読んだり、書いたり、編んだり 

10月に読んだ本

10月に読んだ(読み終わった)本のリスト:
○森茉莉『記憶の繪』ちくま文庫
○上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』太郎次郎社
○田淵純一『オヂがパソコンを買うという暴挙』アスキー出版局
○加藤哲夫『市民の日本語 NPOの可能性とコミュニケーション』ひつじ市民新書(ひつじ書房)
○藤森照信『タンポポの綿毛』朝日新聞社
○村上春樹/安西水丸『村上朝日堂』新潮文庫
○オーキッドクラブ編『なやめるからだ オンライン外来 730日のカルテ』TBSブリタニカ
○正高信男『父親力 母子密着型子育てからの脱出』中公新書
○種村季弘『徘徊老人の夏』筑摩書房
○岩井好子『オモニの歌 四十八歳の夜間中学生』ちくま文庫
○田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』晶文社
○内田春菊『凛が鳴る』文春文庫
○阿川佐和子『ウメ子』小学館
○村上春樹『スプートニクの恋人』講談社
○上野創『がんと向き合って』晶文社
○幸田文『父・こんなこと』新潮文庫
○永倉万治『神様の贈り物』河出文庫
○ナンシー関、町山広美『堤防決壊』文藝春秋
○内田樹『ためらいの倫理学-戦争・性・物語』冬弓舎
○佐伯胖『「学ぶ」ということの意味』岩波書店
○姫野カオルコ『ブスのくせに!』新潮文庫
○カミュ『異邦人』新潮文庫
○船曳建夫『親子の作法』ベネッセ
○西原理恵子『はれた日は学校をやすんで』双葉社
○文藝春秋編『オヤジとおふくろ』文春文庫
○清水義範、西原理恵子(え)『もっとどうころんでも社会科』講談社
○南伸坊+朝日新聞学芸部『イマドキ現代用語50』朝日新聞社
○城山三郎、内橋克人『「人間復興」の経済を目指して』朝日新聞社
○内田春菊『私たちは繁殖している?』ぶんか社
○内田春菊『私たちは繁殖している?』ぶんか社
○吉川徹『学歴社会のローカル・トラック 地方からの大学進学』世界思想社

年寄り(II)

 母ちゃんのイトコ(父方)というKさんから電話があったのだが、誰だか分からない。つきあいもなかった人らしい。父ちゃんが知らないというだけあって、さすがに私も名前におぼえがないから、つきあいらしいつきあいはしていなかったのだろう。父ちゃんはくどくどと同じことを繰り返して、母ちゃんの弟、私からすると叔父にあたるTさんに電話でもすることがあれば、言っておいてくれとこれも繰り返す。

 父ちゃんの姉である広島の伯母さんの具合についても、「おまえ、おじちゃん[伯母の夫]にちょっと電話して、様子聞いて、見舞いにいくんやったら、日を決めて、お父さんも一緒に行くかもしれんから」と言う。

 父ちゃんが電話嫌いなのは分かっているが、それなら葉書の1枚でも書くかというと、それも最近はどうも面倒なようだ。年寄りになったなあとこういうところで思う。ばあちゃんの姿を思い出す。父ちゃんもだんだんいい歳になってきた。帰りに妹のクルマで送ってもらう道すがら、「いよいよ年寄りくさくなったなあ」と言っていると、「前から思ってたけど」と妹は言う。父ちゃんの歳は「まだまだ若い」と言われることもあるが、見ていると、やはり年寄りになったなあと思うのであった。

 父ちゃんのところでいつもよりかなり早い晩ご飯を食べたせいか、帰ってからまた空腹感におそわれ、お茶漬けを食べる。

年寄り(I)

