読んだり、書いたり、編んだり 

土・日・月

 土曜出勤。朝起きて、あーもう休みたいと思うも、受付当番があって気軽には休めず。17時半に職場のロビーで同居人と落ち合う。N子と待ち合わせて一緒に晩ご飯を食べにゆく。久々の地中海料理屋。職場の飲み会は疲れるばかりだが、ゆっくりオイシイものを食べて、のんびりワインなど飲むのは愉しい。橋本治の『人はなぜ「美しい」がわかるのか』を読み終える。

 日曜は休み。昼頃までえんえん寝る。天気良し。妹1号の引っ越し日で、手伝う体力はないが冷やかしに妹宅へ向かう。図書館で借りた本の返却期限がきているので、図書館経由。中島梓の本、付箋を貼っていたところを書き抜く。

▽…ただここでは、活字メディア、という一点に論点をしぼり、消費者であり受け手である「読者」が活字文化の状況を、送り手によって操られるというかたちで、反対に送り手と状況を繰りかえしているのだ、と指摘するにとどめる。このことを度外視して、すべての状況が作家、出版社、宣伝やマスコミの対応によってのみつくり出されている、という素振りをするのは、フェアなことではない。われわれは自ら書店へゆき、一冊の本をえらび、それを金を払って購入するのであって、その動機が「友達がみな読んでいるから」であるか、「有名なタレントが書いたから」であるか、「内容に心をひかれたから」であるかは、実のところどうでもよいことである。われわれは、力ずくで書店にひきずってゆかれて一冊の本をおしつけられるわけではないのだ。(中島梓『ベストセラーの構造』ちくま文庫、82-83ページ)

 同居人と妹1号とともにイタ飯屋で晩ご飯を食べて帰宅。図書館で借りた三好春樹の『元気がでる介護術』(岩波アクティブ新書)をすぐ読み終える。

 月曜出勤。暦どおり。しかし29日の休みのあとは30、1、2、3と連続。体力にかなり不安があり、定時で逃げるように帰宅。晩ご飯は、前菜に空豆焼き、メインはチヂミを焼いてビール。豚とニラとネギが少々余ったのでキムチと炒め、のんびりビールを飲む。図書館で借りた群ようこの『生きる読書』(角川oneテーマ21)を読んでしまう。

ホウゲイ?

 昨日は会議のあとに宴会。帰りにちょっと気分がわるくなって座りこんでしまった。もうよれよれである。

 今日は遅番。雨は降ったりやんだりの相変わらずの天気。午前中、ちょっと近くの郵便局へと空港まで出かけたら、大阪府警の腕章をつけた目つきのわるいおっちゃんやら植え込みを棒でつついているあんちゃんやらがうじゃうじゃいて、(何かあったんかあ?)と思って、そのうちの一人にたずねてみた。「何かあったんですか?」
 なんでも、プリンス君が通るので、ホウゲイで、それでえらいこと警備している、ということだった。「税金かかって大変ですねえ」と感想を述べてさらに空港近くまでゆくと、歩道の端に一群の人びとが「ヒノマルの小旗」を持って、なんだかウキウキした風で立っていた。カメラを構えている人もいた。パトカーも、ようけ停まっていて、モノモノしかった。ふ~んという感じであった。ホウゲイってどんな字を書くのやろか、とも思う。

 昼頃までこまごまと用を足して、昼ご飯を食べて出勤。蒸し蒸しする。通り道にある銀行でお金を下ろそうとしたら、長蛇の列。給料日だからかと思ったが、あまりゴールデンではない暦とはいえ「連休前」だなあと後で思い直す。

 今日はパタパタと連休中の企画のためのパネル展示やらポスター貼りやらの上に、遅番の受付があって、疲労困憊。明日もシゴトかと思うとげんなりしてしまう。体力が売り切れないように、ペースダウンしなければ…
 
 通勤の供は橋本治。半ばをすぎて、快調。しかし疲労感にはまける。
 
 

アルゴリズム行進

 4月23日といえば、ふみの日で、サンジョルディの日だったかなと思いつつ出勤。昨日の晩すこし雨がぱらついていたようだが、今朝は曇り空ながら雨はいったんあがっていた。

 昨晩、枕元に2カ月ほど積んでいた橋本治の『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書)をぱらっと読むと、こんどはいけそうだったので、通勤の供にする。最初買ったときには、数ページ読んだところで頭がついていけず、積んでいた。こんどはするするっとついていけそうな気配。橋本治の文章にはくどくどした独り言のようなどうにも読みづらいものもあるが、これは「ですます」調で書かれていて、私がこれまで読んだ橋本治のもののうちではかなりアッサリめの印象。

