読んだり、書いたり、編んだり 

2月に読んだ本

2月に読んだ(読み終わった)本のリスト:
○内田樹『期間限定の思想 「おじさん」的思考2』晶文社
○宮本常一『宮本常一、アフリカとアジアを歩く』岩波現代文庫
○宮本常一『塩の道』講談社学術文庫
○レベッカ・ブラウン『家庭の医学』朝日新聞社
○深見じゅん『ぽっかぽか』(1~8)集英社YOU漫画文庫
○南伸坊『仙人の壺』新潮文庫
○吉田秋生『ラヴァーズ・キス』小学館文庫
○中野翠『クダラン』文春文庫
○奥野修司『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』文春文庫
○ハロルド作石『BECK』(1~14)講談社
○根津八紘『代理出産 不妊患者の切なる願い』小学館文庫
○宮本常一『日本文化の形成』(上)ちくま学芸文庫
○レナーテ・クライン編(「フィンレージの会」訳)『不妊 いま何が行われているのか』晶文社
○松浦幸子『続・不思議なレストラン 君はひとりぼっちじゃない 心の居場所15年』教育史料出版会
○ナンシー関『雨天順延 テレビ消灯時間?』文藝春秋
○ナンシー関『何はさておき』世界文化社
○宮本常一『日本文化の形成』(中)ちくま学芸文庫
○内田樹/鈴木晶『大人は愉しい メル友おじさん交換日記』冬弓舎
○梨木香歩『裏庭』新潮文庫

だりぃ

(2/26)
 一日休養。高校時代の同級生3人と再会。うち2人とは高校卒業以来、初めて会った。しかし、「変わった」感はあまりなかった。私が長髪になっていたことのほうが「変わった」感は大きかったかもしれない。変わったといえば、3人とも結婚してて、うち2人には子どもがいて、ハハの顔もしていた。親と同居や近居ではなく、核家族で子どもを育てていく大変さを少し感じた。
 夕方になって雨。朝からポケットに入れていた梨木香歩の『裏庭』(新潮文庫)を半ばすぎまで読む。入れ子構造の話になっていて、ちょーーーーーっと’説教臭さ’がある。

(2/27)
 レポート採点がすんだせいか、やや腑抜け状態で、ダルい。夕刻はおつかいの外出があって、それがすんで直帰したら、久々に明るいうちに帰宅。晩ご飯は、茄子とインゲンと豚バラをタイ調味料で炒めたのと、人参、大根、すき昆布、ふのりに柚子をきかせたサラダ。ピリ辛の炒めもんでご飯がすすむ。
 梨木香歩の『裏庭』を読み終える。好みの問題だが、『西の魔女が死んだ』や『からくりからくさ』のほうが、私の好み。
 エリック・ホッファーの『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』(作品社)と『現代という時代の気質』(晶文社)を入手。布団にはいって『エリック・ホッファー自伝』を少し読んでみる。
▽一九三三年にフランクリン・D・ローズヴェルトが大統領になる前のアメリカは、自己憐憫とはまったく無縁だった。言葉を交わした人間の誰一人として、自分の不幸を他人のせいにする者はいなかった。人生を語るときは、ほとんど例外なしに「悪いのは自分なんですが」と前置きする作法になっていた。(18ページ)

(2/28)
 ひたすらダルく眠い一日で、キツかった。書類かきにもいい加減くたびれて、かなりやる気レス。『エリック・ホッファー自伝』をさらに読みすすむ。
 晩は、近所のOさん宅で鍋。今日は妹2号も合流し、同居人とも3人でお邪魔する。

やっと終わった

 レポート採点がやっとこさ終了。もうほんとにくたびれた。気が抜けた。
 大学は受験生でいっぱい。朝の出勤は時間をずらしたが、帰りのモノレールは受験生の群と一緒になってしまい、途中の駅までぎゅうぎゅうで参った。
 