 「無限色のクレヨン」は悪くなかったのだが、「おならうた」は期待しすぎたせいか、(え、もうおわり?これでおわり?)と思った。

 昨日の朝、ふたたび自転車にて健診を目指す。坂の上まで自転車でのぼりきるとやはり胸がばくばくする。8時50分頃に健診が始まるのを待つ列に並び、9時少し前に始まってから、尿検査と胸部レントゲン撮影と血圧測定を受けた。尿検査はすべてマイナス、血圧はやや高めに出たせいか、「深呼吸して、もう一度測ってみてください」と言われて2度測定した。上が122、下が78だったか。「歳の割には高め」と20年くらい前から言われているけれど、だいたい上が120、下が80で決まっているので、そう問題はなかろうと思う。思っていた以上に素早く健診がすみ、またバスに乗って出勤。

 夕方は、妹2号と父ちゃんちへ晩ご飯を食べにいくことにしていた。モノレールに2駅乗って、25分ほど歩く。すっかり空腹でたどりついたら、おかずは納豆と昆布の入った天ぷらだった。ウマかった。父ちゃんの話のしかたや暮らし方が、(年寄りくさくなったなあ)とつくづく思う。同じことを3度4度繰り返す。テレビの音が大きい。やや気弱になったようにも見える。面倒くさがることが増えた。

 「昨日、お母さんのイトコだという人から急に電話がかかってきてな、初めは誰のことかまったくわからなくて、どちらにおかけですかとも言うたんや。お母さんのイトコ、父方の姉の娘ですと言うとった。つまりお母さんのお父さんのお姉さんの娘や。Kですと、旧姓はOですと、言われても誰のことかわからんかったけど、イトコといってもお母さんとふだんのつきあいは全くなかったらしい。どこかで聞いたんか、病気だと聞いたのでって電話をくれたらしいんや。Kさん、旧姓Oさん、お母さんのイトコやって。弟が大阪におりますが連絡先を教えましょうかと言うたら、いやそちらは知ってます、Tさんでしょうと言うとったから、なにか思いついて電話してきはったんやろう。ふだんはぜんぜんつきあいなかったらしい。お母さんの名簿[母ちゃんの住所録]にも名前のない人やったし、お父さんにはぜんぜんわからん。お母さんの父方の姉の娘や、Kさん。お母さんが病気やと聞いたのでと急に電話してきはってな。お父さん、まったく誰のことかわからんし、初めはおかけ間違いじゃないですかと言うたんや。・・・・・」云々

さむっ(IV)

▽ ◎世界を席巻する「人間排除」のマネー資本主義
  ◎なぜ北欧諸国はわずか2、3年で不良債権処理を終えたのか
  ◎風力発電は雇用の場としての基幹産業
  ◎エリート層が喧伝する「一人勝ち社会」の実態
  ◎市場原理主義に抗する地方の「地産地消」運動
  ◎大原孫三郎が築いたカルチャーの凄み
  ◎米国型経営を批判し、終身雇用を守る日本企業
  ◎組織を離れ、「無所属の時間」で生きるためには
  ◎天国と地獄が同居していた昭和恐慌
  ◎パンを買うお金の復権を唱えたミヒャエル・エンデの遺言
  ◎構造改革路線が包含するジレンマ
  ◎新たな成長エンジンを立ち上げるとき

 日曜の晩は、この冬初の鍋・キムチチゲ。

 月曜はKa女子大への出稼ぎ。ひどく疲れた。ごしゃごしゃうるさいので少し注意をしたせいか、初めてしーんとしずかだった。晩ご飯は冷凍保存していたカレーを解凍した。二度つくったのをブレンドすると、かなり美味しかった。しかしえらく疲れた。あまりに疲れて、ごろごろしながらマンガを読む。内田春菊の『私たちは繁殖している』の?と?。

 先週あった職場の健康診断を受けられなかったので、別キャンパスの今週の健診に行こうと思い、今朝はビミョウな距離のキャンパスへ自転車で向かう。駅まで歩いている分には自分の体力をほとんど感じることはなかったのだが、いくつかの小さい坂を上がって、最後にゆるく長い坂を上がると、息が切れてきた。降りて押して歩こうかと思いながら、ちょっとがんばって坂の上までこいで上がったら、ぜいぜいするほどだ。若くはなくなった、という気がする。そんなに張り切って行ったのに、時間を勘違いしていて朝の9時からは「男子の部」、「女子の部」まで1時間半以上待つのはやめて、そこからバスに乗り、出勤した。帰りもバスで戻り、自転車で帰る。
 同居人が「歓迎会」をしてもらうとかで、一人メシ。めんどくさーいのと冷えるのとで、鍋焼きうどんのセットを買って帰って、ぬくぬく暖まる。
 
