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読んだり、書いたり、編んだり 

人身売買をなくすために 受入大国日本の課題


人身売買をなくすために 受入大国日本の課題
吉田容子(監修)
JNATIP(編)
\1,890
明石書店
2004年

業務上の必要(この本の紹介文を書く)があって読んだ本。

世界有数の人身売買受け入れ大国である日本の現状と課題をまとめた本。

▽目次

はじめに(戒能民江)
第1章 救援現場から見た人身売買の実態
 1 国内民間シェルターからの視点
  1 民間シェルターから見える日本社会の人身売買の実態(大津恵子)
  2 保護をもとめた女性たちの現実(武藤かおり)
 2 送り出し国側からの視点
  1 フィリピン側救援から見た女性たちが抱える問題(上内鏡子)
  2 タイに帰国した女性たちの課題(斉藤百合子)
第2章 国際的視点から見る法整備
 1 人身売買禁止議定書と国連人権高等弁務官による指針(米田眞澄)
 2 アジア諸国の人身売買に関する法整備の取り組み(藤本伸樹)
第3章 あるべき法制度に向けての提言
 1 国内法制度をどう変えるべきか(吉田容子)
 2 被害者の保護・支援施策の提言――被害からの真の回復のために(青木理恵子)
第4章 人身売買の根絶に向けたNGOネットワーク――JNATIP(玉井桂子)
おわりに(吉田容子)
資料編
 人身売買禁止議定書
 UNHCHR報告書


紹介文はまだ書けていない。

誤字の多さが気になった。

ブックストア・ウォーズ


ブックストア・ウォーズ
碧野圭
\1,470
新潮社
2007年

図書館で待っていた本にようやくありつく。タイトルにもあるように本屋の話だ。
『配達あかずきん』や『月魚』、『東京バンドワゴン』など、このところ本屋や古本屋がらみの小説をいろいろ読んだが、それぞれずいぶん雰囲気が違う。

『ブックストア・ウォーズ』は、いきなり結婚式の場面から始まる。だだだっと名前がいっぱい出てきて、誰が誰やったっけ状態になりそう。
ちょっとうんざりするような、お互い「嫌い」な女性ふたりの衝突話がけっこう長く続き、いつまでこんな話や…と思ったあたりで、ようやく話は佳境に入る。

半年後に閉店を言い渡された本屋を、店員が一丸となって、エエものにしていく話。
こんだけの残りページで、どうやって話がおさまるのか、どう決着がつくのかと、残りページの少なさが気になりながら読む。

トータルでは、まあまあの佳作。
しかし、前はんぶんは、ちょっとしんどかった。

テレビドラマになっても、いいかもなと思う。

きみはポラリス


きみはポラリス
三浦しをん
\1,680
新潮社
2007年

奥付の隣のページにある「初出・収録一覧」がオモロイ(もちろん本体の小説もオモロイ)。

▽「恋愛をテーマにした短編」の依頼が多い。
 以下、依頼者からあらかじめ設定されたテーマを「お題」、自分で勝手に設定したテーマを「自分お題」と表記する。
 「お題」または「自分お題」に沿って書いた恋愛短編を集めたのが、本書である。(p.302)


で、「お題」には「ラブレター」「あのころの宝もの」「結婚して私は貧乏になった」「最後の恋」があり、「自分お題」には「「禁忌」「王道」「信仰」「三角関係」「共同作業」「年齢差」「初恋」がある。

おそらく“恋愛短編”と聞いて、思い浮かべがちなものとは、一線を画している。
と思う。

で、この「自分お題」を見ていると、ちょっと姫野カオルコを思い出したりもするのであった。

ず・ぼん 図書館とメディアの本 13


ず・ぼん 図書館とメディアの本 13
ポット出版
\2100
2007年

特集は「岡田健蔵の函館図書館」
こんな人が、いたんやなあと驚く。貸出数とか利用者数とか、そういう“サービス”の数字を追いかける傾向が強まっているように思うが(そして、「うごかない=貸出がほとんどない」という理由での資料の除籍まであったりするが)、幅の広い資料の収集と保存も、図書館にとって、そして現在と将来の使う人にとって、大事なことだろうと思う。

