなわれている。

根津さん自身の日の丸や君が代に対する思い、考えはある。

ただ、根津さんが不起立を続けるのは、「君が代を歌いたくない」からではなく、たとえ、それが自分の好きな歌、好きなものであっても、【強制は、教育ではない】と考えるからである。

都教委は、処分についてこう言っているそうだ。

▽「起立する教員と起立しない教員がいた場合、児童・生徒は起立してもいいし、しなくてもいいと受け取ってしまう」「(全員が起立した)儀式で、会場全体が厳粛かつ清新な雰囲気につつまれることは…無形の指導となる」(裁判で被告都教委が提出した準備書面、二〇〇七年二月二日)…
(223p.)

都教委にとって「あれでもいい、これでもいい」というのは、あってはならない事態らしいが、根津さんがめざすものはむしろこれだ。

君が代が好きな人は歌ったらいい、君が代を歌いたくない人は歌わない、それぞれの異なる考えが尊重され、それぞれの考えをお互い表明できる場が教育の場であるべきだと根津さんは考えるからこそ、「起立すべきだ」と強制するのみで、その理由を全く示さない職務命令には従えない、立てないというのである。

それにしても、ほんとうにこわい。
東京で子どもを育てている人は…というだけでなく、異なるものを認めない、異なる考えを聴かない、言わせない、という雰囲気がつくられていっていることが。

根津さんのかつての教え子や、根津さんが「停職」出勤するのを見てきた教え子たちのなかには、こんなメッセージを根津さんに届けた人もいた。

▽「(停職中、校門前に)先生が立っていたことで、私はおかしいと思った時に人は立ち上がっていいんだと知りました。私はそう生きていきます」
(183p.)


残念ながら数カ所の誤字を発見。人名なのが、ちょっとまずい。

16p. (誤) 市川房江 → (正) 市川房枝
44p. (誤) 中沢啓次 → (正) 中沢啓治
223p.(誤) 西村眞吾 → (正) 西村眞悟

ミカ×ミカ!


ミカ×ミカ!
伊藤たかみ
\1,575
理論社
2003年

『ミカ!』のその後。

ミカもユウスケも中学生になり、「オトコオンナ」のミカも、しぶしぶスカートの制服を着ている(小学校の間はいちどもスカートをはかなかったのがミカだ)。

たいへん共感。

そのミカが「女らしい」ってどういうことやねん?と思い、制服以外で、何年ぶりかにスカートをはき、おためしの化粧品セットを買い、さくらんぼ色のリップまでぬってみる。

『ミカ×ミカ!』のさらにその後、あるとしたら、それはどんな風になるのだろう。
ミカはどんな青春期を送り、どんなおとなになるのだろう。

興味津々。

(5月9日読了)

歌わせたい男たち


歌わせたい男たち
永井愛
\1,575
而立書房
2008年

2005年初演の「歌わせたい男たち」のホン。
今年に入って、二兎社が各地で再演しており、見にいきたいな~と年明けの新聞記事を切り抜いて冷蔵庫に貼っていたのだが…行けずじまい。

あああ、残念。

ホンを読むことでがまん。

「歌わせたい校長」が「内心の自由」について、かつては生徒に語りかけていたこと、そこから一転して都教委の解釈にしたがって、「いやだなあと思いながら歌う」ことは、「いやだなあという内心」が保たれていて、決して内心の自由を損なっていない、などと言うに至るところに、なにがあったのかとより深く知りたくなる作品。


二兎社、再度の再演はせんのかなあ…

(5月9日読了)
 
 
プロフィール
 
 

乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
    乱読ブログバナー
本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在92号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第69回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

amazonへリンク

 
 
最新記事
 
 
 
 
最新コメント
 
 
 
 
カテゴリ
 
 
 
 
Google検索
 
 


WWW検索
ブログ内検索
Google
 
 
本棚
 
 
 
 
リンク
 
 
 
 
カウンター
 
 
 
 
RSSリンク
 
 
 
 
月別アーカイブ