 注文していた「無限色のクレヨン」が手に入った。今晩はこれだ。

さむっ(III)

▽ズボンのベルトに、二種類ある。穴でとめる式のと、バックルにギザギザの止め金をつけた式のヤツ。これを、正確には何といって区別しているのかしらないけれども、私は前者(穴のある方)をデジタル、後者の、つまり穴のない方をアナログと呼んでいる。
「ベルト、アナログの方とって」という風に使う。
「えーと、アナがないのに、アナログと、こっちだな」といって、ツマがそっちの方を手渡してくれるという寸法だ。
 私は、アナログの方をヒイキにしている。なぜかというと、こちらは自分の腹にあわせて微妙にゆるめることができるからだ。
 デジタル式だと、ゆるめ足りなかったり、ゆるめすぎたりすると、しかたないので、腹の方を引っ込めたり出したりしないといけない。
 引っ込めるより、出す方がラクだから、いよいよ腹は出てしまう。これがつまりデジタルの欠点である。
 アナログに欠点がないかといえばそうでもない。穴でとめる式よりも摩擦だけに頼るこの方式は、腹に力がはいると、どうかした拍子に、ゆるんでしまう場合がある。(167-168ページ)

 かなりダイジェストしてそれぞれのコトバのあれこれについて書いた朝日新聞学芸部部分もわるくなかったが、やはりこのシンボーさんのチャチャがおもしろくて読んだ。

 『「人間復興」の経済を目指して』のほうは、父ちゃんがやや罵りながらまわしてきた本である。二人の対談を起こしたようなつくりである。父ちゃんは「日本語がなっとらん」「こんな簡単に本をつくるな」というような意味のことを言っていたと思う。父ちゃんなりの「望ましい本」のイメージがあるのだろうなあと思った。
 話し手にもよるが、対談を起こした式の本はだいたい読みやすい。しかし、なんともいえない物足りなさが残ることもある。対談だからこそ出てくる面白さもあって、内田義彦や鶴見俊輔の対談は好きなものの一つ。内橋克人と城山三郎もきらいではないのだが、この対談はあまり印象に残らなかった。目次を読んだら、分かったーという感じ。目次の抜粋が本の帯に刷ってある。

さむっ(II)

 土日はやたら本を読んでいた。日曜は図書館で借りた南伸坊+朝日新聞学芸部の『イマドキ現代用語50』(朝日新聞社、2002年)と、父ちゃんからまわってきた城山三郎、内橋克人の『「人間復興」の経済を目指して』(朝日新聞社、2002年)を読んだ。

 『イマドキ現代用語50』は、最近こんな言い方してるなあとか最近こんなコトバが使われているなあという「イマドキ現代用語」について、朝日新聞学芸部が人にきいたり、本を調べたりして、たいへんダイジェストしてまとめたものに、シンボーさんがチャチャを入れるような構成で連載していたらしい。あいうえお順に「アカウンタビリティー」から始まって、「私って~じゃないですか」まで、50のコトバが俎上に乗せられている。借りたときに、ぱらぱらっと見て興味を持ったのは、「エリート」「在日」「リスペクト」あたりだ。読んでみて面白かったのは、「壊れ」「サポーター」「デジタル」「パブリック」あたり。
 「壊れ」のところで、シンボーさんが入れたチャチャはこんなかんじだ。

▽そもそも、人間を道具や機械のようにとらえて「故障した」だの「頭のネジがゆるんでる」だの「接触不良でいきなりショートしちゃってる」とかと言うのは、深刻さを避けるためのタトエだったのではないか? と私は思うのだ。
 現実にはモノにも機械にも寿命はあるけれども、生き物のようには「決定的」な感じがしない。故障しても修理すればすむんだし、こわれたら修繕すればすむことだから。・・・
 コワれているかどうかは、その機能を問題にする立場なのであって、その立場にない「コワれた人本人」は、それを非常事態とは思っていない。となればますます「コワれた」って言い方は、対社会への客観的な目を自分の中にもった言い方だろう、と思うんですけどね。(シンボーの言い分「どこかで何かがコワれてる」102-103ページ)

