読んだり、書いたり、編んだり 

2月に読んだ本

2月に読んだ(読み終わった)本のリスト:
○浅野千恵『女はなぜやせようとするのか-摂食障害とジェンダー』勁草書房
○木村晋介『キムラ弁護士が駈けてゆく 赤裸々な私生活と「司法試験の傾向と対策」』角川文庫
○倉阪鬼一郎『活字狂想曲 怪奇作家の長すぎた会社の日々』時事通信社
○赤星たみこ『はいッ!ガンを治した赤星です』扶桑社文庫
○堀口雅子『35歳からの女のからだノート』新潮OH!文庫
○中村和恵『降ります さよならオンナの宿題』平凡社
○岸本葉子、横田濱夫『「ひとり暮らし」の人生設計 中年シングルだってイイじゃない!』新潮OH!文庫
○森川那智子『みんな、やせることに失敗している』集英社文庫
○向井承子『女たちの同窓会 23年目のクラスメイトと女の現在』ちくま文庫
○小谷敏『若者たちの変貌 世代をめぐる社会学的物語』世界思想社
○呉智英『ホントの話 誰も語らなかった現代社会学<全十八講>』小学館
○荒木晶子、向後千春、筒井洋一『自己表現力の教室 大学で教える「話し方」「書き方」』情報センター出版局
○斎藤美奈子『文章読本さん江』筑摩書房
○玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安 揺れる若年の現在』中央公論新社
○鶴見俊輔と中学生たち『きまりって何?』晶文社
○岩間夏樹『戦後若者文化の光芒 団塊・新人類・団塊ジュニアの軌跡』日本経済新聞社
○中村和恵『キミハドコニイルノ』彩流社
○石井政之『迷いの体 ボディイメージの揺らぎと生きる』三輪書店
○月刊アクロス編集室『大いなる迷走 団塊世代さまよいの歴史と現在』PARCO出版
○佐野眞一『人を覗にいく』ちくま文庫
○中山信如『古本屋おやじ 観た、読んだ、書いた』ちくま文庫
○高見澤潤子『のらくろひとりぼっち 夫・田河水泡と共に歩んで』光人社NF文庫
○三好春樹『ブリコラージュとしての介護』雲母書房
○カタログハウス編『大正時代の身の上相談』ちくま文庫
○ウォーレス、ポール(高橋健次訳)『人口ピラミッドがひっくり返るとき 高齢化社会の経済新ルール』草思社
○藤原和博『味方をふやす技術』ちくま文庫
○ミード、マーガレット(太田和子訳)『地球時代の文化論 文化とコミットメント』東京大学出版会

2月は逃げる

 明日から3月、早いものである。朝から傘がいるくらい雨が降っていて、なまあたたかい。
 昨日のつづきで、データの整理と、レジュメづくりをする。 
 昼過ぎ、注文していた本をひきとりにいったときに、店頭にあったのを1冊一緒に買う。今日買ったのは、3冊。 

 佐野眞一『宮本常一が見た日本』NHK出版
 船曳建夫『柳田国男』筑摩書房
 佐藤郁哉『フィールドワークの技法』新曜社

 佐野の本は、『旅する巨人』(文藝春秋)の続編だという文句につられたのと、どうも品切れの気配があったのとで、注文した。これを買ったら、やはり『旅する巨人』も買おうかなア。文春が文庫に入れてくれないかと待っているのだが、まだやろか。『巨怪伝』が文庫になるまで6年、それなら『旅する巨人』は今年文庫化?!
 船曳の本は、先日の試験監督のときに国語で出題されていたのを見て、ちょっと読みたくなって注文した。快速リーディングというシリーズの1冊で、柳田のテキストに船曳の解説のようなのが挟まった構成。ぱらぱらっと見たところ、なかなかおもしろそう。
 そして店頭で見かけて佐藤の本を買った。これの前編にあたる『フィールドワーク』(新曜社)もすでにもっているが、こんどの本は”フィールドワークのフィールドワーク”と銘打たれていて、ベンキョウになりそう。

