読んだり、書いたり、編んだり 

ご立腹

 昨晩はK女子大の通勤費問題で頭にきて、寝付きがひどくわるく、朝はヨレヨレ。弁当も休業。その通勤費問題は、「通勤費算定の方法と根拠となる規定を伺いたい」「この算定額には納得がいかない」「私としては公共交通機関を用いて、K女子大まで最短かつ最速の経路を合理的に選択しているつもりだ」「経済的かつ合理的という基準はどこで定めているのか、納得のいく説明をいただきたい」という意味のことを作文して、K女子大の人事課へでろでろとファックスを送る。その後、K女子大に勤める先輩から電話があり、人事課長から近いうちに直々に連絡があると聞く。自分でもつくづくクレーマー体質だと思うものの、いろいろ思うところがあっても言いづらい人や言えない人もいるだろうなとも思う。私の場合は「本務」があっての「副業」だから、かなり強気である。これが「専業」の非常勤講師の場合だったら、なかなか言いたい文句も言えないかもしれない(それでも私は言うような気がするが)。ともかく、言いたいことは言ったので、今晩はすっきり眠れそうである。もっともK女子大の回答次第ではキレるかもしれないが---。

 教職科目の事務作業が続く。合間にエイゴ文献の予習。合間に来週のK女子大の授業をどうしようかと思案する。

 帰りに頼まれていた本やCDを届けに父ちゃんちへ寄る。つい先日届けたばかりの某対談集にご立腹で、「こういうテープにとったのを起こしたような本はほとんどが滅茶苦茶だ、日本語がなっとらん、おまえらもうちょっとマシな日本語をしゃべれんのかと思う、こんなんでようショウバイするなあ、信じられない」などと罵詈雑言。いやぁ元気そうでよろしいなあと思いつつ、その某対談集は「確かに帯を見ただけで、分かりましたというような作りやし」と合いの手を入れる。同居人の里から送られてきた空豆を少しばかりお裾分けして、帰宅。

 阪神-横浜戦は延長になり、阪神が制した。たいへんな試合であった。つかれた。また少しエイゴの予習。 

ねむいー

 昨日はめちゃくちゃに眠気があった。K女子大への出稼ぎへ向かう途中も空港バス車内でぐうぐう寝た。月曜の疲労のためか、とにかく眠い。
 K女子大からの帰り道、「5月は赤十字なんたら月間」と血液センターに横断幕がかかっているのを見て、世界赤十字デー生まれの私はまたふらふらと献血ルームへ入ってしまった。ちょっと横になっていこうかなと思って。昨日もばっちり成分献血をすることができた。今まであれだけ「やめておきましょう」と言われてきたこの細い血管も、歳とって多少はゆるんできたんやろか。それでも腕のまんなかの血管はまったく見えず、いつもどおり腕のワキの血管から採血。ごろ~んと転がって、そのあとには飲み物もいただけて、血液検査もついてくる。なかなか街中で横になれるところは少ないが、献血ルームは狙い目かもしれない。
 ごろ~んと横になって、のんびりとした後は、時間がわるかったのか、市バスがまた超満員で3台も通過されてしまった。バス停には学校帰りの小学生から大学生までうじゃうじゃとたまって、ようやく来たバスにやっとこさ乗る。この市バスの混雑だけでうんざりするのに、K女子大からもらった給与明細をみると、なんということか通勤費がめちゃくちゃに少ない!空港バス→市バスと乗り継いでいく私の通勤ルートにかかる費用の片道分も出ていない。どういうことやねん!!1コマの授業時間の倍以上の時間をかけて往復しているのに、いったいどんなルートで通勤したらこんな通勤費で行けるのかっっ。ひどすぎる。こんなに「足」を出してまで行く気になれん、どういうことやっ、とかなり怒って、先輩にメールを書く。