 「デジタル」のところのチャチャは「アナがないのにアナログ」といって、ベルトの話が書いてある。

さむっ(I)

 急に寒くなった。日曜は「木枯らし一号」が吹いたらしい。気温がぐっと下がったところへ、強風が吹くのだから、体感温度はぐぐぐっと下がる。日曜はそれでも晴れて、自転車を買ってもらった。自転車屋のおっちゃんにアレコレと話を聞き、おっちゃんが「強化樹脂ですから」と泥よけやカゴをゴンゴンどついてみせてくれたのを(それでもびくともしない)買うことにした。私が新しい自転車を手に入れるのはこれでたぶん5台目になる。コケるたびにカゴがぐにゃんと変形し、ちょっと当たったり引っかけたりすると泥よけが歪み、、、という経験上、このゴンゴンどついても変形しない「強化樹脂ですから」には魅力を感じた。色はオレンジ。いわゆるママチャリである。同居人の「初任給でプレゼント」企画の予算内におさまった。

 重心がどこにくるようにつくってあるとか(子ども用の椅子をとりつけるタイプは、前輪が24インチ、後輪が26インチというようにして、重量がかかる部分の重心を低くしてフラつきを抑えるようにしてある)、ハンドルの形状と切り具合の関係とか、安い自転車はどこがヤワいかといったことを、たまたま客が途切れた時間だったらしく色々聞くことができた。「一万円以下で売っている輸入物の自転車は、あれは使い捨てだと思って売っている」ともおっちゃんは言っていた。

 帰り道、さっそくもう一つチェーン錠を買い、帰ってから名前を書き、シールを貼ってみたりした。自転車に乗るのは本当に久しぶりだ。5年ぶりくらいだろうか。広島へ行った頃は乗っていたのが、だんだん歩くか、クルマに乗るか、になり、あまり乗らないまま放っておいたら、金属部分までカビが生えたように緑色になり、泥よけもカゴもすっかり歪んで、タイヤももうダメですという状態になってしまった。大阪へ持って帰ってきたものの、すっかり乗らなくなってしまって、自転車はますます無茶苦茶になって、ある日処分した。高校生だった頃に買ってもらって、10年以上乗った自転車だった。
 タイヤの弾むような振動、道を走るときの段差の感じ、足腰にかかる負荷が、新鮮だ。クルマは軽自動車だったから、普通車に比べるとずいぶん振動があると思っていたが、自転車はもっと直に地面の上を走っているなあと感じる。

親きょうだい(III)

 昼過ぎに、図書室経由で自転車を買いに、と思ったところが、図書室で本を返して、何冊か借りたあとで外へ出ると、ポツポツと雨が降り出した。同居人の「初任給」が出て、それで「自転車をプレゼント」ということになっていたのだ。しかたないので買い物は延期して帰宅。

 眠くなって少し昼寝をはさみ、西原理恵子の『はれた日は学校をやすんで』(双葉社、1995年)を何度目かで読み、清水義範と西原理恵子(え)の『もっとどうころんでも社会科』(講談社、1999年)をこちらも2度目か3度目で読む。そういえば、昨日の帰りに本屋へ寄ったら、清水義範の『いまどきの教育を考えるヒント』が講談社文庫の新刊になっていた。清水義範の教育モノはどれもなかなかおもしろい。サイバラと合作の勉強シリーズはとくにおもしろい。この「社会科的にものを見る」話を、来週の授業で配ろうかなと思う。

