読んだり、書いたり、編んだり 

嶋崎吉信・清水直子『がんばれ美術館ボランティア』淡交社

--ボランティアを経費削減の穴埋めとして使うことに対してはどうお考えですか。
 「…やれるものならやってみればとも思います。だって、ボランティアのお世話をするほうがたいへんなんですから。…でも、こんなに手をかけているのだから、このくらいやってもらってあたりまえと考えたこともない。行政から、有給の職員でまかなっているものをボランティアに任せろという圧力がもしあったら、逆手にとってそれに見合う業務拡大をしますよ。今は職員だけでまかなっている美術館業務があり、その上に付加価値を加えるものとしてボランティアに活動してもらっているけれど、既存の仕事に必要な有償の職員を減らしてボランティアでまかなえというなら、活動領域や機会が増えた分だけ、ボランティアの自発的な意志の尊重を理由に、その権限強化を主張して、その分業務拡大しますよ。…」

 柳沢さんは、ボランティアの労働を「搾取」しているつもりはなく、「ギブ・アンド・テイク」と考えている。実際に「単純計算はできないが、70人のボランティアで、事務職員2人くらいの仕事をこなしてもらっている」といい、代わりにそれに見合うような学芸員の労力もボランティアの研修や「お世話」に投入されているという。もちろん、実際は2人の事務職員を雇うより、70人のボランティアが美術館に関わるほうがより地域へのつながりは深められるだろう。

 しかし、「ギブ・アンド・テイク」の関係は、あくまでも現場でボランティアに相対する学芸員の善意によるところが大きいのではないだろうか。

--今後はどんなボランティア活動を展望していますか。
「ボランティアによるボランティア教育ができて、ボランティアの自己増殖ができればベストですね。ベストだけれど、正直無理かな。それはボランティアのヒエラルキーを生むでしょう。ボランティア全体の意識レベルが上がっていき、意見のすりあわせができる関係が成熟するれば、ボランティアのためのボランティアが生まれてきてもいい。ただ、こうした特定の施設に付随する場合、ボランティアは自己実現であると同時に、その施設の運営方針のなかで求められる役割、当館の現状ならお客様に対するサービス提供だということを認識し、それを踏まえたうえで自分たちを教育できるようになれば、の話ですね」…(90-93ページ)

嶋崎吉信・清水直子『がんばれ美術館ボランティア』淡交社

--そういった話し合いや合意をいとわなければ、ボランティアが徒党を組むといったことを恐れる必要はないですか。
 「ええ、まったくないでしょうね。ボランティアの自発的な気持ちと、県立美術館の社会的使命といいう視点に立った館側のニーズとのすりあわせは重要です。たとえば、数年前にうちでも、モチベーションの高いボランティアから、何でワークショップをしないのかという意見も出されました。意見を出してもらったからといって困るわけではない。僕は、時期尚早だという意見を堂々と言って話し合いました。予算や実行する技術や能力を計算に入れないままでのやりたいという意見に対しては、成立するための要件を説明します」

--成立させるための要件や技術を持ってボランティアが提案するのであれば。
 「もちろんやりますよ。まだそこまで追いついていないのが実状です。代表者会議という対話の回路はつくってありますし、こちらから働きかけることもありますが、実際は具体的に実現化までを見据えた提案は少ないですね」

--なぜでしょう。
 「ボランティアを構成している人の志向と能力のバランスが要因のひとつにあるでしょう。三年前に子ども向けガイドのパンフレットをつくろうという提案がありました。それではと、有志のチームをつくり、他の館の資料を集めて-それも大半は僕が集めたのだけれど-掲載すべき情報を分析して、具体的に作品を見る際の注意などを考えたりして、デザインまで進めたのですが、残念ながら出来上がってきたものはとてもそのまま使えるものではありませんでした」

 職員が丁寧にボランティアと対話をすること、意向を汲み上げ、いっしょに活動しながら、受け入れられないことは論理的に説明すること。職員側の手のかけ方によって関係はまったく変わってくると、柳沢さんは考えている。