 晩ご飯は肉ッッの気分のシェフ・同居人がステーキを焼いた。シェフはたいへん満足そうである。私は口内炎のせいでちょっと口の中がつらい。
 布団でごろんとして久しぶりに斎藤美奈子の『紅一点論』(ビレッジセンター出版局、1998年)を読む。おもしろい。しかしひどく眠く、もうろうとしてきて、かなり早く寝た。

 今日も暑くなり、6限には再びの教職科目ガイダンスでくたびれる。履修登録の事務作業でデータ登録をしていたら、手がしびれてきた。今年度は昨年度の1.5倍くらいの人数になりそうである。年度末のレポート採点も今からちょっとぞっとする。

ちゅーするコドモ(III)

(5/27)
 妹2号の誕生日。5月27日の「誕生花」は「つるばら」だというのをみつけた。花言葉は「愛」。同居人の母上が家のまわりを「花畑」にしているなかで、つるばらが見事に咲いていたのを見てきたところ。つるばらといえば小さい花をつけるものと思っていたが、かなり大きな花が咲いていた。
 誕生花というのはどこでどうやって選定されているのか全くわからないのだが、毎日なにかの花が設定されているようなので、5月8日もしらべてみた。「藤」であった。
 6限というなかなかキツイ時間に(18:00-19:30)教職科目のガイダンス。今年度は教職をとろうという学生が多いらしいと聞いていたがほんとうに多く、このあとの受講登録作業にちょっとうんざり。くたびれて、20:30頃帰宅。
 「私の青空2002」は最終回。同居人の母上も「ぶりぶり怒りながら」見ていると聞いた。今日は怒らずに鑑賞されただろうか。
 今日は現職ポストについてのなかなか厳しい話を聞く(前の職場と似たような話)。来年の今頃はどうしているだろうなあと少し思う。

ちゅーするコドモ(II)

(5/26)
 同居人のおばあちゃんの一周忌法事。集まった親戚はみな「黒い服」で、いつ頃からの習慣なのかなと思う。昨年の「四十九日」や「初盆」のお参りのときもみな「黒い服」だったので、もしかしたらそうかなと思ってはいたが、「いいやろー」と同居人が言うのにまかせて、まったくの普段着で今回も出た(2人とも「黒っぽく」紺のシャツにしてみたが)。「黒い服」といっても、「喪服」ではなくて「礼服」だと思えばよいのかもしれないが、みんなネクタイは黒、ネックレスは真珠で、それってやはり「喪」?
 ウチの親戚がゆるゆるなのか、地域性の違いというものか、もしくは宗派の違いか、ばあちゃんのときも母ちゃんのときも「黒っぽい服」を着たのはお通夜と告別式だけで、あとはみんな普段着だった(父ちゃんは「黒い服=喪」というのや「喪中はがき」は伝統でもなーんでもなくて気持ち悪いと言う)。仏式なら「四十九日」は忌明け、もちろん「服喪」はキモチの問題でもあるのだから、その後の「喪」のスタイルもありうると思うけれど。そんなことを考えた法事だった。お寺さんの説教に「流通している方言といえば大阪弁だけ」という話があって、つい笑ってしまった。
 お参りのあとは食事会。日が暮れた頃の特急で帰阪。持っていった2冊を読んでしまったので、同居人の父上の本棚からふだんは読まない清水一行の経済小説(『狼の地図』光文社文庫、2001年)を借り、帰りの特急で読み終える。
 寒気が入って「大気の状態が不安定」なようで(しかも大阪は昼間たいへんな暑さだったらしい)、大阪駅から最寄り駅まで帰る間にものすごい雷雨になった。駅につくと滝のような雨。傘があってもいやじゃというくらいの雨。傘も持っていなかったが、ともかく小降りになるまでと駅で半時間余り雨宿り。「ここまで順調に帰ってきたのに~」と恨めしくなるが、あまりの土砂降り(おまけにすごい雷鳴)に立ちつくす。タクシー乗り場も人でいっぱい。小腹もすいたし、ちょっとお好み焼きでも食べてく?と考えたあたりで、急に雨が小降りになった。「今なら帰れる」と駅から10分ほどの道のりをタッタカ帰る。もう玄関の前という頃にまたぽつぽつと降り始め、雷鳴はそれから2時間余りも続いた。ピカピカどっしゃんと賑やかな夜。移動疲れもあって、一風呂浴びてころんと寝た。