 明日はとりあえずレポート採点の疲れを癒すべく休み。
 内田樹と鈴木晶の『大人は愉しい』(冬弓舎)を読み終える。むふふ

一線を記す

 朝出ようとしたら雨が降っていた。傘はなければないで歩けるという程度だが、出るときから降っているので傘をもって出た。職場についたところでも霧雨程度の雨。昨日・一昨日よりはずいぶん寒いように感じた。厚手のセーターを着て、お腹にカイロも貼っているのに。

 職場にいて、昼頃にはカーーーッと晴れた。が、廊下を歩くと気温がずいぶん低い。それから夕方までの間に、また曇り空にかわる。

 あいかわらずレポート採点と、会議1件。代理仕事なので、どこまで仕切るべきか迷いつつ、結局会議を仕切る。レポート採点をしていると、本当に不思議な日本語にであう。今日おかしかったのは「一線を記す」という表現。どう考えてもこれは「一線を画す」だろうと思うが、ワープロの誤変換でもないようで、この学生は「一線を記す」とおぼえているのだろう。いったい、どこで?
 もうひとつ。レポートの最後に自分の考える「こうあるべきだろう」という主張を述べた一文を「~~というのが私の懸案である」と締めた表現。懸案?思わず辞書を引く。「懸案」といえば「かねてから問題になっていて、まだ解決のつかない事柄」というような意味だろう。どうも文意からしてそぐわない。検案だろうか?と考える。「検案」つまりは「形跡・状況などを調べ考えること」だろうか?あるいは、まったく違うことばの入力ミスか?

 通勤の供だった宮本常一の『日本文化の形成(中)』(ちくま学芸文庫)を読み終える。次はいよいよ下巻。

 ずいぶん寒いので、今晩はキムチ鍋。具だくさんにしたら、ずいぶんてんこもりになった。白菜、エノキダケ、人参、ささがき牛蒡、豚バラ肉、キムチ、舞茸、ニラ、青ネギに、コチュジャンと味噌。今日のキムチは、先日買った「中国産のキムチ」。中国産?と思いながら買ってみたが、どうということはなく、酸味のきいた美味しいキムチであった。 

映画・散歩(III)

 今日は昼ご飯を父ちゃんちで食べる約束で、軽く朝ご飯を食べて、モノレールに乗って父ちゃんちへ向かう。最寄り駅から20分ほどぶらぶら歩いて父ちゃんち着。妹2号も合流。父ちゃん手製のピッツァなどで昼ご飯。この2年ほどパン焼き器を買ってまでパンを焼き続けた父ちゃんもさすがに飽きてきたらしい。これからしばらくはピッツァをつくると言っていた。

 食後、苺と林檎を前に、紅茶をいれてしばらく4人でしゃべる。ひとやすみしてから、父ちゃんちを出て、妹2号も一緒に散歩がてら駅まで歩く。最寄り駅ではないが、私と同居人がかつて住んでいたアパート近くを通って、この数年のあいだの’変化’に驚きつつ(変化のあった場所の多くはマンションになっていた)、40分余りの散歩。この数年はクルマやバスで通っても、歩いてみることは少なかっただけに、驚きが多かった。

 2駅乗って妹と分かれ、さらに3駅乗って、J書店をめざす。まずコーヒーでひとやすみ。それから同居人といったん分離して、私は本屋へ、同居人は電器屋へ。ふだんはネットの本屋で検索して買うことが多いため、たまに本がたくさん並ぶ書店へでかけると、ああこんな本もあったのかと新鮮だ。哲学・思想の棚付近であれこれ立ち読みをして、エリック・ホッファーという哲学者の本に興味を持つ。帯や短評から察するに、ヴェイユのような人であるらしい。去年が生誕100年だったので、長く品切れになっていた本もいくつか復刊されたり新装版で出ているということらしい。どれかを買おうか、どうしようかとその付近でしばらく立ち読みをして、ホッファーは別の日に買うことにして、今日は残っていた図書券で内田樹と鈴木晶の『大人は愉しい-メル友おじさん交換日記』(冬弓舎)を購入。同居人と合流して、帰宅。風は冷たいが、冬の寒さではなく、昨日も今日もセーターを脱いでの外出だった。

映画・散歩(II)

[中略]