 「トラブルがあるのは職員の側にも問題があると思います。先の例でも、いっしょに悪戦苦闘してみたうえで『提案はしてみたけれど、実際やってみるとたいへんなのはわかりましたよね。ではここから先は僕ら学芸員がやるから委ねてくれますか』と言えば納得する。だからボランティアの担当者は、単なる引継業務ではなく、ボランティアと館側のスタンスを見極めて丁寧に手をかける必要があるのです」

嶋崎吉信・清水直子『がんばれ美術館ボランティア』淡交社

対話をいとわず
▽…「ボランティアは、一年更新という申し合わせのようなものがあり、担当によってはそれを順守するようなこともあった。そこでそれを成文化するにあたり、いわばあえて申し出なければ自動更新になるようにしました。一年で辞められてはスキルが上がりません。講座も研修もどんどんしますから、知識や経験の蓄積によってより質の高い活動をしてもらいたいと考えています。かといって圧力団体にはなっていませんよ」

--ボランティア活動してもらうこと自体を教育普及だと考えたり、ボランティアが圧力団体になることを警戒する学芸員のなかには、同じ人に長く続けてもらいたくないと考える人もいます。
 「よその館でボランティアのなかに派閥ができて、この学芸員はどの派に属するのかなどと詮索されるようなことがあったという風聞はたしかにあります。でもそれは単なる噂かもしれないんですけどね。僕は、ただで働いてもらっていることに気兼ねはせずに、ある人にこの仕事はしてもらえるけれど、別の人には同じようにはしてもらえないということをはっきり言える関係がいいと思いますし、うちはある程度言えています。美術館で提供するサービスは、ボランティアが担おうとその質を落とすべきではない。経済的な対価は支払っていないけれど、講座や研修でそれ以外のものをたくさん提供しているし、またボランティアも、お金以外のざまざまな対価を活動のなかで享受していることをちゃんと自覚していると思います。だから、ただでやってもらっているからと、品質管理をさせてもらうことを遠慮する必要はない。そしてこちらから提供したものは、ボランティア個人の中に溜め込むべきものではなく、美術館のサービスとしてお客様に還元してもらわなければなりません」

嶋崎吉信・清水直子『がんばれ美術館ボランティア』淡交社

--運営の仕方は。
 「対等な関係でやりたいと思っていたので、話し合って企画を練り上げながら進めています。会議の後には決まった内容をニュースレターで報告します。企画を作る経験によって実感したことが、ワークショップ当日の動き方にも影響してくるんですよ」

--ボランティアは学芸員に絶対服従してもらわないと困るという考え方もありますが。
 「IFSの人たちを手足のように使うなどという気持ちはまったくありません。ボランティアって自分のやりたいことをやるものでしょう。人の役に立つってこともそれを自分が望むからですし。彼らが実際にできる範囲はやっぱり限られてしまいますが、お金を払って仕事をしてもらっているわけではないので、それはしかたがないと思います。できるところまでやってもらい、それ以外のところは私が引き受けるという感じでやっています。美術館という組織の歯車になってもらうのではなく、もっと有機的な関係でありたいと思います」

--担当者の仕事は増えますか。増えるとすればそれをどう思いますか。
 「ワークショップにしてもボランティアとのディスカッションの積み重ねにしても、それ自体が普及事業であり、私がやりたいと思うからやっているので、もちろん仕事は増えますが余計なこととは思っていません。私がまごまごしているとボランティアの人たちがワークショップの企画の呼びかけ文を考えてきたりするくらいで、今は、何をすればいいかがわかっている人たちが多く、いつも助けられています」…(77-78ページ)

嶋崎吉信・清水直子『がんばれ美術館ボランティア』淡交社

与えてもらえると思っていた人は去った
▽…97年の「体感する美術」が終わった後、市の広報紙で来年度の取り組みに向けてボランティアを募集することにしたが、最初から「体感する美術のスタッフ募集」では理解が得られないだろうと、「現代美術を楽しんでみたい方、それを伝えることに興味のある方募集」と呼びかけた。この「体感する美術クラブ」(仮称)が、後のIFSである。