 晩ご飯は、木曜から仕込んでいた「豚バラと干しシイタケと昆布の煮物」。アレンジしたラフテーのようなものである。水曜日に「ためしてガッテン」をちょっと見たら、干しシイタケは「冷蔵庫で一晩」かけてもどせ、そうするとウマいというのをやっていた。そのときに豚と昆布と一緒にたいたのが出ていて、めちゃくちゃウマそうだったのである。一晩かけて干しシイタケを冷蔵庫でもどし、木曜の晩から煮込んでいたものだ。これがうまい。干しシイタケがたいへんウマい。久しぶりに同居人がつくった味噌汁と大根サラダがついて、晩ご飯は大満足。
 風呂で同居人の散髪をした。

親きょうだい(II)

 どちらの本にも登場する金田一春彦の家族構成が『親子の作法』のほうに系図式に載っている。本人の語りによると、大正2(1913)年生まれの金田一春彦は、姉1人に妹が3人いたが、「大人になったのはいちばん末の妹だけでした」という。姉や妹の生年まで書いてないので分からないけれど、多産多死というのはこういうことなのだなあと改めて思う。大正1年生まれの私のばあちゃん(母方)も、弟と妹が3人いたが、間の2人は小さいうちに死んでしまい、大人になったのは末の弟だけだった。その話は小さい頃になんども聞いたおぼえがある。とくに仲の良かったという弟シゲルの死の話のときには、ばあちゃんは「シゲルがかわいそうでなあ」といつも言っていた。『オヤジとおふくろ』を読んでも、書いている人が「明治女の母」をもっていたりする年代が多いせいか、似たような話が出てくる。

 出産が命がけだった、ということも分かる。出産後ほどなく亡くなってしまった母親のことを綴ったものも多い。後添いの母のことを書いたものもある。私のばあちゃんも、その生母は亡くなって(それがどうしてだったかは分からない)、下の2人は「腹違い」なのである。つまり、ばあちゃんの父は二人目の妻を迎えた。そのせいもあるのだろうが、大人になったばあちゃんの末の(腹違いの)弟は、姉と歳が20も違っていた。学校の宿題では「おじいちゃん、おばあちゃんに戦争の話を聞いてきましょう」というのがあったが、親きょうだいのことや、暮らしのことを(戦争の話、という場合にももちろん関わることではあるが)もっと聞いておきたかったように思う。
 ばあちゃんの小学校の頃の話や、女学校の話など、書き留めておかないと忘れてしまいそうなこともたくさんある。それは母ちゃんについても同じで、(なんて言ってたっけなあ)と思うことが少しずつ増えている。

親きょうだい(I)

 また雨の土曜である。といっても先週末のようにシトシト降り続けているわけではない。しかし、朝から曇り空、昼からポツポツと降り、一度やんだが、また夕方になってバラバラと降った。平日は洗濯物をためつづけている我が家にとって、たいへん洗濯の楽しくない天気である。洗濯日和カモーン。

 土曜のくせになぜか同居人が8時に目覚ましをかけて、とっとと朝飯用のパンを焼いてしまったので起きた。眠い。パン食べて、牛乳飲んで、柿をむいて食べ、それからコーヒーを飲んだら、やっと目が醒めたような気がした。頼まれている原稿がいくつかあり、また週明けには授業もあるので、それらのシゴトにも手をつけないと・・・と思いつつ、昨日の続きで『オヤジとおふくろ』(文春文庫、1999年)を読み、合間にネットのニュースをのぞく。昨日は船曳建夫の『親子の作法』(ベネッセ、1998年)を読んでしまった。この本は出てすぐの頃に図書館へリクエストして一度手にとったが、結局読み切らずに返したものだ。子どもの側から親を語ったもの、という意味で、『オヤジとおふくろ』と『親子の作法』は似ていた。『オヤジとおふくろ』は多くの人が2ページほどで親のことを綴ったものであり、『親子の作法』のほうはいわゆる「2世」たちが親(ときに師匠でもある)を語るというインタビューのまとめのようなものだから、違いはあるのだが(『親子の作法』はインタビューイーの船曳の意図がよく分かるようになっていた)、親を綴り、語る、この両方の本のどちらにも出てきた人が数人いたことで、「似た」印象は強まった。