 もちろん内容は、「美しいがわかる人」と「美しいがわからない人」の両者の立場をあっちこっちして書いたような、少々込み入ったものだけれど、少しは頭の疲れもとれたのか、ずっと積ん読になることはなさそうだ。

 今日こそは定時に帰るぞと思っていたのに、結局2時間弱のザンギョー。まわりの人とあれこれ話をしながら、いろいろ考えることも多い。

 ビルの中では天気に気づかず、傘を持たずに職場を出て、駅に着く頃に(傘!)と思い出す。電車の窓から外を見ると雨がまあまあ降っている。どうしようかと思ったが、最寄り駅について買い物をすませてから出てみると、思っていたほどではなく、てくてくと小雨に濡れながら帰宅。

 今日は「ピタゴラスイッチ」の録画がうまくいって(昨日はうまくいかなったのだ)アルゴリズム行進をようやくゆっくり見ることができた。同居人は録画したのを初めて見て、げらげら笑っている。

 あー数人でエンドレスで踊りたい。マスターしたい。5度ほど繰り返し見る。
 いーっぽ進んで前ならえ、いーっぽ進んでえらい人、ひっくりかえってぺこりんこ、横に歩いてきょろきょろ、ちょっとここらで平泳ぎ、ちょっとしゃがんで栗拾い、空気いれますシュウシュウ、空気が入ってピュウピュウ、いーっぽ進んで前ならえ、いーっぽ進んでえらい人…

石鹸つるりん

 昨晩から冷えて、天気予報のいうとおり「季節が逆戻り」したように思えたが、昼間は晴れて気温もあがり、職場のビルの中は少々暑いほどだった。

 「こうすることに決めた」という作業を、ちょこっと動かすきっかけはあるのかどうか、と考える。「こうしてみてもいいのではないか」と思いながら、「こうすることに決めた」作業がすすんでいくのを眺めている。テキパキとした作業が、テキトーでエエ加減な私とは、ちょっと不一致。
 ”人それぞれ”と気軽に言ってしまうけれど、”人それぞれ”は寛容がかなり要るのだなアとつくづく思う。

 晩ご飯はカレー。
 「プロジェクトX」を久々に見る。再放送の自動改札の話。私にとって、最寄り駅は「日本で最初に自動改札になった」ところだったから、子どもの頃からずっと電車に乗るといえば自動改札が当たり前だった。大きくなって、初めて国鉄に乗ったときに手仕事の改札を経験した。自動改札を先に経験するなど、ひじょうにレアなことだとずいぶん後から知った。
 なつかしい駅舎の映像を見た。

 風呂で、小さくなった石鹸がすべって右目にとびこんだ。さすがに石鹸でも目に入るとかなり痛い。合成洗剤だともっとキツいだろうと思うものの、石鹸でもしばらく目があけられないくらいしみた。

 中島梓の『ベストセラーの構造』(ちくま文庫)を読み終える。 

冷たい風・さんぽ

 土曜出勤のかわりに休み。同居人を送り出してから、コーヒー飲みつつNHK教育をしばらく視聴。「でこぼこフレンズ」は4月になって新しいバージョンが投入されているようだ。今日の「玉子おうじ」ネタには笑わせてもらった。明日の晩用にカレーを仕込む。

 T先輩に電話して、昼前に隣駅で待ち合わせ。安い食堂で昼ご飯を一緒に食べる。そのあと本屋を経由して、ぷらぷらと線路沿いを歩く。喫茶店でコーヒーをごちそうになって、1時間半ほど話して、「ああ子どもが帰ってくる時間や」とT先輩は帰っていった。専業主夫だなあと思う場面である。小3の子どもにまだ鍵は持たせていないらしい。

 しばらく駅ビルの中の店をうろうろして、昼ご飯用の箸とケースを買い、食料の買い物をして帰宅。洗濯機をまわして、父ちゃんに頼まれて買った木田元の『闇屋になりそこねた哲学者』(晶文社)を読む。さいごのほうはやや年寄りの自慢話風でいまいちだったが、前半の若い頃の話はおもしろかった。洗濯物を干すのに冷たい風が吹いてさむい。

 晩ご飯は、鰺の干物を焼いて、ご飯、味噌汁、ホウレンソウと玉子の辛子和え、漬け物。NHKの「生き物地球紀行」をみる。森の中でコロニーをつくって繁殖する、ふるいペンギン。海まではペンギンの足で4時間、しかも断崖絶壁を上り下りして、である。続いて「ちゅらさん2」をみる。

 数日暑いくらいの日が続いたせいか、ひんやり冷える。

「社会」って何?(その2)(II)