--98年の「体感する美術」はどんな内容で、ボランティアはどう関わったのですか。
 「その年のワークショップは、『まちとアートのコミュニケーション』をテーマに、あえて現代美術ではない演劇関係のアーティストや留学生、都市計画のワークショップを請け負うコンサルタント会社などに企画をしてもらいました。まずは、ワークショップについての考え方を説明して、企画から運営のお手伝いをしてもらいました。とにかくこちらの意図を伝えるのが先で、ボランティアが企画案を出すまでには至りませんでした」

 じつは「スタッフ募集」の呼びかけに40人ほどの申込みがあったのだが、途中で半分が離れていった。現代美術について何か教えてもらえると期待した人たちだった。
 「いっしょに考え、作るのだという位置を理解してもらえたようなので、その年の秋、来年は企画の段階から参加してもらうために、ボランティアに企画書を出してもらったんです。その頃、ずっと仮称だった『体感する美術クラブ』を『IFS』と名付けました」

--実際にどんな提案があったのですか。
 「日常に新しい視点を見つけることが現代美術の効果だね、という声がボランティアのなかから出てきました。そして、佐倉でやるなら、いつもは見えない佐倉をテーマにしようよ、ということになり、いつものまちをちがった角度で見て感じる『ミエナイ・サクラヲ・ミル』が99年のワークショップのテーマになりました。2000年のテーマ『佐倉観光案内』も意識してまちの中の光を観てみる、まちの中で見つけたちょっと気になるものから佐倉の『もうひとつの物語』を考えたり、バス停をめぐるフィールドワークをしました」

嶋崎吉信・清水直子『がんばれ美術館ボランティア』淡交社

▽…「古い役人的根性からいうと、ボランティアは要らないんだよね。古い役人の管理優先の概念からいうと、裏口からそんなのがノコノコ入って来て、館員と同じような顔をされては困るわけ。お客さんとか外部の人は、ここまではいいが、ここからは入ってくるなっていう。得体の知れない人間に、聖域である事務所の廊下とかウロウロされたくない。ましてや、事務所に入ってきてゼロックス使ったりとかしてほしくないんだよ。」

 …美術館人のこうした思いにみるように、あくまでも学習の場を提供してあげる対象として位置づけられていることに、ボランティア自身は窮屈さを感じないのだろうか。

 いや、それでもよいというボランティアは多いのである。
 先に挙げた名古屋市美術館の『研究紀要』では、ボランティアの応募者のなかには、新聞の切り抜き、資料整理、ポスターや展覧会の案内状発送、会場監視、券売やミュージアムショップの業務のような仕事でもかまわない、「美術館の中で居られればそれだけで幸せ」という人が現実にいる以上、この分野をボランティアに担わせる可能性もあることも示唆している。

 もちろん、館によって実際の活動内容は異なり、顔ぶれも違うので一概には言えないのだが、現に美術館でボランティアをしている人たちの話を聞いてみても、無料のカルチャーセンターに行っているつもり、とにかく美術館に接していたい、と話す人は多い。

 ボランティアを始めたきっかけと動機に関する東京都の調査では、その多くが「美術に興味があったから」(69パーセント)、「自分の勉強になると思ったから」(54パーセント)と答え(複数回答可)、「社会の役に立ちたかったから」(33パーセント)を大きく上回っている。

 さらに、ボランティアに参加してよかった点を多くが、「美術に対する造詣が深まった」(84パーセント)、「友人や趣味の合う話し相手ができた」(53パーセント)を挙げている。自分の興味、関心を満たすことを動機に参加し、その欲求はほぼ満たされている、という美術館ボランティアの一面が浮かび上がってくる。…(31-33ページ)