岡田健蔵のことを書いた本もあるようなので、そのうち読んでみたい。


ほかに、『図書館戦争』シリーズの有川浩インタビュー「 「自由宣言」は勇ましい!」や、「三社で指定管理者制度スタート 話題の千代田図書館に行ってみた」という座談会、「東京荒川区の非常勤制度改革」「いつまで続けられる?委託スタッフ」といった記事で、いつもながら読みがいがある。

http://www.pot.co.jp/zu-bon/zu-13/index.html

善意の仮面 聴能主義とろう文化の闘い


善意の仮面 聴能主義とろう文化の闘い
ハーラン・レイン(Harlan Lane)
長瀬修(訳)
\3,780
現代書館
2007年

原著タイトルは
The Mask of Benevolence:Disabling the Deaf Community
1999年の第二版の訳である。

「同じ国・社会に属していても、手話を母語とし生まれつき聞えない世界に生きるろう者は、中途失聴者と違い、自らを障害者とは捉えず、言語・文化マイノリティと捉える。ろうを損傷と捉え、聴者社会への同化を迫る聴能主義への強烈な反論。」というのが出版社の紹介。

訳本のサブタイトルにもある「聴能主義」とは、聴こえるのがエライ主義というか、聴こえないのは不幸主義というか、とにかく「聴こえない」のは大変な不幸せで、手話なんてのは野蛮で未開なもので、聴こえて、口話ができるのが一番だという固い思い込みを指す。
ろうの子どもへの「人工内耳」装着のススメは、この聴能主義の象徴のようにこの本では扱われている。

▽…ろう者に関する思考の革命が起きている。その構築の変化は、奴隷としての所有物からアフリカ系アメリカ人市民へ、同性愛に苦しむ物からゲイマイノリティへ、女性が看護師や主婦といった画一化された限定的な役割からパートナーシップへとそれぞれ置き換えた変化と同様に決定的である。この思考革命において、障害としてのろうは、ますます言語的マイノリティとしてのろうに置き換えられている。(p.11)

▽聴覚障害をもつ米国人の多くは、米国ろう者社会のメンバーではない。初めての言葉は音声言語であり、聴者社会の文化を身につけた人たちであり、中途でしかも多くの場合、ある程度年をとってから難聴やろうになっている。本書はそのような人々に関するものではない。本書の主人公は、ろう者として成長し、手話の文化とろう者社会の文化を身につけた人たちである。より正確には、聴者、とくにろう者に尽くしていると称する聴者と、ろう者社会のメンバー自身との関係が本書のテーマである。どのようにろうの子どもと大人を記述するのが最善か、どのように教育するのが最善か、どのようにリハビリテーションするのが最善か、それぞれに関する聴者の見解は相互に密接な関係にある。そして、ろう者の生活を決定し、取り締りさえしている多くの職業はこうした聴者の見解に基づいており、同様に相互に密接な関係にある。こういった見解には共通の前提がある。すなわち、ろう者は障害者である。これに対して、ろう者社会は全く別の前提を持ち、その前提が本書を導いている。すなわち、ろう者社会は言語的少数者(マイノリティ)である。…[中略]…私にできることは、ろう者が言語的・文化的少数者であるという私見を、それとは対照的である、ろう者であることは悲劇的な損傷であるという、私たちの社会で支配的な見方と併置することでしかない。(pp.12-13)

▽…ろう者社会のメンバーであるとはどういうことかを知るとは、ろうのまま育ち、ずっと手話が主要なコミュニケーション手段であり、眼が心の入り口であり、友人のほとんどがろう者であり、手話ができる子どもを多く知った後で初めて手話ができない友人がいることを知り、尊敬する人がろう者であり、聴者が物を知らず、話に消極的なことにいつもいつも苦労させられてきたらどう自分が考え、感じ、反応しただろうかと思い描くことである。つまり、〈自分がろう者だったら〉と想像することである。(p.36)

