読んだり、書いたり、編んだり 

よしながふみ『愛がなくても喰ってゆけます。』太田出版

よしながふみ『愛がなくても喰ってゆけます。』太田出版、2005年



▽だっ
 第二間接まで
 毛がはえて
 いる!!(136ページの左下のコマ)



→第二関節 



さくさく仕事

 あと3日。今日もさくさく仕事して、とっとと定時であがる。制作部がかなり忙しそうで月末納品がほんのちょっと不安だが、できることはさくさくと進める。
 今日は同居人が健康診断で弁当いらんというので弁当休業して、アルバイトのYnさんとでもお昼を食べにいこうと思っていたところが、体調不良とかでYnさんはお休みだった。で、あとちょっとやしなと隣席のKさんと食べにいく。相変わらず仕事は遅いし、考えが甘いし…しゃべってて、ええ加減いやになってきた。とにかく段取りが悪すぎる。そのくせ「月末にできんかったら、1日か2日でもいいでしょう」と勝手に自分で決めようとする。「会社にあるモノは使わんと損や」と言うのを聞いたときには、(あかん、こいつもかなりアホや)と思ってしもた。

 明日と明後日、あと2日。頭はほとんど辞めたあとの生活にうつりつつある。

 図書館へ行って、返して借りて、買い物して帰宅。晩ご飯は生姜とニラ入りの豚キムチ炒め、モズク豆腐、ご飯。ご飯のあとに梨。

 同居人は夜介護。私は一風呂浴びて、ごろごろと読書。
 今日は行きの電車で『蒲生邸事件』を読み終わった。宮部みゆきは、まだまだ読んでみたい。

お茶会、宴会

 今週も同居人は土曜出勤でセール手伝い。朝6時半起きで出ていった。私もまさ朝早くに目がさめてしまったので起きて、洗濯して干す。父ちゃんに電話をかけて、パソコンのモニタを運ぶ時間を決める。父ちゃんは「パソコンが壊れた」と騒いで新しいのを買ったけど、どうもモニタがだめになっただけで本体は生きているようなので、うちからモニタを運んでつないでみようという計画。

 うちの近くのコンビニまで父ちゃんにクルマで来てもらい、そこからウチの前までクルマをつっこんで、モニタを載せ、一緒に父ちゃんちへ行く。
 ケーブルの接続をいくつか試してみたら、やはり本体は生きていて、ウチから運んだモニタに父ちゃんのハードディスクの中身があらわれた。よかったよかった。それから新しいほうのパソコンの様子もちょっとのぞき、古いプリンタをつなぐケーブルの一部がどうも失われているようなので、調べて買ってくると請け合って、今日の作業は終了。

 父ちゃんがお昼をどうするどうすると言い出したので、あちこち探って、私が「サラダ風素麺」をつくって、一緒に食べた。“家庭科”を習ったことのない世代で、我流を通す父ちゃんのような人は、ほんまに三大栄養素やら献立の知識が乏しくて、父ちゃんの日々の食卓がちと心配。タンパク質が足りんよ、ぜったい。
 昼すぎ、父ちゃんにクルマで送ってもらって帰る。あいかわらずブレーキ踏むのが遅い運転で、助手席に乗ってるとドキドキする。

 もういちど洗濯して干してから、出かける。妹1号のバイト先であるアジアおばんざいの店で、アジアンスイーツ&中国茶のお茶会なのである。私は2度目の参加で、前回と同じく今日も妹1号と行く。今日のお茶は文山包種、西湖龍井、凍頂烏龍。1時間半ほど、お茶うけのオヤツも出してもらって、まったりとすごす。妹との話題はもっぱら「いかに今の会社がヘンであるか」。妹からは「辞めたらとにかく遊べば~。もういやになるくらい遊んだら、また働く気になるデ」とアドバイスをうける。

 お茶会がおひらきになって、妹と途中の駅まで一緒に戻り、私はそこから介護方面のお仲間との宴会に合流。土曜出勤だった同居人も遅れて合流。今朝早起きしたわりに、昼寝もせずにすごしたせいか、だんだん眠くなってきたが、宴会のあと数人でお茶を飲むところまでつきあって、帰る。めちゃめちゃねむい。

小林古径展

 昨日寝る前はかなり暑かったのに、今朝は涼しかった。朝から洗濯して干す。「日曜美術館」は夏休みの再放送で、アートシーンを見てしまってから、京都へ小林古径展を見物にでかける。古径、片岡球子の師匠でもある。いつものように空港バスで京都、そこから地下鉄で烏丸御池。