ちゅーするコドモ(I)

(5/24)
 職場の行事で、いつもよりかなり早出。学生の「論文構想」の発表会だ。学生数がかなり増えているので、部屋数も増やしているのだが、それでも一日シゴトである。夕方、ダッシュで帰宅。指定席をとっていた特急で石川へ向かう。大阪はかなり暑く、特急内の冷房は効きすぎるほど効いていて、下車したら「もわもわっ」とするんやろうなと思っていたら、石川はすっかり冷えた夜になっていて、肌寒いくらいだった。行きの特急で、速水融の『歴史人口学で見た日本』(文春新書、2001年)をおおかた読んでしまい、早めに入った布団のなかで、しまいまで読んでしまう。

(5/25)
 同居人が退院して1年。ふだんよりたいへん明るい朝陽が差して、もういい時間なのかと目をさますと、まだ6時前だった。もう一寝入りして、ふだんくらいの時間に起きた。同居人の母上が前の日から仕込んでいた「柿の葉ずし」を朝も昼もいただく。
 晩ごはんに同居人が「鰺のたたき・キムチ和え」ほかいくつかつくると言うので、昼過ぎに買い物に同行。夕刻、同居人の弟一家がやってきて、散歩好きの甥っ子と近くを散歩する。スキップしてみせると、跳ねることができないままに、どったんどったんと四股踏みか?と思うような「スキップのまね」をする。おかしい。
 甥っ子にと持参した絵本3冊はなかなか気に入ってもらえたようで、とくに五味太郎の『とまとさんにきをつけて。』は、何度か読んでやると、そのあと自分でページをあっちへこっちへめくり(「紙をめくる」という動作もかなり楽しいらしい)、とまとさんが「ちゅ」としているページで、膝にひろげた本に可をを近づけて、とまとさんに「ちゅー」していた。この本は、「2~3歳児に読んで聞かせると、みんなちゅーしにくる」という噂を聞いていたのだが、この甥っ子の「ちゅー」も自分でページをめくりながら何度か続き、見ていておかしかった。
 夜には「んー、んー」と言いながら、読め読めと何度ももってくる攻撃にあった。
そのくせ、あっちへ立っていったり、うろうろしたり、じっと聞いていないので、「もうしまいじゃ」と本を閉じると、「ん~~~!!」と不満を表明する。声を聞くのがきもちいいのか?もうみんな寝かせてくれという状態のなかで、コドモ一人がいつまでも元気な夜だった。布団に入って、もっていった陶智子の『不美人論』(平凡社新書、2002年)を読んでしまう。

1年

 週末は同居人の里で法事があるため石川行きである。同居人のおばあちゃんの一周忌だ。もう1年たつのかと思ったり、やっと1年と思ったりする。1年前はまだ同居人は入院していた。おばあちゃんも入院されていて、石川と大阪でW入院だったのだ。同居人のご両親も大変だったことと思う。去年の5月25日に同居人は退院し、その報せを聞いてホッとされたのか、翌日の早朝おばあちゃんは容態が急変し亡くなった。あれから1年になるのだ。

 帰宅すると、同居人が「新兵器(むふ)」状態になっていた。これまでは同居人のパソコンをサーバにして、そこから私のパソコンをつないでいたのだが、ルータを買ってきて、私のパソコンも直接つなぐことにしたのだ。ルータをしげしげ眺めて「ほらピコピコしてるぅ」と実にうれしそうである。ケーブルも水色のクロスケーブルではなく、赤いストレートケーブルになった。