▽…言語はのどと口をわずかに動かして音を発生させることで表現されるのと同じように、手と顔を動かしても立派に表現することができるようだ。学生のときに学んだ、言語の第一の基準として話すもの、聞こえるものであるというのが誤りだった。そしてもっと大切なことに気づいた。言語は話す、聞くという私たちの能力に依存しているのではない。言語は頭脳の高度に抽象的な能力にちがいない。言語を持っているのは頭脳である。頭脳の能力は、ある経路でブロックされた場合に、他の経路を通って現れる。(p.37)

▽文化的な意味での大人のろう者に、「ハンディキャップがある」(handicapped)、「障害がある」(disabled)、「損傷がある」(impaired)という分類をされた最初のときはどうだったかとたずねてみる。すると、遺伝、出生、幼少期といった状況・環境で、親と違っていると子どもが特別視され、子どもと親のコミュニケーションが成立しなくなったということがわかる。親は自分の基準に照らして、これはおかしいと判断し、小児科、耳科、オーディオロジーの専門家に連れていく。この専門家が損傷モデルの折り紙をつける。専門家はなぜ、そんなことをするのか。損傷に診断を下すのが、まさに専門家が専門家たるゆえんである。どのように専門家は子どもの差異を逸脱として医療化するのか。まず、差異を生理学的に微に入り細にわたって記述する。しかも烙印(スティグマ)を押すような態度で行うことが多い。音声言語が損ねられる点に関して、多くを語る。ASL[American Sign Language]の獲得にはほとんど語ることがない。聴力の損失に関しては多くを語る。視覚的認識、思考面のプラスは無視する。…(p.52)

▽パターナリズムは、アフリカの植民地主義者であれ、ろう社会に関わる自らは聴者である専門家であれ、無知蒙昧であり、成功せず、利己的である。しかし、パターナリズムの害悪はそれにとどまらない。恩恵を受ける者を依存的関係におき、自らの心理的、経済的利益のために従属させ続ける。パターナリズムは恩恵を受ける者から歴史を奪い、恩恵を受ける者が本来心に描けるはずの人生の可能性を奪う。抑圧されているマイノリティの一部を腐敗させ、当局と共謀して現状維持を図る懐旧を形成する。パターナリズムは自らの失敗の責任を恩恵を受ける者が生物学的に劣っているせいにする。もしこれが継続した場合には、パターナリズムは恩恵を受ける者に、恩恵を与える者の価値観を浸透させる。そして、抑圧は内面化される。(pp.68-69)

▽このようなろう者に尽くしていると称する、保護者面をした聴者中心の試みに名前をつけたほうが便利にちがいない。アメリカの教育者であり、著作かでもあるろう者トム・ハンフリーズの言葉を借りて、「聴能主義」(オーディズム)としよう。「聴能主義」とは、ろう者に対処する制度総体である。ろう者に関する発言を行い、ろう者に関する見解を述べる権限を持ち、ろう者を記述し、ろう者について教え、どの学校に行くのか、ときにはどこに住むのかすら決定することで、ろう者に対処する。簡潔に言えば、聴能主義とはろう者社会を支配し、再構成し、ろう者社会に権力を行使する聴者の方法である。(p.75)

▽…ろう者のいわゆる無能さは「ろう者の心理」の結果ではなく、原因であるかもしれない。植民地にする側の人種的ステレオタイプが磨かれていく過程と恐ろしいほど似通っている。その過程をアルベール・メンミが次のように述べている。(1)違いを発見する、(2)植民地にする側にとって有利、植民地にされる側にとって不利なように、その違いに価値をつける、(3)違いが固有のものであるとし、その違いは決定的なものであると確認し、決定的なものであるように行動する。(p.106)