 私は、中国へ旅行に行った時、中国人の前で『ねこふん』を弾き拍手かっさいを浴びたことがある。「あなたは音楽家なのか」とまで言われた。同じくアメリカでホームステイしていた人も、ホストファミリーに『ねこふん』を披露し、大騒ぎになったそうだ。少なくとも中国・アメリカの2大国の人は『ねこふん』を知らない。何かの時にハッタリかますのに覚えておいても損はない。

 「教育」の機構に組み込まれていたわけでもないのに、日本人が『ねこふん』を両手で弾けるその割合の高さは驚異的といえる。現在では、邪道とされ楽譜もなかった『ねこふん』をちゃんと教育として取り入れるピアノ教室も多いと聞く。楽譜もある。楽譜ってのを一見すると結構音符が細かくてちゃんとした曲のように素人には見える。もう『ねこふん』は民間伝承の域を脱したのか。ちょっと寂しい。(163-166ページ)

 映画は「T.R.Y.」という作品。私がタダ券を1枚もっていて、同居人は障害者手帳の提示で1000円になる。2人で500円ずつの娯楽。映画をみるのは本当に久しぶりだ。映画館内はよく暖房が効いていて、映画がつまらなければ絶対寝るだろうという状況だったが、ウトウトすることもなく、なかなかおもしろく見物。織田雄二演じるペテン師・伊沢の話。20世紀初頭の上海を舞台に、騙したつもりが騙され、さらに敵を欺くにはまず味方からを実行する伊沢、と寝るヒマなく楽しめた。’井上尚登のベストセラー小説を映画化’したものらしいが、全く知らない。いつか読んでみるかな。

 つめたい雨はまだやまず、最寄り駅まで帰り着いて、K飯店へ行こうとするも行列する満員で、焼鳥屋へ進路変更。カウンターをはさんで、マスターとあれこれしゃべりながら12時頃まで過ごす。いつもながらおいしくて、その上びっくりする安さ。

映画・散歩(I)

 昨日の午後は、つめたい雨のなか、図書室経由で映画見物に。リクエストしていたナンシー関の『何はさておき』(世界文化社)が入っていたので、それを行き帰りの道中読む。「ねこふんじゃったの謎」がおもしろい。

▽<b>「猫のひたいで流行るモノ」?--ねこふんじゃった 1993年</b>
 ギターを弾ける人とピアノ(キーボード)を弾ける人の「意味」は違う、と私はかねがね思ってきた。ピアノを弾けるということは教育を受けたということだからだ。

 ピアノを弾けない者にとっては「両手を使って弾く」ということが、「弾ける」ということに関しての認識点である。右手人さし指1本で『チューリップ』を弾けたところで、それは「弾けた」には数えない。両手を別々に動かしながら弾く姿をもって、初めて「弾ける」とするのである。
しかし、「弾ける人にも弾けない人にも弾ける」という不条理が成立しているのが、御存知『ねこふんじゃった』である。

 どうしてみんな『ねこふんじゃった』だけは両手で弾けるのだろう。それも、習ったわけでもないのに。『ねこふんじゃった』の弾き方を後世に伝える意志が世の中にあるとは思えないのに、どうしてちゃんと伝わっているのか。今月は「民間伝承の巨星・ねこふんじゃったの謎」に迫りたい。

 まず不思議なのは、誰もが口を揃えて「習った覚えもないし、いつどうやって弾けるようになったかわからない」と証言する点である。まさに民間伝承。ピアノを習っていた人に聞くともっと興味深い答えが返ってきた。「ねこふんじゃったの楽譜というものを見たことがない。私もいつの間にか覚えたが、ピアノの先生に”ねこふんじゃったを弾いてはいけない”ときつく言われていた」と言うのだ。ある時期の全国のピアノ教室では「ねこふん禁止令」がそれぞれ言い渡されていたらしい。フォームが崩れるから、が理由だそうだ。禁止しなければ弾いてしまう。ピアノの先生も邪道とは言いながら『ねこふん』の底知れぬ不気味な伝播力を無視できなかったのであろう。