 このようにして、大きさと距離を徹底的に見失った視力をもとにくみたてられた「社会」がどのように混乱したものであるかは、容易に想像がつくだろう。「見た目の大きさ」と「じっさいの大きさ」で、「見た目の大きさ」の方が見るものの「現実」の認識に近ければ、「じっさいの大きさ」は否定され、「見た目の大きさ」のみが真実として残されることになる。…(158-162ページ)

 朝からシトシトと雨は降り続き、映画「ぼくんち」を観にいくかと言っていたが、結局ゴロゴロと過ごす。遅い朝ご飯を食べて、遅い昼ご飯に焼き飯をつくって食べて、ウトウト昼寝しながら本を読んで、日が暮れてから晩ご飯を食べに出た。豚カツを食いにいこうと思ったら、めざした店は定休日で、うろうろして入ったのはチェーンの焼鳥屋。手際の悪い店で、1杯ずつ生ビール飲んで(この生ビールが発泡酒と思われる上にグラスが小さかったくせに高かった)、焼き鳥を何串か食べて、すぐお勘定して出た。店主も店員も「スミマセン」とばかり言う店で、あまりスミマセンと連呼されてもなあと思った。

 3度目か4度目の『降ります』を読み終える。

「社会」って何?(その2)(I)

 昨日は初の土曜出勤。やはりくたびれる。帰りの電車で初めて居眠りする。カラダがまだついていけない。そのかわり月曜は休み。

 図書館で借りた中島梓の『ベストセラーの構造』(ちくま文庫)を読んでいるところ。やはりまた「社会」って何?と考える。

▽…人々が通常「自己のアイデンティティの母胎」と見なしている多くのもの--会社、親族、大学、女性なら趣味のグループとか友人知人、PTAやまた主義主張を同じくする組織など--は、じっさいには、かつての村落共同体の役目を単一でひきうける機能をやはりもっていないのである。…
 しかしそれでも、人間は共同体への幻想をもたぬわけにはゆかない。これは、人間にとって、食べたり飲んだりするのと同じほど、根元的で切実な欲求なのである。人間は自分があるムラ的共同体に帰属し、それによって保証されていると思うことではじめて等身大の人間になる。…現実のさまざまな共同体が、充分な機能をはたさないならば、われわれはたとえまったくの幻想のムラをでも、つくりあげ、それに帰属し、それに保証されなくては安心できない。…
 社会が拡大され、混乱し、地域集団の性格を失えば失うほど、この「役割としての隣人」の存在は大きくなる。…われわれは、となりの娘と三軒先の息子の恋について話すかわりに、山口百恵と三浦友和の結婚についてうわさしあう。それはわれわれすべての共通の知人であり、隣人である。…われわれはすべて、「山口百恵の結婚」に立ちあったものとして同じムラの住人となる。それにどのような反応を示すかは問題ではない。要は、われわれは、共同性をもったのだ。…その「共通の知人」の名を契機として失われたムラが一瞬よみがえる。…
 われわれの「幻想のムラ」は、このようにして、「幻想の村人」に構成され、「幻想の価値」によるアイデンティティ幻想を供給してくれる。自分と同じ大きさの「団地のとなりの家」の人を、自分と同じ大きさだと見てとることのできぬわれわれの視力にも、たいへんはなれたところに立っている、われわれのたとえば百倍の大きさの人形は、「自分と同じ大きさ」として目に入る。…しかも、われわれは自分の大きさを、じっさいより五倍か十倍のものとして考えているので、とおくにあるためじっさいの二十分の一にみえているその人形であってはじめて「自分と同じ」大きさのものであると思う。…

「社会」って何?

 急に暑くなって、今日は夏日の天気予報。大阪の最高気温は24.8度。
 水曜は係長の異動があり、新係長の歓迎宴会に顔を出してから、前の職場の送別会へ、宴会のハシゴ。久々に花束をもらって、記念の品と「風呂で本が読めるラック」という怪しいモノをもらう(自分では買わんな)。
 木曜は遅番で、水曜の宴会疲れかぐったりとしてしまって、二度寝。昼までコンコンと寝た。もわもわと暑い中を出勤。しかしいくら気温があがってきたからといって、すでに職場でクーラーがついているのはどうだろう。すうすうひやひやとするので職場で羽織る上着を持参。
 今日は定時に帰りたかったのだが、会議が長引き、結局2時間ほどザンギョー。明日は土曜出勤で、明日はゼッタイ定時に帰ろう。水は宴会、木は私の遅番、今日は同居人の夜介護で、べつべつの晩ご飯が続く。気をつけないと、一緒に晩ご飯を食べる日がわずかになってしまう。