 父ちゃんちへ本(『文章読本さん江』)を届け、帰宅。久しぶりに「週刊文春」が入荷していて、久々に坪内祐三の連載「文庫本を狙え!」を読む。2月に出たばかりの本を面白かったと書いているあたり、さりげなくスゴイ。丸山眞男と古在由重の『一哲学徒の苦難の道』(岩波現代文庫)は、ちょっと買いたくなる。

心の命

 朝は薄曇りで、天気予報は雨が降るかもと言っていたけれど、晴れてくるのかなと思っていた。しかし、天気予報もあたるもので、帰りは雨がぽつぽつと降った。
 今日はちょっと確かめたいデータがあって、昨晩うちの古パソのハードから引っ張り出したデータファイルを職場でプログラムとかませて走らせてみた。出てきた集計表がじつに怪しい。2500人ほどを対象にした調査データなのに、なぜか5000ケース以上になって出てくる。当然のことながら、集計結果はめちゃくちゃである。いったい何がどうなっているのか分からず、何度かやりなおしたが、ファイルが壊れていますとアラートが出たり、データファイルの途中からぶっちぎれましたとメッセージが出たり、もう何が何やら。昼頃まであれこれファイルをさわってみて、修復の可能性をつかむも、あとひといきのところでフリーズしてみたり、またやり直し。またやり直し。今日は昼ご飯もパソコンの前で食べるはめになる。いくつか基本的な集計表を出したかっただけだというのに、結局ほぼ一日をつぶし、よれよれになる。不幸中の幸いで、ファイルは修復でき、集計表の出力まではこぎつける。

 帰りは返却期限の本を抱えて、大急ぎでN図書館へ向かう。借りていた本を返し、書庫にある本が出てくるのを待っている間に、閉館前の蛍の光が流れはじめる。書庫から出してもらったマーガレット・ミードの本を2冊と、新着コーナーで見かけた中山千夏の本を1冊借りた。

 職場の図書室で余りの「週刊読書人」をときどきもらう。昨日もらってきた2月8日号の書評で、これは読んでみたいと思い、帰ってから1冊注文。近藤道生の『平心庵日記』(角川書店)で、評者は鴨下信一である。その冒頭部分がよかった。

▽日本人の命はすこし前まで、今よりはずっと長かった。生物学的な寿命のことではない。
 子が親のことを知りたがる、親は口下手ながらポツリポツリと話す。以前ならごく普通のことである。しかし、親の話を聞いている子は、この時、たしかに親の代までさかのぼって生きているのだ。親は、そのまた親の時代のことまでは話すから、結局この<心の命>は都合三代、百年をゆうに越すまで伸びることになる。親子の会話が途絶して、最近の日本人はひどく短命になった。(週刊読書人、2月8日号、7面)

 おぼえているあいだに、母ちゃんの話やばーちゃんの話を書き留めておいたほうがいいかな、と思う。

想像力と年の功

 朝から曇り空、ちらっと雨も降ったらしい。気温は高めで、セーターを着ていると、ちょっとあつすぎるくらいだった。
 ミードの『地球時代の文化論』(東京大学出版会、1981年、org.1970 & 1978)を読み終える。明日が返却期限なので、付箋がびらびらになったところをもう一度めくって、書き抜き帖をつくる。その一節:

▽今でも、若者に向かって大人はこう言うかもしれない、「わたしが若かったことはあるけど、おまえさんには年寄りの経験なんてないのだから」。すると若者はこう答えることができる、「あなたが若かったことはあるでしょうけど、今の世の中で若かったわけじゃないし、今さら若くもなれませんしね」。これこそ、開拓者とその子供たちによくある経験である。この意味からすれば、一九四〇年代以前に生まれ育ったわたしたちはみな、今日の文化のなかでは時間的な意味での移民なのだ。わたしたちが教えこまれた技術や価値観は、一代目の開拓者の場合とおなじように、この新しい時代にはごく一部しか通用しない。にもかかわらず、わたしたちは年長者として今もなお権力を行使し、社会を支配している。そして母国から移住した開拓移民とおなじように、結局は子供も自分たちのようになるのだという考えから抜けきれないでいる。(81ページ)

 経験の強みをもって有無をいわせぬ物言いをする場面を見聞きすることは、たくさんあるように思う。しかし、「今の世の中で若かったわけじゃないですしね」。年寄りにはこう言うとして、”経験の強み”を持ち出される場面は、それだけではない。「経験のない者には分からない」式に言われてしまうと、(人間のもつ想像力をナメてやがる)と思う私。