 髪が長くなって、髪を洗うのがめんどくさーくなって、ついつい1日のばしにしていたが、さすがに頭がカユイ。ひさびさに髪をがしがし洗い、本読み風呂にて斎藤学の『家族依存症』(新潮文庫)を読んでしまう。はんぶんベンキョウしてる気分になる本であった。表紙には斎藤の名前の隣に「精神科医」と刷ってある。重要なおしるしなんだろうか?カバーの袖にある斎藤の顔写真がかなりコワイ。

はなみず(II)

 しかも涙目になりながらこちらが言うことをせっせとメモしようとするのだ。ここの段落ではこういうことが言いたいのかと思うと、次の段落ではまた違うことが言いたいような表現になっている、さらに次の段落ではこんな限定をつけてこの言葉を使っていて、ということはここが一番の関心か?と悩んでしまう、、、と言っているのに、まったく伝わっていないような、話をした気になれない時間であった。難しいのう。

 帰りに、頼まれていた本が入ったので、父ちゃんちへ届けに寄る。くたっとしてるのでどうしたのかと思ったら、新しいクルマにかえて楽しいらしく、今日も「思いたって」備中松山城付近まで(岡山道賀陽IC~)ドライブしてきたそうだ。近くまで行ってみたものの、道がよくわからず、城は通り過ぎ、Uターンもうまくできず、、、というような情況で往復400キロほど走ったらしく、「日帰りではあかん距離やなあ」とよれよれになっていて、「疲れた」とぼやいていた。それでも新しいクルマにかえて1カ月半ほどで、父ちゃんにしてはかなり走っていて、もう1500キロだという。もう少し暇なら平日のドライブにお供したいところだが、当分むずかしい。まあそれでも父ちゃんが楽しそうにドライブに出ているようで、少し驚いた。先日も伊賀上野へ行った、長浜へも行った、篠山へも行ってきたと言っていたのだ。
 
 晩ご飯は豚の生姜焼き、ナメコと豆腐の味噌汁、トマトと人参とキャベツのサラダ(酸っぱい!)、いただきもののキュウリキムチ。豪勢である。昨晩はさすがに質素すぎて、私も空腹感でなかなか眠れず、同居人も空腹のあまり一度起きて牛乳を飲んでいた。今晩は大丈夫やろ。
 今日買ってきた斎藤学の『家族依存症』(新潮文庫、1999年)を少し読む。佐野眞一『東電OL殺人事件』でちょろっと出てきた本である。「何かの行動への溺れは、一定の人間関係パターンを基盤として始まり、回復もまた人間関係の回復から始まる」と冒頭に記されている。ちょっとクラそうな本。

はなみず(I)

 朝から鼻がむずがゆい。はなみずが間欠的にたれてきて、むずがゆい。なんだか花粉症に悩まされるときのような鼻の奥のかゆみがあって、喉の奥の方もヒリッとして、へんな具合である。
 午前中はデューイの「経験と教育」のテキストを予習、昼から読みあう。デューイは、ロックのように「子どもは白紙でうまれてくる」というわけでもないし、ルソーのように「もってうまれたものが芽が出てふくらんで花が咲く」というわけでもないし、だからといって折衷案というわけでもないらしい。人間がはたらきかけるものがあり、その反作用をうける人間があり、objectiveな条件と主体との相互作用があって、状況はつねに変わっていく、それが続いていく、、というような話が書いてあるようだ。「ようだ」としか言えないのは、デューイの言ってることが掴めた感じがまだしないからである。
 デューイは子どもが育っていくのに必要な経験や条件を見きわめることのできるeducator、というのを想定しているらしい。それがなんだか全知全能の神風というか、一段ちがうところにいて「相互作用」なんざなさそうな風情で、でもeducatorも子どもにとってのobjectiveな条件であり相互作用の相手なんちゃうん--そんなことを思う。「文化遺産」をせっせと分け与えるというeducatorでもなく、ほっといても育つようになってるというわけでもなく、デューイの考えるeducator像がぼんやりとする。educatorはどういうシゴトをするのだろうか。