 山根一眞は、父親の山根章弘が出入りの若い者に聞かせるこんな言葉を、いっしょに聞いていたという。
▽「ニュースは、今の時代にとって珍しい事象だからこそニュースとしてとり上げられる。今の時代にごく日常的にみられるできごとは、ニュースとしては後世には残らない。そういう認識を持って過去の事象を見よ。古い時代の新聞の縮刷版を繰り、当時の記事内容を引用し、こういう時代だったと書く者がいるが、そういう愚かなことをするな。記事に載っているような事件が珍しい時代だったと、逆の見方をしなさい」(243ページ)

ママン(II)

 あらすじは知っていたといっても、「殺人をおかした主人公が、それは太陽のせいだと言う、よくわからん小説」という程度のことだ。「きょう、ママンが死んだ。」という書き出しから読んでみると、きっちりと書かれた小説と思えた。たしかに主人公は「それは太陽のせいだ」と裁判で述べる。私には、ママンの葬儀を詳しく述べた第一部が印象に残った。それは、ついこのあいだ幸田文の父を送った記録を読んだためかもしれない。ムルソーは、母親の遺骸を見ない。泣くこともなかった。裁判において、そのことが(そして母親の葬儀の翌日に女友達と海水浴にゆき、喜劇映画を観、共に寝たというようなことが)ムルソーの非人間性の証のように扱われる。

 この少し古い(30年近く前の日付の)文庫は、古本屋で買ったような気もするが定かではなく、父ちゃんか母ちゃんの持ち物だったのを借りてきてずっと積んでいたような気もする。この文庫がもし父ちゃんか母ちゃんのものだったとしたら、巻末の解説に赤鉛筆で線を引いているのは、父ちゃんか母ちゃんかもしれない。解説には、カミュが『異邦人』の英語版に寄せた自序(一九五五年一月)が引かれている。

▽「・・・母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じる以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在すること、感じることとの真理である。それはまだまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう・・・」(『異邦人』解説、142ページ)

 ここのほとんどの部分に赤鉛筆で線が引いてある。

ママン(I)

 出勤のときに、カミュの『異邦人』(新潮文庫)を読みながら、乗り換えて、席について、ふっと向こうの席を見たら、母ちゃんにそっくりなオバさんがいた。黒い帽子をかぶり少し色のついた眼鏡をかけた横顔に、釘付けになった。目を離せずにいると、そのオバさんがちらっとこちらを向かれた。(ああ違う人だ)と思いながら、モノレールを降りるまで、そのオバさんを見ずにはいられなかった。モノレールを降りて、エスカレーターをとんとんと降りて、改札を出て、そのオバさんが病院の建物へ向かうのを見送った。すたすたと歩かれるのを見て、母ちゃんがすたすた歩いていた頃の姿はもうあまり思い出せないと思った。すたすたと歩かれる姿を見ると、ああ違う人なのだと思わされた。

 「きょう、ママンが死んだ。」と書き出される『異邦人』の、あらすじは知っていた。けれど作品そのものを読んだのは初めてだ。内田樹の『ためらいの倫理学』のなかで、カミュのこの作品のことが触れられていた。

▽罪あるものを前にしても、なおそれを断罪する資格が自分にあると言い切れない主体の遅疑。正義を明快な論理で要求しながらも、いざ正義の暴力が執行されるときになると、正義があまりに苛烈であることに耐えられなくなる柔弱。自分の手が汚れていないと言い切るには、あまりに深く現実に手を染めてきていることへの疚しさ。
 私は「裁判官の尊大さ」をもって語ることができない、とカミュは率直に告白している。(239-240ページ、「ためらいの倫理学」)

▽・・・それにもかかわらず、「殺すもの」と「殺されるもの」が最終的局面において顔と顔を見合わせるとき、そこには「殺すな」という訴えがあり、殺すことへの抑えがたい「ためらい」が生じる。それが暴力を「限界づける」のである。現代において、もし暴力を効果的に制御しうる可能性があるとすれば、それは信仰の完成でも階級社会の廃絶でもなく、この「ためらい」を思想の準位へと繰り込む知性の努力ではないか、カミュはおそらくそう問うているのである。(247ページ、「ためらいの倫理学」)
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第41回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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