ワークシェアリング・ゾウアザラシ(II)

 テレビをつけているとそのまま「地球・ふしぎ大百科」が始まる。今日は、南米パタゴニアのゾウアザラシの話。アザラシの類では世界でいちばんでかいやつだそうで、雄の大きいのになると体重3トンもあるらしい。闘って闘って勝った”最強の”雄が、雌をしたがえて「ハーレム」を形成する。独占する雌の数は100頭以上だという。「負け雄はどこにいるんかねえ。雄はみんな闘うんかねえ。どっかに1頭くらい、浜辺でデロ~ンと寝てるのはおらんのかねえ。」見ていると、なんだかものすごい競争社会なのである。それも”強い遺伝子を残す”ため。ハーレムを乗っ取ろうとする雄と撃退しようとする雄との闘いは血みどろである。もう一つびっくりしたのは、ハーレムで生まれたゾウアザラシの子どもたちが集団で海へ出て生きてゆく練習をしているところへ、シャチがやってきて、1頭いただいて食ってしまう場面。シャチは浜辺まであがってきて、子どもを1頭かっさらっていった。あんなところまで来るのか!驚いた。

 とにかく昨晩寝た気がしないので、一風呂あびて早めに寝よう、、、、と、かるーく本読み風呂で1冊。藤原和博の[よのなか]の歩き方シリーズ3冊目、『味方をふやす技術』(ちくま文庫、2002年)を、さくっと読む。「エネルギーを奪う人」から今すぐ逃げよ!が、なかなか面白かった。いるいる、こんな人。
 あとはまぶたが落ちるまで、布団でマーガレット・ミードの本の続きを読もう。

ワークシェアリング・ゾウアザラシ(I)

 昨日昼まで寝たのがたたって、今日は早いぞ!と早く寝たのに目がランランして寝付けず、眠った気がしないまま今朝の目覚ましがなった。ねむい。ねむーい。
 今日は朝から夕方までずっと試験監督だった。へんに狭い教室が試験室に割り当てられていたために、”監督”するにも”問題配布”するにも”答案回収”するにも、狭い通路(に受験生の大きな荷物がどかんと置かれ)をよたよたと歩く羽目になる。同じ教室で試験監督を務めた同僚さんは、答案を回収したところで(受験番号を確認するためにかけた老眼鏡によって、こんどは足元がよく見えなくなるのだとのことだった)ある受験生の鞄につまづいて、あやうく答案を撒き散らすところだった。1時間半かける3教科の試験時間に足すことの配布回収時間足すことの休憩時間足すことの昼休み・・・受験生ほどのブドウ糖消費はないものの、ほどよく暖房のきいた教室で眠気に耐えつつ、監督業務を遂行するのはかなりキツかった。ひどく疲れた。

 晩ご飯を食べながら、つけたままだったテレビのニュースが終わり、久々にクローズアップ現代を見る。オリンピックでテレビがうるさいので、最近つけないようにしていたのだ。今日のテーマは「ワークシェアリングが雇用を生んだ」というオランダの話。字面だけは同じでも、解雇のかわりに働く時間と給料が減ってもがまんするからクビは切らないでという日本の”ワークシェアリング”とは発想が違う。みんなでボチボチ稼いで、ボチボチの生活しようや、という話。
 「一人フルタイマーはキツイから、二人でパートタイマーになって、いまの収入分をボチボチ稼げたらいいよなア」と同居人と話す。「そやなかったら、今のフルタイムの分、週に半分ずつ出るってので、二人でワークシェアリングできたらいいけどなア。」夢想である。
 いまの日本ではフルタイマーとパートタイマーは字義どおりの「時間の長短」の区別ではなくて、まさに”身分”の差になっている。ええ歳になってくると、時給だけの発想ではつらい。社保完でないとね。拘束時間はいまの半分、給料もいまの半分というような、そんな身分にあこがれる。”現実”は、拘束時間を半分にすると、給料は4分の1くらいになるらしい。それもちょっとな、、、

だらくモード(II)