 先に昼ご飯を食べにいこうと、烏丸御池から通りを8つ越えて、カツサンドの店へ。タイミングがよかったらしく、席に座って、ほどなくカツサンドが出てきた。同居人はものすごい勢いでたいらげてしまった。私は全部食べるのがちょっときつかったので、同居人に一切れ譲る。たいへん満足して、「うまかったー」といい気分で店を出る。店へ入る前はぱらぱらと降っていた雨もあがり、そこから京都の近美へ向かう。途中で喫茶店に入り、コーヒーを飲んで、新聞を3紙よむ。

 京都の近美は小林古径展、向かいの京都市美はルーブル展で、まあまあの人出。といっても、雪舟展や応挙展のようなすごさはなくて、古径展はほどほどだった。
 初期の作品は、しっかりした写生が印象的だったが、ある時期から写生でありながらデザイン画のような絵にかわる。福田平八郎にも似ているなと思った。色づかいもきれいで、「見てて、いやされるな~」という感じ。しかも、遠目で見たものを、すぐ近くまで寄ってみると、思ったよりも大胆なタッチでさっさとかかれているのがおもしろい。それと、琳派などでも玉蜀黍のモチーフがあると解説が貼ってあったがおそらくそれは薄やいろいろな草花とあわせてかかれたもので、古径のように玉蜀黍だけをばばーんとかいて、それをでっかい屏風にしてしまうようなのは類例がないんちゃうか。

 会期中に展示替えがあったようで、図録をみると、今日並んでいないのもいろいろある。展示替えの前と後と、両方みたかったなあと思いながら、図録と絵はがきを数枚買った。

 館蔵品の展示もみて、それから帰途につく。空港バスに乗る前に、CD屋で同居人がヨーヨーマ率いる「シルクロードアンサンブル」のCDを買った。兵庫県美でやってるシルクロード展も行きたいぞ。西域のモナリザも見たい!

 帰りの空港バスでも行きの続きで宮部みゆきの『蒲生邸事件』を読み、うちへ帰って、いったんごろごろとする。

 晩ご飯はお好み焼きと、ゴーヤとワカメとモズクの酢の物。ご飯のあとに梨。
 いまの会社は明日を入れて、あと3日。やることやって、さくっと終わりたい。

内田樹『先生はえらい』ちくまプリマー新書

 …私が言いたいのは、文章を先へと進める力はことばが思いを満たさないという事実だ、ということです。
 おそらくこの太宰治の文章は「自分の言いたいことを、きちんとことばにする」という国語的な査定をされた場合には、あまりよい評点をもらえないでしょう。でも、結局、書かれてから半世紀以上、湖の文章が多くの人に読まれ続けてきたのは、これが言いたいことが言えないで、じたばたしている文章だからです。
 「じたばた」している分だけ、ここには「誤解の幅」がたしかに確保されています。「理解」と「誤解」がぎりぎり漸近線的に接近しながら、けっして「一〇〇%の理解」が成就することがないように、そんなふうに太宰は書いています。ここに作家の天才性は存在すると言ってよいでしょう。
 …
 わからないけれど、何か心に響く。「たしかに、そうだ」と腑に落ちるのだけれど、どこがどう腑に落ちたのかをはっきりとは言うことが出来ない。だから、繰り返し読む。
 そういう文章が読者の中に強く深く浸透する文章なのです。
 どうして、そういう文章が読者に強く、深く触れるかというと、そこに読者に対する信頼があるからです。
 …
 太宰の文章の力は、読者に(こう言ってよければ)誤読する権利、誤解する自由を許していることに由来します。
(128-132ページ)

内田樹『先生はえらい』ちくまプリマー新書

▽誤読する自由
 たとえば、こんなのは、どうでしょう。

 「文学において、最も大事なものは『心づくし』というものである。『心づくし』といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、『親切』といってしまえば、身もふたもない。心趣[こころばえ]。心意気。心遣い。そう言ってもまだぴったりしない。つまり、『心づくし』なのである。作者のその『心づくし』が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、あるいは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。」(太宰治『如是我問』)