大量のポテンシャル(II)

 ここで「運動」と「スポーツ」の違いみたいなものについても考えなければならない。運動能力の特性がどのスポーツに適合するかで、稼げる金額も違ってくる。昔「巨人の星」に短距離選手が代走のスペシャリストとしてジャイアンツに入団してくるというエピソードがあったが、結局足が速いだけでは盗塁はできなかった。ま、漫画の話なんだけどね。ちゃんとした統計などないのだろうが、勉強と運動の「出来」を偏差値化して比べたら、運動の方が「稼ぎ」に直結していないという結果がでそうだ。いろいろ語弊があるとは思うが、たとえば「勉強偏差値70」と「運動偏差値70」では年収は前者のほうが多い、んじゃないかと思う。これがそれぞれ85になったら「運動」の方がひと山当ててるかもしれないけど。なんか偏差値とか年収とかいう言葉を使ったのは失敗かもしれない。どんどん読む人を「そんなもんで人生の幸福が計れるか」という気持ちにさせていっているかも。

 何を言いたいかというと、この「筋肉番付スペシャル サスケ2001」は、そんな金を産むことができなかった「運動能力」の終着の浜辺のようであるなあと思った、ということなのであるが。無駄(という言葉はまた大変に語弊があるが)な「勉強」の能力の漂着先は、かつての難問クイズブームで目撃した。この「サスケ」に代表される「筋肉番付」周辺は、その「運動」版と考えられる。とりあえずこの「サスケ」というゲーム(もう、その範疇にはないが)における優秀は、直接的には何にもつながらない。何の見返りもない。というのとはまた少し違う無駄感。見返りがないというのには、まだその見返りのなさに陶酔することの幸福感もあるだろうが、もうその域を越えてるから。腕立て伏せと腹筋に代表される「筋肉番付」的運動能力は、この一番組がなくなったらどうなるのだろうか。いや、彼等は鍛え続けるに違いない。しかし、相対的な優劣をつけられることが永遠になくなるのである。それが真の鍛錬、己の道、とかいうことなんだろうけど、でも解放されることのない大量のポテンシャルがこの日本列島に蓄積されていく、と考えると何かすごいな。('01・3・29)  (104-107ページ)

大量のポテンシャル(I)

 昼前から雨。でも洗濯して中に干す。この冬はどうも雨が多い。大阪の冬といえば「異常乾燥注意報」だったはずが、しょっちゅう曇天で、週末は雨。週末に洗濯するウチとしては、加湿器加湿器と思いながら干す洗濯物。

 ナンシー関の『雨天順延 テレビ消灯時間?』(文藝春秋)をさらさらと読む。図書館で借りたやつだ。「金にならなかった運動能力が流れ着く浜辺か」が面白かった。

▽<b>金にならなかった運動能力が流れ着く浜辺か</b>
 「勉強ができる」ということと「運動ができる」ということはどう違うのだろうか。「勉強しなさい」の根強さは、やはり勉強ができると食いっぱぐれないという現実があるからだと思う。「勉強しなさい」の「勉強」は、決して山に入って一日中キノコの勉強をすることを指しているのではない。「将来食いっぱぐれない」につながらう「勉強」が何なのかはもう明らかであり、それを勉強と言うことになっている。その勉強ができると先々安定した収入を得られるのである。

 一方「運動ができる」というのはどうか。スポーツのプロ化も進んでいるし、「運動」の能力が稼ぎに直結する機会も増えているわけである。でも、プロスポーツ選手を目指して「運動(練習)しなさい」と言うのは、さっきの「勉強しなさい」に比べると何か射幸性が高い。博打感というかひと山当ててやろう感が感じられる。「勉強」の評価に関しては統一がはかられて久しいが、「運動」の評価(何ができれば金になるのか)に関してはまだ過渡期だからか。サッカー選手にするためには、毎日サッカーボール蹴るのがいいのか、それとも筋トレか。正解がわからない。あと、運動は生来の能力に左右される(いわゆる才能の有無)という考え方も根強い。ここまでの「勉強」と「運動」という言葉は、あくまでも「言うところの」という言い訳つきのそれだと思って読んでください。