 昨日読み終えた宮本みち子の『若者が《社会的弱者》に転落する』(洋泉社新書y)は、なかなかオモシロかったのだが、終盤になって「社会」って何?と考える。
 
▽…いま二〇歳の若者の半数以上は、学生かそれに近い非社会人の状態にある。九割以上が高校を卒業し、四割程度は初就職し、税金や社会保険料を払い始める。一八歳が人生の出発点といってよかろう。
 ところが星人ではないので、選挙権はない。多くの国でおこなわれているような軍隊への入隊もないから、いよいよ一八歳が大人になる出発点とは認識されにくい。アルコールもタバコも本当は禁止(!)である。こうして、あいまいな性格をもった一八の春を迎えた後も、六割の若者は社会には参加せず、大学・短大・専門学校・予備校など教育を受ける場所にいつづけ、それまで同様に親に扶養される人と定まってしまうのである。だから二〇歳の成人式が大人への飛躍とは自覚されないし、内実も変わらない。それゆえ国民年金への拠出という国民の義務も自覚されない。親の負担が増すばかりである。(153-154ページ)

 このあたりを読んで、「社会人」とは?「社会に参加する」とは?と思案する。宮本によれば、「学校」という学ぶ場は「社会」ではない、という理屈になる。「社会人と学生」という分けた言い方は確かにするけれど、学生を非社会人とか社会に参加していないとまで言うことができるのか?と疑問は残る。

ヨレヨレ

 今日は定時で帰ってきたのに、ヨレヨレのクタクタであった。とりあえず帰ってきてから1時間弱寝た。まだ火曜だというのに週末までもつのか不安だ。今週は土曜出勤も当たっているというのに大丈夫やろか。まだ2週間というのに、係長が異動することになり、当分キンチョー感はとれそうにない。

 晩ご飯は、タイ風野菜炒め。タァ菜、チンゲン菜、小松菜と豚肉をタイの調味料キットで炒める。しかし水が出過ぎて、炒め煮になってしまった。

 通勤の供は宮本みち子の『若者が《社会的弱者》に転落する』(洋泉社新書y)になった。図書館で借りたものである。しばらく前から借りては積んで返し、借りては積んで返しと何度かやって、やっと読む。この著者の別の本『未婚化社会の親子関係』(有斐閣)や、監訳の『若者はなぜ大人になれないのか』(ジョーンズ&ウォーレス、新評論)は既に読んでいる。

 大人になるということの意味が(いまの親の世代とは)変わってしまった、というのが宮本の言いたいことの大枠だろう。その変わってしまった中でも重く見られているのが「パラサイトシングル論」だ。しかし、甘ったれの若者が増えたというような観点だけでは、とうてい現状を掬いとれない、というのがこの人の言いたいことだと思われる。

 疲れがとれない気分のまま、というのがとにかく疲労をよぶ。給料が出たら、枕を買い換えようかしら。

3週目

 昨日はエエ天気で、洗濯して、それからWeの原稿をずるずると書く。同居人は昼介護で、ひとりうにゅうにゅと原稿を書くが、集中できずにだらだらと夕方までかかり、それでもまとまらないので、買い物がてら外出。投票所経由で、買い物して、帰って質素な晩ご飯をつくる。ご飯、味噌汁、ホウレンソウ入り卵焼き、切り干し大根と人参とワカメの酢の物、カブラの漬け物(いただきもの)。

 頭がカユくて、風呂に入って、頭をガシガシ洗う。土曜に買った横川和夫の『降りていく生き方』をぺらぺらと読みながら、眠気に襲われて寝る。

 3週目の新職場。朝のんびりご飯を食べていたら、ギリギリになってしまい、いつものフツウ電車に乗り損ねて、1本あとの電車から急行に乗り換える。いつものフツウなら、ゆったり行けるのに(時には途中の駅で2人とも座れる)、急行はカラダの向きも変えられないくらい込んでいた。すぐ近くに音が最大限漏れたようなヘッドホンをつけて音楽を聴いている若人がおり、かなりうるさい。やはりいつものフツウでのんびり通うのがいいなあ。

 定時で帰れるつもりが、ちょろちょろと細々したことが続いて、結局1時間ほどのザンギョー。朝ばたばたと出たので、ご飯も仕掛けていないし、たったか帰って、”お急ぎ”で炊飯。晩ご飯はカレー。副菜は、もずく酢と、ホウレンソウとチシャ菜のナムル風。