嶋崎吉信・清水直子『がんばれ美術館ボランティア』淡交社

▽…ボランティアは、自由な意志によって主体的に志願/参加し、他者…のためにする行為、または行為する人、と私は理解しています。自由な意志を持って主体的に考える人はその仕事の改善すべき点に気づくでしょうし、新たな提案もするでしょう。しかし…組織が未成熟でその主体性が確立していないと、そのような意志ある提案に柔軟に対応し、それを美術館の力としてゆくことはできません。…
 …ほとんどの場合、美術館はボランティアを教育普及活動の一環として位置づけています。美術館という施設の性格や役割を考えると、市民を教育したくなる意識もわからなくはありません…。けれども、はじめからそのように位置づけることには、ボランティアというものに対する誤解、または言葉の意識的な誤用があると言わなければなりません。
 …このようなボランティア認識から見えてくるのは、ボランティアは美術館にとってともに活動するスタッフ(身内)ではなく、あくまでも「対象」「お客」だという考え方です。たしかに無給労働の側面はあるために、志願者の動機づけとして「ボランティア」という語をやや強引に用い、しかし彼らを身内として受け入れるのではないという一線を確保するために教育普及活動という括りにしている……と深読みしたくなるのは私だけでしょうか。…
 またボランティア自身にも、たとえばギャラリーガイドとして採用されるまでには長期間にわたるかなり密度の濃い研修があるために、無料のカルチャースクールとして自己の教養を磨くような意識が第一にないとは言えない…。そうした自己研鑽の段階にとどまっているならば、それはまさに教育普及活動の対象者であって、自由意志による主体性をもったボランティア、他者のためにする行為者とは言えません。またそのようにして磨かれた教養とともにボランティアとしての意識がいっそう高まっても、美術館は彼女/彼をスタッフとして認識していないために、その高まりは行き場を失い、自己充足のままに霧散することになります。
 美術館のボランティアは、美術館とボランティア双方における「ボランティア」についての(意識的な?)誤解の上にかろうじて噛みあっていると言えます。「美術館のボランティア」の受益者は、まずボランティア自身、そして場合によっては学芸員かもしれないという、不思議なボランティア像がここに見て取れます。…(14-16ページ)

6月に読んだ本

6月に読んだ本(読み終わった)本のリスト:
○山本夏彦『最後の波の音』文藝春秋
○斎藤隆介『職人衆昔ばなし』文藝春秋
○桂英史『人間交際術 コミュニティ・デザインのための情報学入門』平凡社新書
○内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川書店
○加藤昌治『考具』TBSブリタニカ
○斎藤美奈子『戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る』岩波アクティブ新書
○シュミット村木眞寿美『五月の寺山修司』河出書房新社
○寺山修司『ロング・グッドバイ 寺山修司詩歌選』講談社文芸文庫
○イアン・アーシー『怪しい日本語研究室』新潮文庫
○嶋崎吉信、清水直子『がんばれ美術館ボランティア』淡交社
○『いのちの詩 塔和子詩選集』編集工房ノア
○三好春樹『じいさん・ばあさんの愛しかた』法研
○三好春樹、芹沢俊介『老人介護とエロス-子育てとケアを通底するもの』雲母書房
○ねじめ正一『読むところ敵なし 言葉のボクシング』ハルキ文庫
○九條今日子『ムッシュウ・寺山修司』ちくま文庫
○寺山修司『世界の果てまで連れてって』ハルキ文庫
○吉田新一郎『会議の技法 チームワークがひらく発想の新次元』中公新書

洗濯(II)

 …このようなボランティア認識から見えてくるのは、ボランティアは美術館にとってともに活動するスタッフ(身内)ではなく、あくまでも「対象」「お客」だという考え方です。たしかに無給労働の側面はあるために、志願者の動機づけとして「ボランティア」という語をやや強引に用い、しかし彼らを身内として受け入れるのではないという一線を確保するために教育普及活動という括りにしている……と深読みしたくなるのは私だけでしょうか。…

 またボランティア自身にも、たとえばギャラリーガイドとして採用されるまでには長期間にわたるかなり密度の濃い研修があるために、無料のカルチャースクールとして自己の教養を磨くような意識が第一にないとは言えないでしょう。そうした自己研鑽の段階にとどまっているならば、それはまさに教育普及活動の対象者であって、自由意志による主体性をもったボランティア、他者のためにする行為者とは言えません。またそのようにして磨かれた教養とともにボランティアとしての意識がいっそう高まっても、美術館は彼女/彼をスタッフとして認識していないために、その高まりは行き場を失い、自己充足のままに霧散することになります。