2月下旬

 一昨日、悩みの多い日。
 昨日、思っていたより寒かった。松浦幸子の『続・不思議なレストラン』(教育史料出版会)を読み終える。『不思議なレストラン』のほうが読みやすかったような。

▽「・・・どんな言葉がピッタリなのか悩むことがいい。それが貴重な経験になる。しかし、そのことだけで丸はあげられない。自分はピッタリだと思っても、ほかの人は別のことを想像するのだったらダメ。どうしたらもっと人に伝わるのかを考えたら、さらに表現は深まっていく。的確でふさわしい表現にするために言葉を大事にしてくれたら、言葉のもつすばらしい力、人間と人間とをつなげる力を言葉がもっていることに気づいていく。」(63ページ)

 今日、昨日よりはましだった。しかし、日暮れて寒し。
 レポート採点はいまだに終わらず。理解するのが難しい日本語が、、、、、

 『BECK』の11~14巻をゲットして読む。通勤の供は宮本常一の『日本文化の形成(中)』(ちくま学芸文庫)。そろそろ下巻が近い。

今日も

 曇天。今日も朝からくるくると書類かき。頭はパズル。かなり疲労。
 
 昼にぶらっと生協へ行って、同居人に頼まれていたCDを買い、あまり多くはない本をしばらく見てまわる。ちくま文庫の最新刊など、いくつか手にとってみて、また戻す。ちくま新書を2冊とって、それから振り向いた棚に、珍しいものがあった。松浦幸子の『続・不思議なレストラン』(教育史料出版会)だ。こんな本を置いているような生協ではないのだが、珍しいこともあるものだ。『不思議なレストラン』は既に読んでいたから、ふらふらとこれも掴む。結局、『続・不思議なレストラン』と、橋本治の『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書)と、金子勝/成毛眞の『希望のビジネス戦略』(ちくま新書)を購入。むしょうに本が買いたくなった。ストレスってやつか。

 晩ご飯はカレー。先日仕入れた高級なカレールウは、かなりスパイシィな香りを発していて、食べる前からそそられる。朝から保温鍋で仕込んでいた。いい感じにできあがっている。大根葉のサラダもつけた。カレーは美味しかった。今度からルウはこれにしよう!

 同居人がさらに続きを買ってきた『BECK』の9巻、10巻を読む。5回くらい繰り返して読んだ。しびれる。

違和感(III)

 この本の第五章「不妊に向き合う人々の叫び」のページには、このS氏のような’患者’の声はなかった。たしかに、生まれつき子宮がないというような(ロキタンスキー症候群などの)女性にとって、’自分の(遺伝的なつながりのある)’子供をもとうとするなら、’治療’が必要なのだろう。だが、根津の、こういう人たちの’子供を持つ権利’とか、’代理出産をしなければ子供を手に入れることのできない患者’といった表現には、いまのところ私には違和感がのこる。

 医の技術の進みようはスゴイものだというのは、同居人が手術をしたときによくわかった。「10年前なら、足を落としている手術ですよ」と言われた。いまでは、人工関節に置換することで、足を温存して手術ができる。それになぞらえていえば、20年前、30年前にはできなかったことだが、いまでは、サロゲートマザーによる代理出産によって、子宮のない女性も’自分の子供’をもつことができる、ということだろう。だが、なにかが違うように思う。それを叶えることは、’人権’というものなのだろうか?

 同居人は手術後は左右の足の長さが少々違ってしまい、杖をつきながら、ちょっとひょこたんひょこたんして歩く。もっとなめらかに歩けないのかと同居人の親御さんが言う気持ちは分からなくはないけれど、世の中にはできないこともある、というような感じが私にはある。

 ’不足’を満たすことが、根津によれば「切実な希望にこたえる」ということなのだろう。しかし、’不足’と向き合う姿勢は、’満たす’ことばかりではなくて、その’不足’と折り合い、受け入れていくという方向もあると思う。とにかく違和感ののこる本だった。
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第39回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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