 ご飯のあとに清見オレンジ食べ食べ「ちゅらさん2」を見る。そのあとで『降りていく生き方』を読んでしまう。

 べてるの家につきあってきた”治せない医者”川村さんの、呪縛からの脱皮。川村さんはこう語っている。

▽「精神病というのは当然ながら、医者にとってけっして全能に振る舞えない領域なんです。残念ながら治せない人がたくさんいる。それでも私はひとりの無力な精神科医として、彼らのまえに存在しつづけなければならない。・・・私もいろんな現実の課題に直面しながら、治せる、解決できる医者ではないという現実に向きあわざるをえないんですね。この無力な自分に、肯定感をいかに自分自身で与えるかが、私のテーマであったような気がしてますね」(184-185ページ)

本買って、コロッケ食べて、映画見て(III)

 映画は、同居人の障害者手帳のおかげで、本人1000円+付添1人1000円の恩恵にあずかる。七藝では6月に「百合祭」もくるらしい。再来週はガーデンシネマの「ぼくんち」にも行きたい。

 映画はおもしろかった。視点を変えた構成になっている原作をどう映像にするのかと思っていたが、視点の転換によって同じ場面を描いていく方法は原作と同じ。原作があって、それを先に読んでしまっている場合、映画をあとで見ると、映画のほうが「へたなダイジェスト」に見えてしまうことがあるのが困る。が、この「ラヴァーズ・キス」は映画もおもしろく楽しめた。(原作を読んでいない人にこの構成が理解できるだろうか、という疑問はあるが)。
 「百合祭」も、先に原作を読んだから、去年公開されたときには(原作おもしろかったし)と思って見なかった。「ぼくんち」も原作の漫画を先に読んでいる。でも、この2本、見てみたい気になっている。

 帰りに551の豚まんを食べて、ぷらぷら買い物をして帰宅。晩ご飯は昼に仕込んでいったチキンカレー。ご飯をすませて、『ラヴァーズ・キス』の原作を読む。同居人も続いて読んで、「これ、原作ができすぎよなア」と言いつつ、映画おもしろかったなという話になる。

 それから毛利子来の『子どものからだ・子どものこころ』(PHP文庫)も読んでしまった。今晩は『降りていく生き方』を読むか。

本買って、コロッケ食べて、映画見て(II)

おじさんから離れることができなかった。そういうのは、俺のこれまでの人生の中で起こった中ではいちばん実のあることのひとつだった。それについちゃ、俺のほうがむしろおじさんに感謝しなくちゃならねえわけだし、だからおじさんが俺に感謝するような必要はないんだ。もちろん感謝してもらって悪い気はしねえけどさ。ただ俺が言いてえのはさ、ナカタさんは俺にすごくいいことをしてくれたってことだよ。よう、わかるかい?」(『海辺のカフカ(下)』320-321ページ)

 雨がなんとかあがったようなので、自転車で本屋へ行く。注文していた本が入った。『女性労働研究NO.43 サスティナブルな働き方』(青木書店、2003年1月)と、妹1号に頼まれていた1冊と。女性労働研究を買うのは初めてだ。巻頭の竹信三恵子「サスティナブルな働き方とワークシェアリング」を読みたかったのだ。
 店内をぶらぶらと見てまわって、どうしても本買い虫をおさえきれずに横川和夫の『降りていく生き方 「べてるの家」が歩む、もうひとつの道』(太郎次郎社)を買った。帰りにはまたぽつりぽつりと雨。

 晩ご飯用にカレーを仕込んでから、同居人と映画見物にでかける。吉田秋生原作の「ラヴァーズ・キス」が今日から第七藝術劇場でロードショーなのだ。とちゅう、N駅で降りて、こないだの日曜に食べられなかったコロッケを買って食べる。揚げたてのコロッケとメンチカツはおいしくて満たされた。駅前では名前を連呼するだけのクダラナイ選挙運動をやっていた。あんた誰?何する気?「明日の投票日には○○○○をよろしくおねがいしまーす」と15人余りも並んで声をはりあげている。私には○○○○が誰なのかも分からないし名前さえおぼえられなかった。何をするのだ、○○○○は?マル投票ではなくバツ投票なら、まずこの○○○○をバツにするがなあ、と思う。

 帰りの電車でも名前を連呼するばかりの声が電車の中まで聞こえてきた。同居人はいいことを言う。
「名前はなし、投票所にも政策公約だけを並べて、そこから選ばせたらいい」「それやったら名前連呼せんと、何をするかをもっと言うよな」「同じ政策やったら、別に誰でもいいねん、名前なんかいらんねん、そのかわり公約やぶったら死刑」「そうよなー、誰がって要らんよなー、何をやりますって言えっちゅうねん」 
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第37回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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