 美術館のボランティアは、美術館とボランティア双方における「ボランティア」についての(意識的な?)誤解の上にかろうじて噛みあっていると言えます。「美術館のボランティア」の受益者は、まずボランティア自身、そして場合によっては学芸員かもしれないという、不思議なボランティア像がここに見て取れます。…(14-16ページ)

 美術館ボランティアというようなのを”施設ボランティア”とよぶ。その存在は、施設のための何か、なのだろうか。施設利用者のための何か、なのだろうか。あるいは、ボランティア自身のため、なのだろうか。

 悩ましい。

洗濯(I)

 今日も朝から晴れているので、洗濯。土曜出勤だったので、私は休み。洗濯ものを干してから、図書館へ返す本から書き抜きをして、自転車で外出。職を変わったこともあり、今年払う住民税は天引きでなくて直接納付書で払う。納付書で…というのは久々。思い切って一括払いにしたが、ちょびっと出たナスボーはあっという間に消えた。ああ税金おさめてる、って気がする。

 図書館へ寄って本を返して、借りる。リクエストしていた本が3冊。ハーヴェイ・ミルクのことを扱ったランディ・シルツの『ゲイの市長と呼ばれた男』(上下、草思社)、それから他市から借りてもらった寺山修司の『ヨーロッパ零年』(毎日新聞社)である。
 それから軽く買い物をして帰宅。じりじりと陽が照りつけて暑い。

 いったん帰って、父ちゃんに頼まれた本をリュックに入れて、前の職場へ向かう。本の片づけがまだまだ終わらない。帰りには父ちゃんち経由。
 今日はゴミをまとめて捨てたほか、文庫本と新書の山を選って、「もっとくモノ」と「譲るモノ」に分けた。しかし「もっとくモノ」をもっと減らさないとウチへは持って帰れない…。片づけの合間にウロウロしていると、廊下で会った人に「うわっ」と驚かれる。そんな驚かんでも…

 夕方店じまいをして、今日背負って帰る本をリュックと紙袋2つに詰めて、父ちゃんのお迎え車で父ちゃんちへ。晩ご飯を食べさせてもらう。父ちゃんメイドのシチューはなかなかうまかった。

 重いリュックを背負って、紙袋を提げて、父ちゃんちの最寄り駅まで歩き、そこからモノレールに乗って帰宅。じっとりと汗をかく。

 今日返した嶋崎吉信・清水直子の『がんばれ美術館ボランティア』(淡交社)からの書き抜き。
▽…ほとんどの場合、美術館はボランティアを教育普及活動の一環として位置づけています。美術館という施設の性格や役割を考えると、市民を教育したくなる意識もわからなくはありませんし、ボランティアの存在が結果として美術館活動の周知につながることは当然期待されるでしょう。けれども、はじめからそのように位置づけることには、ボランティアというものに対する誤解、または言葉の意識的な誤用があると言わなければなりません。

雨/晴れ

 土曜出勤は遅番。しかも雨降り。同居人とともに昼を梅田で食べて、ちょっとネクタイの買い物をしてから、私は仕事へ。
 遅番も終わる間際、閉館前の見回りをしていたときに、廊下を歩いていた人がフラフラ~っとしたと思ったら、ドタッと倒れた。大丈夫ですかッと声をかけるも気を失っているらしく、防災センターへ連絡して救急車をよぶ。あわあわあわ。数分して、倒れた人が「ダイジョウブデス、ダイジョウブデス」とつぶやいて起きようとするのを止め、携帯電話を借りて、連れの人を呼ぶ。救急車がもう来る、病院へ行ってみてもらったらというのを振り切るように、倒れた人は連れの人とともに「ダイジョウブデス、ダイジョウブデス、オオゲサニシナイデ」と言いながら帰ってしまった。ほんとに無事ならよいけれど。