▽ろう者社会が自らの文化・言語・歴史的現実を否定し、代わりに障害モデルを受け入れるならば、…[中略]…つまり、ろう者が障害者であるとする言説は正当であるとろう者社会自らが認めるならば、ろう者社会の力は奪われ、障害者として扱われてしまうだろう。心理測定学のふりをした否定的なステレオタイプはまさに力を奪い、障害者として扱うものである。子どものアイデンティティを否定し、教員が子どもの言語を使えず、仲間のろう児から切り離す方法で行われる教育はまさに力を奪い、障害者として扱うものである。個人化、医療化、という実践を強化する手術、テクノロジーはまさに力を奪い、障害者として扱うものである。(pp.128-129)

▽…権利は本来、尊重されるべきである。権利が尊重された際に感謝する理由はない。尊重されなかったときに怒る理由があるだけである。(p.132)

▽…もしろう者が自らを「聴覚障害者」[HEARING-IMPAIRED]と呼ぶならば、それには深い意味がある。この分類は一九六〇年代に聴能主義体制によってつくり出され、その使用が推進されてきた。聴覚障害と呼ばれたほうが、ろう児の処遇は改善されるという触れ込みだった。このレッテルには聴能主義体制を正当化する障害もであるが内臓されている。これは聴者との対比においてのみ存在する。まるで「非男性」というレッテルを女性に、「非白人」を有色人に、「性的障害者」をゲイに用いるのと同様である。ろう者社会のメンバーがこういったレッテルを受け入れることは、自らのアイデンティティを放棄し、支配的社会集団の定義を受け入れることである。支配的集団は時にレッテルを貼り替える。肝心なのは、貼り替える権力を持っていることである。(p.136)

▽…私が言いたいのは、ある言語が他の言語に対して優越性を持つことはなく、敬意をこめて仰ぎ見れば、どの言葉も自分より下にはないということだ。言語はそれぞれの社会のニーズに対応するように各社会の中で進化してきた。ASLは、米国のろう者社会のニーズに適応してきた。英語はそうではない。ASLの代わりに英語をという驚くべきここ百年の動きは、人類の恥ずべき歴史の中に独自の一章を得るだろう。(p.183)

▽自らの問題に発言権を持つためにろう者は障害者として参画しなければならない状態が続いている。聴能主義者はろう者を二重拘束状態に置いている。抑圧されている集団が管理されたアイデンティティを内面化するのを確実にする一つの方法は、そのアイデンティティを受け入れることを報酬の条件とすることである。手当や税控除を子どもの数に応じて家庭に出す社会で、女性は二重拘束状態に置かれている。ゲイを精神上の問題という理由で、従軍義務を免除する社会においてゲイは二重拘束状態にある。法的に自分のものなら、特権を享受してなにか悪いのか。そもそもこの社会は私を抑圧し、私に借りがあるのだから。しかし、そうした行為は受け手、受け手が属する集団に害を与える。(p.263)

▽…無数の大人、子どものろう者の運命に決定を下したFDAの耳鼻咽喉機器パネルは、聴者のみで構成されている。五人の耳科の医者、一人のオーディオロジスト、人工内耳業界の代表、そして「消費者代表」である。注意して頂きたい。「消費者代表」はろう者でもなく、ろう児の親でもなく、聴能主義体制の一翼を担うろう学校の聴者教員である。この選択は異様に思えるかもしれない。しかし、測定、教育、医学という聴能主義内部での親密な関係がここにも反映されていると考えれば納得がいく。アメリカには、ろう者の生き方に関する決定が下される場にろう者の居場所はないのである。(p.286)