 文章の内容はとりあえず、どうでもいいです。気づいてほしいのは、この短い文章の中でくり返される執拗なまでの『言い直し』です。
 「そう言ってもまだぴったりしない」という、「ことば」と「思い」のあいだの齟齬、乖離、埋めることのできない違和感。その乖離そのものが、この文章を先に進ませているということがわかるでしょうか?
 …
 よく意味のわからないことばを探り当てることができたので、とりあえず「言い直し」の運動を止めることができたんです。たとえて言えば、ちょうどころあいの「安定のよくない石」をみつけたので、それを家の土台にあてがって、一仕事終えて休憩、という感じでしょうか。「安定のよい石」を見つけたから、仕事を一休みしたわけではありません。ぐらぐらする石だからこそ、「ことばと重いの違和感」を決して解消することができないような、落ち着きの悪い言葉だからこそ、太宰はそれを文章の最後にあてがって、一区切りをつけたのです。
 これが「訂正の扉」を開いておく、ということの一つのみごとな例です。

内田樹『先生はえらい』ちくまプリマー新書

▽大航海時代とアマゾン・ドットコム
…人間を交易へと駆り立てたいちばん強い動機づけは、商品や貨幣の価値や有用性ではなく、むしろ「交換への欲望」そのものです。
 大航海時代もまた、その欲望が急激に亢進した時期でした。
 何世紀かヨーロッパの中で商売をやってきているうちに、どこでもことばが通じるようになり、誰と交換しているのかがはっきりしてきて、交換されている商品の価値や意味もみんなわかってしまった。そしたら、退屈してきたんです。ヨーロッパのみなさんも。クロマニヨン人の末裔だから。
 そして、交換の起源的形態をもう一度経験したくなった。
 沈黙交易がまたやりたくなった。
 ことばも通じない相手と、何の価値を持つのかわからない「特産品」のやりとりをするという、あの交換の起源にもう一度立ち戻りたくなった。そのために、遠くアフリカやアメリカ大陸やオセアニアやアジアにどんどん出かけていった。私はそう思います。
 うれしいことに、そういうところに行くと、ちゃんとことばが通じない相手がいて、こちらがヨーロッパの特産品を置いてゆくと、ちゃんと「なんだかわからないもの」を代わりに置いてくれる。オランダ人がビーズ玉をあげたら、ハッケンサック族のインディアンは「じゃ、これあげる」と代わりにマンハッタン島をくれた。これは愉しいですよね、オランダ人にしてみたら。笑いが止まりません。
 そんなふうにしてヨーロッパ人によって「新世界」はやがて隅々まで植民地化されてゆくわけですが、その根本にあった航海への動機は、別に植民地を増やしたいとか、象牙や砂糖や胡椒がほしいというような功利的なものだけでは尽くせなかったのではないかと私は思います。
 ルネサンスの時代、大航海時代は「人間再発見」の時代だと言われます。どうして「人間の再発見」かというと、この時期にヨーロッパの人たちは、たぶん久しぶりに(何万年ぶりかで)「人間とは何か?」という根元的な問いに突き当たったからであす。
 どこから、いつから、何をきっかけにして、私たちは人間になったのか? そういう問いが出てきたときに、「誰とでも交換をすることができるもの」というクロマニヨン人がネアンデルタール人と分岐したときの根本的な違いを(それとは知らずに)思い出したんです。きっと。(94-96ページ)

魚住昭『野中広務 差別と権力』講談社

 この国の歴史で被差別部落出身の事実を隠さずに政治活動を行い、権力の中枢にまでたどり着いた人間は野中しかいない。彼は「人間はなした仕事によって評価をされるのだ。そういう道筋を俺がひこう」と心に誓いながら、誰も足を踏み入れたことのない険しい山道を登ってきた。ようやく頂上にたどり着こうとしたところで耳に飛び込んできた麻生の言葉は、彼の半世紀にわたる苦闘の意味を全否定するものだったにちがいない。
 総務会で野中は最後に、
「人権擁護法案は参議院で真剣に議論すれば一日で議決できます。速やかに議決をお願いします」
 と行った。人権擁護法の制定は野中が政治生活の最後に取り組んだ仕事である。だが、人権委員会の所轄官庁をめぐって与野党の意見が対立し、実質審議が行われないまま廃案になった。
 それは野中の政治力の衰えを象徴する出来事でもあった。
「もう永田町にオレの居場所がなくなってしもたんや」
 野中はこんな言葉を残して政界を去った。
(352-353ページ)