 やれやれ遅番もすんだと電車に乗って、最寄り駅へついたら、なぜか目の前に同居人がいた。お迎えに来たのかと思いきや、私が仕事に行ったあと梅田でずーっとパチスロを打っていたらしい。あほか。帰りには雨はあがっていた。

 日曜は朝から晴れて、洗濯洗濯。このところ雨が多く、汗をかく季節で、洗濯物がたまりがち。洗濯して干してから、中高同期の友・神戸のH子宅へ同居人とともに出かける。乗り換えなし、必ず座れる空港バスは楽ちん。同じく中高同期のM子とそのオットT君、H子の母上の6人で昼ご飯。なぜかM子がH子宅の台所でせっせと料理をつくっていた。

 買ったばかりのデジカメがパソコンにうまくつなげないと言っていたH子は、このパソコンの馬力がない、本体だけでも買い換えたらというT君の助言によって「設定してもらえる人がいる間にパソコンを買う!」と盛りあがっていた。それで、昼ご飯を食べたあとに、近所の電器屋へ若いもん5人で繰り出す。

 結局質実剛健タイプのノートパソコンを購入。持って帰って、設定やデータのお引っ越しを寄ってたかってやってみると、やはり新しいパソコンは液晶画面も美しく、キレイで速くて、H子も母上も大満足のご様子。ほんの数年前のモデルとはいえ、古いデスクトップパソコンがみすぼらしく見えるのだった。

 帰りは新神戸から元町までふらふら歩き、軽く晩ご飯を食べて、また空港バスで帰る。リクライニングできて、ぐうぐう寝ながら帰れる空港バスはほんとに楽で、1時間足らずで帰宅。ウチのあたりのほうが、風が爽やかだ。

寺山修司『世界の果てまで連れてって』ハルキ文庫

書を捨てよ、町へ出よう
▽…読書とは、もっとも反行動的な実践なのだ。庄司浅水の「本の文化史」によると、書物の第一の敵は火だそうである。火の次が水、ガスと熱、塵埃となおざり、無知、紙魚ということだが、それらは実は二の次以下のものばかりであって、書物の最大の敵は行動である。
 体を動かすすべての実践は、その同一時間においては読書と背を向けあっているのだ。スポーツは勿論、散歩でさえも読書との共存はできがたい……そして、読書とは健康な肉体にとっては(在る時間をこすと)きわめて苦痛のともなうものだということも出来るようである。…(188-189ページ)

学校とは何か(200-206ページ)
▽…(戦後の学校経営は、実に合理的で、便利である。しかし、教育にだけ鍵って言えば、能弁の教育などより、吃音の教育の方がはるかに効果的だと私は思うのだが、受験のコツとか、社会生活をうまく切り抜けて行くコツだとかいったサラリーマン十戒的の教育法が学校教育のある傾向を代表していて、「何もないものを見る」ようなドグマにかけている)…

 …私なら、空想旅行の室内授業と、それらへの実体験とによる食いちがいから「日本を考える」ことの出来るような「旅行」という時間も絶対必要であると思うし、もし自分に巨大な土地を与えられた場合には、どのような町づくりをしてゆくか(たとえばどのへんに川を作り、どのへんに郵便局を作り、どんな生産活動によって町の経営を考えてゆくか)というような、基本経済などという授業だってあってもよい、と考えるのである。
 私がもし、小学校高学年から中学生のための学校を作った場合の、授業課目は次のようにするだろう。現代は、各人が各様の創造的イメージをもって、大胆に教育革新のプランを提起することが必要な時代と考えるから。

 作文--基本経済--旅行--詩--合唱--数学--選択球技--料理--英雄学--読書--生物--マンガ--工作--電気--衣服--親子研究--選択趣味--ドキュメンタリー--怪物--語学--基本歴史

ほんとうの教育者(207-210ページ)
▽…教育の主体はあくまでも教師の人格や、テキストの問題で論じられるべきではなく、生徒との「関係」として、ドラマツルギーとして論じられるべきである。
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第43回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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