▽疾病は社会的に構築されている。この構築は生理学によって規制されている。同時に、その疾病がおかれている文化の生態環境、その文化の医学的言説、医学的制度の正確によっても規制されている。『ニューヨークタイムズ・マガジン』は一九九一年六月に「どれだけ背が低いと、低過ぎるのか」と問いかけた。「患者」一人あたり年に二万ドルかかる、実験的なヒト成長ホルモンを製造するジェネンテク社の回答は「人口の九七パーセントよりも背が低いとき」だった。タイムズが引用した倫理学者は「ヒト成長ホルモンができるまで、背が低いことを病気だと思う人はいなかった。手を加えることができるようになって初めて病気になった。医者、保険会社は自分たちの行為を合理化しようとして、背が低いことを病気と見なさざるを得なかった」と指摘している。合成ホルモンの副作用、高額の費用にもかかわらず、売り上げは一億五千七百万ドルだった。二年前よりも四割増である。九万人の子どもがこの九七パーセントラインよりも毎年、低くなる。これは年商八〇億、百億のマーケットとなる数字である。ジェネンテク社にとって都合が良いのは、この「病気」は決して根絶されることがないのである。私たちの背の高さがどれだけのものであろうが、背が低い三パーセントの人は常にいるからである。(p.293)

▽…病気であるということは、望ましい別の状態の存在を暗示している。ある身体的状態がその社会内でありふれたものであり、その社会の目的達成の邪魔にならない限り、その状態を病気と見なすのは、異なる目標を持ち、異なる文化的準拠枠を持つ外部の者だけである。(p.294)

▽…私たちの社会の建設理念は他の生き方への寛容さにあった。この寛容さという国家の理想を十分に実現できていないからといって、人間の差異をなくしてしまったり、人間の差異を逸脱として鋳型からはみ出すものとして扱ってしまったりすることを正当化できない。(p.331)

▽幼い子どもに人工内耳手術を許す公衆衛生政策は科学的にも、倫理的にも欠陥があるというのが私たちの結論である。しかしながらろう者、聴者それぞれの価値観の相対性、完璧な人工内耳が提示する倫理的問題の理論的議論が現実への目を曇らせてはならない。広範に行われている人工内耳手術は多くのろう児から十分な言語を奪い、社会性、心理面で危険にさらし、その生を傷つけている公算が非常に強いのである。(p.354)



ギャローデット大学の、ギャローデット革命についての記述も印象にのこった。
著者のレインは聴者である。


子どもに人工内耳を手術をした知り合いがいる。
どうなんやろうなーーーーと気にかかる。


この本は、「ろう」は「言語的・文化的マイノリティ」であって、「障害」ではないとずっと論じているのだが、残念なことに、図書館のNDCという図書分類で、この本は378、「障害児教育」に分類されている。

「ろうは障害ではない」と主張する本が、そのように分類されているのは、なんだかなーと思わせる。手話に関する本も、言語(8門、分類番号では800番台)ではなくて、この378に分類されている。

分類という、世界をどうみるか、どう分節するかというような根っこのところに、実にさりげなく「ろう=障害」という思想が入り込んでいる。

図書館で378の棚を見るたびに、そう思う。

人生激場


人生激場
三浦しをん
\500
新潮文庫
2006年

もう図書館で待たずに借りられる三浦しをんの小説はぜんぶ読んでしまった。なにか少しでも、と三浦しをんの小説も入ったアンソロジーと、エッセイ集を一冊借りてきた。

『人生激場』…もしかして読んだことあったっけなー、わすれたなー、でも文庫本はたぶん初めてやし、文庫オマケの「思い出ボロボロ」という後日談もついてるし(単行本化のときには「思い出ホロホロ」という後日談がついている)。

で、読む。

ううむ、途中で何度か笑い声をあげてしまった。

自宅のトイレでは、電気もつけず、ドアを開けたまま用足しをするという三浦しをん…
そういうような話があれこれと綴られているのであった。

やはり小説とは趣が違うのう。

ぼくたち男の子 4~5

ぼくたち男の子 4~5
こなみ詔子
角川書店(あすかコミックス)
いずれも1995年

先日よんだ1~3巻の続きを借りてきてよむ。6巻も一緒に借りてくるつもりが、先に借りたい本があったため、あとまわしに。

4巻で民夫と敬士は中学生になり、5巻で高校生になる。
1~3巻は長い小学生時代をかいてあったが、急に時間がはやくなるかんじ。

敬士は東京へ行きたくて、そのための手段を探している。敬士が上京してしもたら…そんなの嫌ーーーーーーーッッと民夫の心は千々に乱れ。。。

よしながふみの『西洋骨董菓子店』冒頭であったような、「気持ちわりーよ」的セリフが敬士の口から出る。
6巻で終わるらしいが、このあとどーなる?!