魚住昭『野中広務 差別と権力』講談社

▽エピローグ
 …二〇〇三年九月二十一日、野中は最後の自民党総務会に臨んだ。議題は党三役人事の承認である。楕円形のテーブルに総裁の小泉や幹事長の山崎拓、政調会長の麻生太郎ら約三十人が座っていた。
 午前十一時からはじまった総務会は淡々と進み、執行部側から総裁選後の党人事に関する報告が行われた。十一時十五分、会長の堀内光雄が
「人事権は総裁にありますが、異議はありますか?」
 と発言すると、出席者たちは、
「異議なし!」
 と応じた。堀内の目の前に座っていた野中が、
「総務会長!」
 と甲高い声を上げたのはそのときだった。
 立ち上がった野中は、
「総務会長、この発言は、私の最後の発言と肝に銘じて申し上げます」
 と断って、山崎拓の女性スキャンダルに触れた後で、政調会長の麻生のほうに顔を向けた。
「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の制作をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
 野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。

 部落解放同盟中央本部の幹部が語る。
「総務会の出席者に確認しましたが、野中さんがそういう発言をしたのは事実です。自民党のなかで長い間、差別の眼差しを受けてきた野中さんのたまりにたまった怒りが最後に爆発したのでしょう。野中さんがなぜ最有力候補と言われながら総裁選に出なかったのか。橋本派内部で根強い反対があったからとも聞きましたが、それは議員たちの差別意識と無縁ではないのではないか。そんなことを考えると、政界の差別の闇の深さに暗然とします」
(351-352ページ)   

魚住昭『野中広務 差別と権力』講談社

▽出自を明らかに
 元社会党代議士で部落解放同盟の書記長をつとめた小森龍邦(現解放同盟広島県連委員長)は、戦後の解放運動を引っ張ってきた指導者の一人である。松本治一郎や朝田善之助、上杉佐一郎らが亡くなった今、部落解放の理念と歴史を体現する数少ない男の一人と言っていいだろう。
 その小森が野中の存在を初めて知ったのは千九百八十二年(昭和五十七年)三月、京都市の京都会館(旧岡崎公会堂)で全国水平社創立六〇周年記念集会が開かれたときだった。
 来賓として壇上に立った京都府副知事の野中はこう挨拶した。
「全水創立から六十年ののち、部落解放のための集会を開かなければならない今日の悲しい現実を行政の一端をあずかる一人として心からおわびします。私ごとですが、私も部落に生まれた一人です。私は部落民をダシにして利権あさりをしてみたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を憎みます。そういう運動を続けておるかぎり、部落解放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返されていくのであります。六十年後に再びここで集会を開くことがないよう、京都府政は部落解放同盟と力を合わせて、部落解放の道を歩むことを厳粛にお誓いします」
 全国から集まった約二千人の同盟員らから大きな拍手がわいた。(321-322ページ)

魚住昭『野中広務 差別と権力』講談社

▽大政翼賛会
 …[一九九七年四月]三日夜、二回目の橋本・小沢会談で最終合意が成立し、十一日の衆院本会議で[沖縄特措法の]改正案は可決された。自民・新進両党の圧倒的多数の賛成によるものだった。
 加藤の説得で[特措法]委員長就任を受諾した野中は採決前の委員長報告で、
「ひとこと発言を許してください」
 と前置きして三十五年前の出来事を語りだした。彼が京都府園部町の町長だった一九六二年(昭和三十七年)、宜野湾市で戦死した京都出身兵士二千五百人余りの慰霊塔を建てるため、初めて沖縄を訪問したときのことである。
「那覇からタクシーで宜野湾に入ったところ、運転手が急にブレーキをかけ、『あの田んぼの畦道で私の妹は殺された。アメリカ軍にじゃないんです』と言って泣き叫んで、車を動かすことができませんでした。その光景が忘れられません。どうぞこの法律が沖縄県民を軍靴で踏みにじるような結果にならないよう、そして今回の審議が再び大政翼賛会のような形にならないよう若い皆さんにお願いしたい」
 戦争の悲惨さを肌身で知る野中の心中から思わず漏れ出た言葉である。しかし、それは同時に、小沢と手を結んで改正案を成立させた梶山に対する強烈な当てつけでもあった。(278-279ページ)

手話

 行きは、『野中広務 差別と権力』を読みながら。駅のベンチでぎりぎりまで本を読んで、それから出勤。なるべく会社にいたくない。

 定時であがる。
 図書館で返して借りて、それから手話。
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第43回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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