 さいしょの章だけ読みかけていたウォーレスの『人口ピラミッドがひっくり返るとき』(草思社、2001年)を最後まで読む。
 本文は、どうもよく分からないところもあったが(訳のせい?)、読み終えて、さいごに訳者が日本のものを掲げておいたという「年齢階級別人口」の3つのグラフ--1930年、1965年、2000年の、それぞれの年における日本の人口の年齢別構成を見ると、これがいちばん雄弁だなと思われた。1930年は、年齢のもっとも若いところが最多で、75歳以上が最小という人口構成になっていて、まさに「ピラミッド」型だった。こういう時代と、中年より上の年齢層が大きくせりだし、もっとも若いところが最小に近い人口構成をもつ今と、そりゃあ変わるし、変わらざるをえないだろうし、変えなければならないところもあるだろう、とつくづく思った。
 
 図書館で借りているミードの『地球時代の文化論』をまた少し読む。過去志向の文化、現代志向の文化、未来志向の文化と論じていくこの本は、ウォーレスの本とセットで読むとおもしろそうなのだが、、、、、

だらくモード(I)

 起きたら昼。結局外出もせず、起きたときのまま、2人で「だらくモード」にて過ごす。昼ご飯(トマトソースのスパゲティ・バジル添え)製作は同居人、晩ご飯(焼き飯と味噌汁)製作は私。しかし、「だらくモードのワタシたち、墜ちてゆくワタシたち」と同居人に言われると、「明日からまた私は仕事であり、400連休と一緒にせんとってくれ」と思うのであった。

 昨晩少しだけ読みかけたカタログハウス編『大正時代の身の上相談』(ちくま文庫、2002年)を読む。大正三年(つまり1914年)に読売新聞紙上に「身の上相談」が登場した。連日1、2件ずつ掲載された「相談」のなかから、「いかにも大正人らしい相談」と「現代を先取りしたきわめて普遍的な悩み」を中心に選んで編まれたのがこの本である。しかも、平成時代のコメント(カタログハウスの人だろうか、どこにも素性は書いていないが内容から推すに、30代半ばか40代と思しき女性が、収録された「大正時代の相談と答え」にコメントをつけている)がついていて、このコメントがややうるさい部分はあるものの、あまりにも婉曲でまわりくどい大正時代の表現についての解説にもなっている。さらに、大正時代の小説や随筆等から採られた数行がパートごとに1ページ入っていて、大正時代の雰囲気を伝える。例えばこんなのが採録されている。

▽人生とは畢竟運命の玩具箱だ。
 人間とはその玩具箱に投げ込まれた人形だ。
   有島武郎『迷路』--大正七年 (125ページ)

▽なる堪忍はだれもする。
 ならぬ堪忍するが堪忍というのはもっともである。
 が堪忍袋に癇癪玉が収められて居らなくてはならぬ。
 癇癪玉のない堪忍袋は意気地なしの荷物である。
   三宅雪嶺『世の中』--大正三年 (257ページ)
 
 巻末解説の小谷野敦が「大正時代というのは、恋愛や結婚に関して、現代の基礎となる考え方が固まった時期であると言ってよかろう」と書いている。ああそうだろうなというくらい、収録されている「お悩み」はおもしろい。そして「人生相談なるものは、その時代のその国の、平均的人間の道徳観、人生観を映す鏡になる」。読売新聞では今でも「人生案内」という相談の場所がある。ときどき読むのもそれなりにおもしろいのだが、これだけまとまったものを読むとある時代に生きた人たちのものの見方、考え方がざくっと分かるような気がする。

笑いすぎて、涙(III)

 WHOはこんな障害分類をやってきた。つまり
   I=Inpairment(機能障害)
   D=Disability(能力障害)
   H=Handicaps(社会的不利)

 三好は、近代的な個体還元論に依拠しているところがまず問題だという。”個体”が発想のベースにあるから、これらIDHへの対応もやはり”個体”の問題として考えられてしまうのがまずいというのだ。足が利かなくなりました(機能障害)に対しては、リハビリで足を可能な限り動かせるようにしましょうになる。箸でご飯が食べられなくなりました(能力障害)に対しては、お箸を使えるようにの訓練があてがわれる。