まほろ駅前多田便利軒


まほろ駅前多田便利軒
三浦しをん
\1,680
文藝春秋
2006年

三浦しをんの小説を読みたいばかりに、昨日開いてた図書館の蔵書検索をして、昼休みに一っ走り(一駅向こうまで)借りにいったっつーの。

『まほろ駅前多田便利軒』(いま「只弁利権」と変換したぞ、この入力システムのこんこんちき)を、晩ご飯借りてきてからちらりと読みはじめたら、結局読んでしまいました。

小説をけっこう読む同僚さんと「さいきん読んだ本」について昨日語らっていたら、『まほろ駅前多田便利軒』は直木賞をとったやつだとわかる。

そういえば、この表紙が本屋にやたら並んでたときがあったなア。賞をとった本はあまり読まないので、そういえばそうだったかなと思う(図書館でアホほどリクエストがついているのが常なので、ほとぼりが冷めた数年後に書架でみつけて借りることがあれば読む)。今回は「三浦しをん」小説を読みたい!ヨクボウに駆られての借り出しだ。

直木三十五賞、略して直木賞はたぶん文学賞の名としてはよく知られているのだろうが、賞の名に冠せられている「直木三十五」という小説家の作品を読んだことがある人は、芥川龍之介賞にその名をのこす芥川作品の読者にくらべると、少ないかもしれんなと思う。

芥川は教科書にもぱらぱら載っていた気がするが、直木は文学史の副読本とか歴史教科書のどこかでちらっとその名が出てるくらいではないかしら。

何ヶ月か前に、ひょんなことから直木三十五の作品を読んだ。「岩見重太郎の狒狒退治」のせいである。

ある日、北村薫の小説(たしか『朝霧』)を読んでいたら、岩見重太郎の狒狒退治になぞらえて、若い編集者が老作家に原稿をいただきにあがる場面が書かれていた。

その翌日、たしか小川洋子の対談集で、対談相手の田辺聖子が「岩見重太郎の狒狒退治」がどうのこうのと語っていた。小さい頃にそういう話をよく読んだという文脈だったと思う。

たまたまとはいえ、二日も続けて「岩見重太郎の狒狒退治」である。

岩見重太郎?誰?そして、老作家が退治されておこうかと若い編集者に原稿を渡すことに例えられている狒狒退治とは?

岩見重太郎は人名らしいので、とりあえず図書館の蔵書検索をかけてみる。が、ノーヒット。

誰?と疑問をこらえ切れぬ私は図書館のカウンターで調べを依頼。この小説と、この対談集と、二日続けて「岩見重太郎の狒狒退治」なんですが、それが気になって気になって。

岩見重太郎が何者か(作家か?)も知らず、狒狒退治の「狒狒」も分からず、手づるを求めた。ヘルプミー図書館!

数日後、図書館のカウンターで積み上げた本を示され、館内であれこれと読む。
その中に『直木三十五集』もあった。私はそれで初めて直木三十五を読んだ。戯作六種というなかにあった「岩見重太郎」である。

「岩見重太郎の狒狒退治」は、仇討講談の一つであるらしい(しかも後の仇討講談に大きな影響を与えた、典型的な話らしい)。

『柴田連三郎選集』のなかの「岩見重太郎」も読んだ。

関連するらしい「猿神退治」の話もいくつか読んだ。

『直木三十五集』は旧かなづかい時代の本で、慣れない私には少々読みづらかったが、(直木賞の直木って、おもろいなー)と思った。


直木賞は、大衆文学に与えられる賞だという。
ふむむ。
『月魚』に続き、『まほろ駅前多田便利軒』はBLぽい小説だった。BLの大衆化も近いか?!