 午後、読んでくれと頼まれたレジュメを読む。段落がすすむにつれて、何が言いたいのかこっちが大混乱するくらい入り組んでいて読むのがクルシイ。そのことをレジュメを書いた本人に伝えにいくと、涙目になり、半泣きになったので、私はたいへんあせって、全面的に書き直したらというのを引っ込め、とりあえず構成だけでも変えて組み立てなおしたらどうかと述べて、逃げ帰る。行間を読むことを期待されているような気もしたが、書いたものから読みとることが前提なのだからと思う。難しいのう。

給食・学校・散髪(III)

 おもしろいと思ったのは、黒柳徹子を語ったところで挟まれたこんな話。
▽私たちは子どもの頃、数を数えることを教えられると、数字という道具を使って世界を再構成し、数字なしに見ていた世界の風景をたちどころに忘れてしまう。言葉という一見便利そうな道具は、私たちの思考を節約してはくれるが、しかしより素晴らしい思考をもたらしてくれるわけではない。
 普通の人間が辿る数や言葉にたよっている思考は、万人に普遍的な成長ではない。(247ページ)
 
 『アイドル時代の神話』のあと、帰ってきた同居人と買い物に出る。やや質素な晩ご飯のあと、数年前に読んだ島森路子の『広告のヒロインたち』(岩波新書、1998年)を読む。とりあげられたヒロインたちの一部は、小倉が論じたアイドルとも重なっていて、なによりもテレビの時代の広告の話は、やはりテレビというメディアを中心に論じた小倉と重なっていて、同居人の持参品テレビが置かれる前はまるまる7年のテレビなし子生活を送った私は、もうちょっと見ておいたら、もっとこの本はおもしろかったやろうなーと思った。島森が「テレビという、典型像を相対化していくメディア」(19ページ)と書いているところが印象に残る。
 
 風呂掃除をして、水を張って、ずいぶん髪が伸びてキューピーちゃんのような寝癖がつくようになった同居人の散髪。お風呂前に、バリカンで刈り上げる。まだ同居人が入院していたときに、病院で借りたバリカンで刈り上げてから、もう何度目か。

給食・学校・散髪(II)

 火曜はそのK女子大への出稼ぎdayだが、今日はK女子大がなんとか記念の日で休み。しかし来週からは夏休みまでずっと(つまり前期がすむまでずっと)休みなしだから、次回、その次、その次、、、のネタを仕込まなければならぬ。ということで今日は一日籠もって読書。久しぶりに天気がよく、洗濯する。このところ雨や曇りや肌寒い日が続いてすっかり洗濯物がたまっていて、洗濯機を2度まわす。干した先から乾いていきそうな晴れた空がみえる。家で仕事をしようというときは気をつけていないと、ついつい家事に入れ込んでしまう、と洗濯物を干しながら思う。今日は介護に行って同居人も不在である。
 K女子大では「隠れたカリキュラム」をテーマにもう1度やって、そのあとは「ヒロインたちの人生-女性はどう語られているか」という題だけ考えてある。初回の授業時間のあとに書いてもらった感想ではこの「ヒロインたちの人生」がおもしろそうとか興味があるとかと書いた学生が数人いた。しかしまだどんなんにしようか海のものとも山のものとも、、、。
 斎藤美奈子の『あほらし屋の鐘が鳴る』を読んでしまう。時評ネタのほか女性誌分析と読書案内が入っている。とくに女性誌を読み解いてみせるその文章はリズミカルで、講談調に読み上げてもおもしろい。いまの大学生はどんな雑誌を読んでいるのだろうかなア。
 洗濯物を干しおえて、小倉千加子の『アイドル時代の神話』(朝日文芸文庫、1994年)を読み始める。1980~90年代のアイドル現象を評した本、というのだろうか。ナンシー関のテレビ評にも似ているような気がする。この人はこういう人なんですよ、このドラマに出た誰それはこういう役回りで、それを世間はこう受けとめたんですよねえ、といった調子に聞こえる。その口調は斎藤美奈子を読み終えた余韻のためか、最初は乗りにくかった。紋切り型を切っていこうとして、その表現が紋切り型、、、という印象も受けた。もとは三分冊の単行本だったという『アイドル時代の神話』を合本したこの400ページほどの文庫本を読み終わる頃には、“フェミニズム”に持ち込んで話をつくっていく方法にも慣れた。ただし、小倉にとっての“フェミニズム”は“正義とか平等を声高に叫ぶ「清潔」印の「貧困」派”<b>ではない</b>。読んでみたくなったのはサラ・パレツキーの探偵小説(名前だけは知ってるが未読)。