▽H(社会的不利)もまた同様である。この一見、個体から離れた社会的位相をもったかに思える言葉も、社会をここの障害者とはかけ離れたところに前提的に存在させ、その社会と障害者個人とを対立するものとして捉えている。従って、個人を社会の側に適応させるという、「ウルトラ能力主義」(障害者に健常者以上の能力を!)になるか、逆に「社会を変えよう!」と叫ぶ社会派による「バリアフリー運動」や、政治理念への障害者の囲い込みになるといった結果しか生んでこなかった。(104ページ)

 さらによろしくないことに、これはI→D→Hという因果関係として捉えられ、社会的不利の原因は能力障害、そのモトをただせば機能障害という発想から、障害者へのアプローチはますます訓練第一主義になってしまった。いじわるく言えば「健常者並みに動くカラダをもてば、DisabilityもHandicapsも乗り越えられる!」ということだ。ある一定の時期と状態ならともかく、慢性疾患をもっていたり、これ以上は曲がらない関節を、どないする気じゃ。

 行きたいところへ行こうとするココロ、食べたいものを食べようとするココロこそが、カラダを動かすのだ、ということである。これを箸で食べたいという希望があれば、箸を使えるよう本人も努力するだろう。これを食べたいのだというヨクボウの前には、箸がうまくいかなければ匙でもフォークでも、食べることができればいいのだ。食べたいものも、歩いて行きたいところもないのに、リハビリは辛い(だろう)。

 母ちゃんは、辛気くさいリハビリ(ひもにビーズを通すとか粘土をこねる)よりもドライブに出て、おいしいものを食べるのがすきだった。もっとつきあいたかったと、最後の2年を離れて住んでいた私は思う。 
  

笑いすぎて、涙(II)

 著者がもう八十に手が届こうという頃に書いたものだという回想の分を割り引いても、「野心だけがばかにあって」とこの世代の女性が自分のことを書き記すものは、ひじょうに珍しい印象を受けた。著者とほぼ同い歳の林芙美子(1903年生)の『放浪記』なんぞを久々に読み返したくなった。
 
 もうひとつ興味をもったのは、「拠りどころ」と題された四章で、T(田河水泡)の、神との関係などが書かれている。「価値というのものは、相対的なものだから、絶対的価値というものはみとめない」と、神否定の姿勢をTはもっていた。けれども、著者が教会へ通うことを否定することなく、キリスト教については関心をもっていたらしい。あるときの、Tと牧師とのやりとりがおもしろい。

▽あるとき、Tは、ぶしつけに、
「先生は、神様がわかっているのですか?」
 と牧師にきいた。牧師は正直に、率直に答えてくれた。
「いいえ、わかっていません。神様というものは、だれにも、わからないものです。人間が認識したり、了解する力の及ばない方なんです。ただ私たちは、わからないけれど、そして、この目でみることはできないけれど、その存在を、その力を、信じているんです」
 これをきいて、Tはほっと安心した。
 Tは、信仰者というものは、みんな神様をよく理解し、どういうものだか、ちゃんと認識しているもの、と思いこんでいたのであった。自分では、どうしても神がわからない、認識できないから、絶望し、なやんでいたのである。(156ページ)

***
 日暮れまで本を読んですごし、晩ご飯は近所のカレー屋へ入ってみる。モッツァレラチーズカレーというのを頼んでみたら、チーズがのっているだけでなく、揚げた茄子やカボチャ、かるく炒めたタマネギ、ピーマン、人参、キノコ、さらにトマトソースが散らされて、見た目にもゴーカで、うまかった。

 帰ってから、三好春樹の『ブリコラージュとしての介護』(雲母書房、2001年)を読む。初出一覧によると、9割方が「Bricolage」誌に掲載されたものである。定期購読してるのに本まで買ってしまった!と思ったが、読んでみると、”再読感”がほとんどない。「障害の定義をもっと変えるべきだ」って、「Bricolage」に載ってたっけと思ったくらいである。これはWHO(世界保健機構)の”障害”の定義分類の仕方に異議あり!と書いた文章で、図もあって、よくわかる。

笑いすぎて、涙(I)