月魚


月魚
三浦しをん
\1,890
角川書店
2001年

古本屋が出てくる話。
といっても『東京バンドワゴン』とは全く違う趣き。

読んでいると、よしながふみのマンガをよんでいるような気分でもあった。

あーー三浦しをんの小説をほかにも読みたい!!!!

おひとりさまの老後


おひとりさまの老後
上野千鶴子
\1,470
法研
2007年

リクエスト待ちしていたのがまわってきた。これも後に待ってる人がいるので、とっとと読む。市の図書館では16冊もっていて、230人のリクエスト待ちである。

奥付をみると、昨年7月の一刷りである。
この本、ここ数ヶ月ずーーーーーっと近所の本屋の店頭に面出しで並べられている。
どれくらい売れてるのか、いったい今売ってるのは何刷りだろうか。

そこまで目新しいことは書いてなかったなーというのが読んでの感想。
私にとっては、ということなので、この本に書いてあるいろいろを目新しいと感じる人もいるだろう。
上野本はそれなりに売れているはずだが、今までの上野本のなかでも一番に近い売れゆきかもしれない。どういう人が買って(または図書館などで借りて)読んでるのかな~と思う。
そして、どんな感想をもっているのだろうかな~と思う。

そこにはひじょうに興味がある。

三好春樹がユニットケア叩きをしているのを少々くさしているところ(83-86pp.あたり)や、「夫婦別姓選択制を推進する民法改正には熱心になれないけど、この親族遺留分の撤廃のための民法改正運動ならやってもかまわないと思う」(224p.)と書くあたりは、へーーーー、そうなのか、と思った。
(その運動はまだ見かけないが)

脳梗塞でたおれて以来の鶴見和子の仕事や多田富雄の仕事を称揚している(182-184pp.)一方で、しばらく先のページでは「脳梗塞などの後遺障害によって要介護になるひとも多いが、考えてみれば突然の脳梗塞を経験したことじたいが、自分の『カラダの声』に耳をすませてこなかったことのツケといえるかもしれない」(196p.)てなことが書いてあって、なんだかバランス悪い気がした。

団塊の世代が読んでる?のだろうかな~

むかしのはなし


むかしのはなし
三浦しをん
\1,575
幻冬舎
2005年

三浦しをんの小説をもうちょっと読みたくて、借りてきた。
それぞれの章の扉に「日本昔話」の引用がある。「かぐや姫」「花咲か爺」「天女の羽衣」「浦島太郎」「鉢かつぎ」「猿婿入り」「桃太郎」。

途中まで読んでから、ああ、この一冊も連作集なのだと気づく。
三浦しをんはこういうのが得意なんだろうか。
各章の長さはまちまちで、短いのも長いのもあった。

さいごの章、モモちゃんが出てくる「懐かしき川べりの町の物語せよ」がおもしろかった。
ただしモモちゃんといっても、「小さいモモちゃん」ではない。

三浦しをんが、「いま「『昔話』が生まれるとしたら」(p.267)と考えた結果が、この小説になっている。「語られることによって生きのびてきた物語」(p.266)が伝えているもの、物語となって伝わってきたもの、そういうのを三浦しをんは考えたのだろうかと思う。

マンガ(2)



おととい古本で購入したマンガ。

魚喃キリコ『南瓜とマヨネーズ』祥伝社(フィールコミックスGOLD)、\920、2004年
山岸凉子『天人唐草 自選作品集』文春文庫ビジュアル版、\650、1994年

久しぶりによんだ。
『南瓜とマヨネーズ』には付録として島森路子との対談がついていた。
魚喃キリコは「なななん・きりこ」とよむ。高野文子と同郷(新潟県)だという。
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在92号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第69回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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