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読んだり、書いたり、編んだり 

職安へいく(II)

▽春日 たしかにそうでしょうね。で、われわれの場合だと、全然しゃべらないとか、意味のわからないことしか言わないような相手と、なんとか仲良くしなければいけませんからね。とりあえず手を握ったままじーっと座っているとか、そういうことしかできないわけですよ。
 そうすると、向こうとしても、ずーっと一緒にいてくれたということだけはすごく覚えていたりするわけで、少なくとも、誠意は通じているんだなあという気はするんですが…。
 内田 そういうふうに「通じる」ものって、言語的なメッセージとは違う次元のものですよね。仕事ってそういうものだと思うんです。仕事を自己実現とかキャリアアップとか、自分の力で世界を加工し切り開いてゆくという図式で捉えるのはもうやめた方がいい。そうではなくて、世界の方が自分に向けて呼びかけてくる、それにどう応えるか、という対話的なスキームで捉えた方がいいと思うんです。
 ただ、ドアの向こうから聞こえてくるはずの「どうぞ」という声は、実際の声じゃなくて、無言のメッセージですからね。それが聴き取れない人はどうしても自分でドアをこじ開けようとしちゃうんでしょうね。(55-56ページ)

 昼頃雨があがったようなので、昼ご飯を食べてから自転車こいで職安へいく。でも雲が多いなあと思っていたら、職安まであともうちょっとのところで、ばたばたと雨が降り出した。えええええ。しっとりとして職安到着。そこで求職の申し込みをする。どんな仕事に就きたいか、第2希望まで書くようになっている。どういう求人があるんやろうなー、私ができそうなのがあるかなーと思案していたら、けっこう時間がかかる。

 紙を出してしばらく待ったあと2階で審査を受けた。いろいろ苦労して(多少いやな思いもして)こないだの会社から離職票を取ったのに(ついでに、こういうことがありましたというのも紙に書き出していったのに)、私の場合は、3月末に辞めたほうの離職票で今回「失業給付」を受けることになるのだと言われる。そっちは“契約満了”で辞めているので、7日間待機のあと、すぐに給付される。それはそれでありがたいのだが、(4月から8月まで掛けたぶんの雇用保険はどうなるんや?)とまだよくわからない。

職安へいく(I)

 今日は職安へ行くぞと思っていたところが、朝から雨である。昨晩からしとしとと降り続いていて、(朝から行くぞ)と思っていたものの、自転車で行くつもりなので、天気予報など見ながらとりあえず雨があがるのを待つ。

 昨日読んだ『健全な肉体に狂気は宿る』のなかの、キャリアってのはこじ開けるものではなくて、呼ばれるものだという話が印象に残る。これててウェーバーが言うてた「天職=神さんに呼ばれた仕事」って感じ?

▽内田 ぼくは「自己」という概念もそろそろ改鋳した方がいいと思っているんです。だって、「自己」って単体で存在するわけではなくて、人間たちを結びつける社会的なネットワークの中でどういう役割を演じるかということで事後的に決まってくるものなんですから。(中略)
 …健全な人というのは自分の世界が広がってゆく人、ということになりますよね。ネットワークが増殖して、体から触毛みたいなものが出てきて、それがいろんな人とつながっていって。そういうゆるやかな共同性の中で、まわりの人が自分をどんなふうなものとして受容しているか、自分に何を期待しているか、自分をどんなふうに必要としているか…という仕方で自己をとらえてゆくというのが一番確かな自己把持だと思うんです。
 就職活動をしている学生によく言うんですが、(中略)キャリア形成ということを「しまっているドアを自分の力でこじ開ける」ことだと思っている。でも実際は、ドアはあちらから開くものであって、こっちからは開けられない。あっちから「どうぞ」って呼ばれない限りは開かれない。そういうものなんです。
 そのへんのことが彼女たちにはわかってない。「キャリアって自分で形成するものじゃないんですか?」ってきょとんとしている。「君の能力や資質のうち、他人が必要とするものを提供し続けてゆくことが『キャリアパス』なんで、どれがキャリアになるかを君は自己決定することはできないんだよ」って言っても、意味がよくわからないみたいですね。
 「自分はこれがしたい」ということは、一生懸命言うんだけれど、「自分は他人のために何ができるのか?」という問い方は思いつかない。でも、「誰が自分の支援を必要としているか?」という問いを自分に向ける習慣のない人間は社会的にはほんとうは何の役にも立たないんです。(51-52ページ)

晴れのち曇りのち雨(III)

 仕方がないので、入試用に転載された私の文章を読んでみる。大学入試における現国の選択問題を間違えないためには、いきなり先に「問」を読み、六割程度を外してから(この場合は(2)通信と(4)映像と(5)機械)、最後の二者択一時に出題の対象となっている文章の該当部分だけを読む、というのが正しい態度である(じゃなきゃ解けっこない。書いた本人がわからんのに)。

 《学者たちが「存在と時間」を巡って哲学するようになるのも、分単位の時計、電気、映画といった近代的aメディアが登場する前世紀末を待たねばならなかった。》

 しつこいが、書いた本人としては正確にいえば、ここでいう「メディア」は、やっぱり通信や映像などを含む媒体または空間、という意味に私は使っている。同書のなかで私は、むしろメディアを単に新聞やテレビという狭い使い方ではなく、媒体、ひいては空間として捉えることを提唱したのだ(問題文にその部分は出てこないが)。もちろん、肉声による会話も立派なメディアなのである。肉声は、空気の振動によって伝わる。したがって、メディア=媒体=空気という等号が成り立つのだ。

 ところで、こうして出題された私の文章を読むかぎり、ここでいう「メディア」の意味としては(2)通信と(4)映像は違うけれど、(5)機械でも悪くはない。いや、《時計、電気、映像》が例示されているのだから、(1)空間でも(3)媒体でも(5)機械でも私的には正解だ。

 おそらく出題者的には正解は(3)媒体だと思う。しかし、メディア=媒体っていうのが答えだったら、いくらなんでも問題として安直すぎないか。やはりこれでは「問」だけ先に読んで解答しちゃったほうが正答率はぐんと高まる。

 問三と問四は、さっぱりわからなかった。問五から問七は正解の察しはついたが、解き進むにつれて、私は出題者の悪意に吐き気を催した。いろいろな背景を複雑に交錯させながら書いたのに、《著者が念頭においていたと思われる背景を一つ》と著者の繊細(いつから繊細?)な感情を逆撫でし、私が一万二〇〇〇字もかけて書きつづった一章から二〇〇〇字分だけ抜き出してきて、しかもそれを《五〇字で要約しなさい》と恐ろしいことを平気でいう。五〇字で要約できるなら、私だって最初からそうしている。莫迦も休み休みいってもらいたい。(248-252ページ)

 昼頃から、Tkちゃんと「散歩にいくかあ?」とメールを交わしあうも、お互い昼寝に入ってしまって、起きたら降りそうな空。今日は散歩中止。
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在92号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第69回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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