 昨晩は、しまいかけの『人を覗にいく』を読み終えて就寝。
 今日は朝から早起きの同居人に電灯を点けられて、布団のなかでメガネもかけずに中山信如の『古本屋おやじ』(ちくま文庫、2002年)を読み始める(こんなことばかりしているから眼がなお悪くなるのであろう)。これが爆笑もので、時折とまらないくらい笑わせてくれる。とくに、誤植がらみの話と女房の話が可笑しい。朝ご飯のあと、さらに布団にもたれて至福の本読み。ケタケタ笑い続け、なんどか涙をふいて、読み終える。

***
 簡易なる昼ご飯のあと、高見澤潤子の『のらくろひとりぼっち』(光人社NF文庫、1996年)を読む。坪内祐三の『シブい本』に出てきて(この本は表紙にのらくろが使われていた)、メモしていた本だった。私はなぜか品切れだか絶版だと思い込んで図書館で借りるしかないと思っていたのだが、じつはまだまだ現役の本で、先日買ったのである。サブタイトルのとおり「夫・田河水泡と共に歩んで」の記である。

 読みながら、ずいぶん年輩のひとの話だと思い、読み終えてから調べてみたら、著者は1904(明治37)年の生まれ、その兄(小林秀雄)が1902(明治35年)の生まれ、田河水泡(本文ではTと記される)は前世紀ではなくさらに前の世紀の人で、1899(明治32)年の生まれだ。ときどきふしぎなほどの説教くささがあるが、このお歳ならこんなものだろう。田河水泡も売れ始めたばかり、小林秀雄も文壇によじのぼりかけた頃の話は、両者ともすでに”評価の定まった”印象が強くある私には、そらみんな若いときがあるよなアとは思うもののフシギな話に聞こえる。さらに長谷川町子(1920年生)が田河水泡の弟子にあたるというので、そりゃあ百年近く前に生まれた人の話だからなアと思う。

 私がおもしろいと思ったのは、この明治生まれの著者の若い頃の話である。1904年生まれといえば、幸田文や佐多稲子と同い歳なのだ。

▽私は、あまり才能も能力もないくせに、少女時代から、野心だけがばかにあって、絵がうまいね、などといわれるとすぐ絵描きになろうと思ったり、作文がほめられれば、小説家になりたいと思ったり、テニスが面白くなれば、テニスのチャンピオンになってみようと思ったりした。何か一つのものにうちこんで、やりとげてみたい気もちはあったのだが、どれが本当に自分がやれるものであるか、わからなかったのである。(88ページ)

ボディイメージ?(II)

 鏡に映った「自分」が分からない時期のコドモ、というのを思い浮かべてみる。こういうコドモには「ボディイメージ」はない?
 奇しくも全盲の石川准のことばが巻末に引かれている。ボディイメージというのは心象とか心理像だというけれど、石井も「どう見ているか」と書くように視覚に重きが置かれた話のようだ。例えば、石川准のボディイメージ?見られっぱなし?相互の関係性?

 ***
 今朝は雨の降りそうな空だったが、昼から晴れてきた。気温は高めで、すこし薄着で出勤した。今日も眠い。1週間過ぎるのがひどく速く感じられた今週。来週末はもう3月ではないか(びっくり)。
 昼休みに弁当をたべながら、佐野眞一の『人を覗にいく』を読む。もう半分をすぎて、終盤に近づいている。
 帰りに、父ちゃんから頼まれていた本を2冊、届けに寄って、広島のおばちゃんから送られてきた八朔をたくさん分けてもらって帰宅。
 
 月刊アクロス編集室『大いなる迷走』(PARCO出版、1989年)は、「団塊世代の物理的かつ心理的な漂流と迷走の内実を跡づけ」ようとしたものだという。団塊世代、全共闘世代、ニューファミリー世代、ベビーブーマー等々、この”大量”の集団の呼び名はいろいろとある。既存の団塊世代論に与しないとわざわざことわったこの本で私がおもしろかったのは、冒頭から「国勢調査」のデータを用いて、まさに団塊世代の「物理的な」動きを示したところだった。団塊世代は地方から東京への集中の後、千葉・埼玉に流出した。1950年、1970年、1985年というそれぞれの年に、各都道府県人口に対して団塊世代がどれだけの比率を占めていたかのグラフは、団塊世代の人口を「送り出した」地方と「受け入れた」地方とを明瞭に示す。
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第37回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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