給食・学校・散髪(I)

 今朝ネットで見た新聞で「中学校給食の主食、男女の差をつけ27年 富山市」(朝日新聞)という記事があった。「男女はエネルギー代謝が違う」という理由で、弁当式に配食される米飯の量や色分けされたパックで届くという食パンの厚さが男女で違うのだそうである。
 先週のK女子大の授業のときに書いてもらった「男女の扱いにみられる隠れたカリキュラムの例」には、男子優先の慣行や、男女の役割分け、色分け等々、なんや私の世代と変わらんのやなあと思う話がいろいろとあった。その中に給食について書かれたものもいくつかあった。「男子がお代わりしても何も言われないのに、女子がお代わりすると冷やかされる」とか「女子がお代わりしようとするのはためられわれる雰囲気があった」といった表現に混じって、「男子のほうが給食が多かった」というのがあった。私はお代わりネタと同じで、女子がお代わりしづらくて、結果的に男子のほうがたくさん給食を食べている、ということだと思っていた。もしかしたらそうかもしれないが、この新聞記事を見て、もしかしてほんまに「男子のほうが給食が多かった」んかもしれんなあと思った。記事はこんな中学1年生の声も載せている。
▽ある1年女子は「入学したときは驚いたけど、どっちみち、そんなに食べないから」。「男はたくましくってことだよ」と語る1年男子もいた。

 そして「主食の男女差」の理由については、こう書かれている。
▽市教委は、長年の慣行であることと、男女によるエネルギー代謝は違うことなどを区別の理由としている。「男女差別のつもりはない」という。

 エネルギー代謝の男女差と、エネルギー代謝の個人差と、どっちが大きいのだろうなあと考えた。私が富山市の中学生だったら、お腹が減ってお腹が減って、授業に身が入らなかったかもしれぬ。私が通った中学校は給食はなく、私は「最盛期」にはご飯だけ詰めた弁当箱とおかずだけ詰めた弁当箱の2つを持って(その弁当箱の大きさは周囲を参照するに女子並みではなくて男子並みであった--後の高校時代には「同じ弁当箱」を持参していた男子を目撃するに至る)、それだけでは足りずに購買でパンを2つ買って食べていた。富山市の食欲旺盛かつエネルギー代謝の大きい女子中学生は、どうしているんだろうなあ。食の細い男子中学生もいるだろうになあ、これで「残さず食べるよう指導」なんかあったら、きつかろうなア。

寝不足(II)

 こないだの『批評の事情』を読んでどうしてもまた斎藤美奈子のこれを読みたくなったのだ。そのネット古本屋の店内を検索すると、これも文庫になるのを待とう待とうと思っていた『旅する巨人』と、絶版になっている干刈あがたの本があった。それで3冊を注文。美本で満足。
 帰ってから『あほらし屋の鐘が鳴る』(1999年)を開く。笑える。何度読んでも笑える。ノリがいいッス。

 月曜日はテレビっ子の日。NHKで「クローズアップ現代」→「地球!ふしぎ大自然」→「私の青空2002」と続く。惨事ストレスの話と、東京のカラス(ハシブトガラスが増えた)の話と、事実上の妻と恋人の話。とくに「私の青空2002」は次で最終回というのだが、今日の分を見ても、次回予告を見ても、どうなるねん!! 全然わからん。同居人と「どうなるんや!!」と騒ぐ。
 そして『あほらし屋の鐘が鳴る』でゲラゲラ笑う夜。
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第37回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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