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「社会」って何?(その2)(II)

 このようにして、大きさと距離を徹底的に見失った視力をもとにくみたてられた「社会」がどのように混乱したものであるかは、容易に想像がつくだろう。「見た目の大きさ」と「じっさいの大きさ」で、「見た目の大きさ」の方が見るものの「現実」の認識に近ければ、「じっさいの大きさ」は否定され、「見た目の大きさ」のみが真実として残されることになる。…(158-162ページ)

 朝からシトシトと雨は降り続き、映画「ぼくんち」を観にいくかと言っていたが、結局ゴロゴロと過ごす。遅い朝ご飯を食べて、遅い昼ご飯に焼き飯をつくって食べて、ウトウト昼寝しながら本を読んで、日が暮れてから晩ご飯を食べに出た。豚カツを食いにいこうと思ったら、めざした店は定休日で、うろうろして入ったのはチェーンの焼鳥屋。手際の悪い店で、1杯ずつ生ビール飲んで(この生ビールが発泡酒と思われる上にグラスが小さかったくせに高かった)、焼き鳥を何串か食べて、すぐお勘定して出た。店主も店員も「スミマセン」とばかり言う店で、あまりスミマセンと連呼されてもなあと思った。

 3度目か4度目の『降ります』を読み終える。

「社会」って何?(その2)(I)

 昨日は初の土曜出勤。やはりくたびれる。帰りの電車で初めて居眠りする。カラダがまだついていけない。そのかわり月曜は休み。

 図書館で借りた中島梓の『ベストセラーの構造』(ちくま文庫)を読んでいるところ。やはりまた「社会」って何?と考える。

▽…人々が通常「自己のアイデンティティの母胎」と見なしている多くのもの--会社、親族、大学、女性なら趣味のグループとか友人知人、PTAやまた主義主張を同じくする組織など--は、じっさいには、かつての村落共同体の役目を単一でひきうける機能をやはりもっていないのである。…
 しかしそれでも、人間は共同体への幻想をもたぬわけにはゆかない。これは、人間にとって、食べたり飲んだりするのと同じほど、根元的で切実な欲求なのである。人間は自分があるムラ的共同体に帰属し、それによって保証されていると思うことではじめて等身大の人間になる。…現実のさまざまな共同体が、充分な機能をはたさないならば、われわれはたとえまったくの幻想のムラをでも、つくりあげ、それに帰属し、それに保証されなくては安心できない。…
 社会が拡大され、混乱し、地域集団の性格を失えば失うほど、この「役割としての隣人」の存在は大きくなる。…われわれは、となりの娘と三軒先の息子の恋について話すかわりに、山口百恵と三浦友和の結婚についてうわさしあう。それはわれわれすべての共通の知人であり、隣人である。…われわれはすべて、「山口百恵の結婚」に立ちあったものとして同じムラの住人となる。それにどのような反応を示すかは問題ではない。要は、われわれは、共同性をもったのだ。…その「共通の知人」の名を契機として失われたムラが一瞬よみがえる。…
 われわれの「幻想のムラ」は、このようにして、「幻想の村人」に構成され、「幻想の価値」によるアイデンティティ幻想を供給してくれる。自分と同じ大きさの「団地のとなりの家」の人を、自分と同じ大きさだと見てとることのできぬわれわれの視力にも、たいへんはなれたところに立っている、われわれのたとえば百倍の大きさの人形は、「自分と同じ大きさ」として目に入る。…しかも、われわれは自分の大きさを、じっさいより五倍か十倍のものとして考えているので、とおくにあるためじっさいの二十分の一にみえているその人形であってはじめて「自分と同じ」大きさのものであると思う。…
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在92号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第69回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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