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読んだり、書いたり、編んだり 

ボディイメージ?(I)

 昨日のつづき。「ボディイメージ」について、石井が書いているところを抜いてみる。

▽ボディイメージとは、わかりやすく言うと<自分の体に対する心理像><自分の体をどのように自分は見ているのか。自分の体は他人にどのように見られているのか>という概念である。・・・
 自分の身長、体重、体型がどんなものかだいたい知っている。けれども、他者からどのように見られているのか、そればかりはわからない。だから、他人から自分はどう見られているのか、ということがわかる時、人は関心を寄せないではいられない。・・・
 誰でも心の中に、自分の体についてのイメージを持っている。これがボディイメージだ。それは五感のようなさまざまな知覚をもとにつくりあげられている。自分はその体をどう見ているのか、というボディイメージと、他人は自分の体をどう見ているのか、というボディイメージは、異なる。人はそのイメージのギャップを比較しながら生きているのだ。
 だが、そのギャップが絶望的なほど深くて大きい時、人はどうすればいいのだろうか。
 <美しくない>というボディイメージにとらわれたり、<醜い(劣った)体を持っている>と社会から烙印を押された人はどのような心理状態で生活しているのだろうか。(17-18ページ)

▽ボディイメージは、自分がどのように見られ、相手がどのように自分を見るか、という相互の関係性の問題である。(49ページ)

▽ボディイメージは比較する<まなざし>から生まれる。他者がその人の体を見つめて比較して感じるイメージとその人が他者の体と比較して感じるイメージがぶつかり合う。このふたつのイメージに残酷なほど大きなギャップがある時、その人は苦しむ。あるいは、他者も自分自身もその体がひどく<醜い>と認めざるを得ないとき、その人は絶望する。(241ページ)

 「自分の体を、自分がどう見ているか」-これは分かる。
 「自分の体を、他人がどう見ているか」-これもたぶん分かる。→「自分の体を、人がどう見ているか【を、自分がどう受けとめるか】」ということ???
 「ボディイメージは、比べようとするココロから生まれる」-何となく分かる。

 しかし、3つを並べてみると、ぐるぐるまわっているようで、れれれのれーになってしまう。しかも「相互の」(ということは一方的なものではなくて、自分と相手と両方向きの)関係性のモンダイだという、、、、、

眠い(II)

▽わたしたちは見えるものではなく見たいものを見るが、見たいものとは多くの場合、見させられているものであると思う。(29ページ)

 『降ります』並みのおもしろさ、とくにIV章の「王さまのオオサカ」には笑った。

 風呂上がりに、『迷いの体』の残りを読んでしまう。「ボディイメージ」、、、、、

眠い(I)

 昨日も今日もやたら眠たい。昨晩は眠さのあまり、さっさと歯磨きをして、布団に中村和恵の『ボクハドコニイルノ』(彩流社、1998年)を持ち込んでとろとろと愉しみ、まぶたがぐぐぐぅぅっと落ちたところで本を置いて寝た。明け方、空腹感で目が覚める。眠気を押しのけるほどではなく、しかし眠気がまったく勝つわけでもなく、ゆめうつつで朝になる。
 一昨日はコートを着てマフラーをぐるぐる巻いていても寒い寒い寒いと声に出たほどだったが、昨日も今日もぽかぽかと陽がさして暖かい。とはいっても暖房なしでOKというほどではない。とにかく眠く、昨日も今日も集中力が続かない。あの、いまの半分くらいの歳だった頃の、オヤに叱られたほどの没頭はもうできないやろか。どうやろか。本を読みふけるあまり、なーんも聞こえないまま、気が付くとオヤが「よんでも来ない」とか「なんべんもよんだヤロ」と怒っているのである。なつかしや。
 
 今日は仕事を忘れようと、借りてきた石井政之の『迷いの体』(三輪書店、2001年)を読んでみる。醜形恐怖というのは聞いたことがあったけれど、男性のほうが女性より高い率で醜形恐怖に悩む、それは精神科医のなかでは常識だ、というのを読んで、ふ~んそうなんや、と思う。女性は化粧やファッションで”美しさ”をコントロールできるからではないかという解釈が書いてある。サブタイトルにもある「ボディイメージ」というのが掴みづらい。自分自身がもっている「ボディイメージ」と、他者が(自分に対して)持つ「ボディイメージ」と、そのズレやギャップが、、、、、云々とも書いてあるようなのだが、その「ボディイメージ」は他者と自分とを<比べる>ことで生じるものだとも書いてある。

 本読み風呂では、中村和恵の続きを読んでしまう。
▽より優れている、正統であると思いこまされているものから自分をひき剥がしていく作業は、見当違いな方向に自分を連れていくように思え、不安をかき立てられるのだけれど、どこかで開き直って自信がないまま自己肯定しないと自意識過剰に潰されてしまう。借りものの風景から始めてしだいに足元の大地に近づいていったひとびとの足跡は、わたしにとっていろんな意味で励ましだった。(146-147ページ)

寒い

 昨晩雪が舞っていただけあって冷え込んだ一日であった。とにかく寒かった。雨か雪かわからないようなのが断続的に降っていた。職場に届いた郵便物、宛名は私なのに、なかの書面の宛名がちがっていた。送った人はたいへんやろうなあ。

 帰ってきてからポール・ウォーレスの『人口ピラミッドがひっくり返るとき』(草思社、2001年)を少し読み、その後たらたらと暖まるための本読み風呂で佐野眞一の『人を覗(み)にいく』(ちくま文庫、2002年)を途中まで読む。昨日買った4冊のちくま文庫のうちの1冊。筑摩書房の挟み込みの新刊案内(『文章読本さん江』に入っていたもの)で見るまで、この本のタイトルは『人を覗(のぞ)きにいく』だと思い込んでいた。表紙の「覗」の字に「み」とルビが重ねてあった。人物ルポである。目次に並ぶ佐野に「捉えられた人物」たちは、男ばかりだ。もとは「アエラ」(あのしょーもない駄洒落コピーを連発するアエラ)の連載。「現代の肖像」ではシンスゴなど女性も見たことがあるから(別の書き手によるもの)、人選は佐野の趣味?他の書き手が書いた回がどうなのかは分からないが、佐野は「現代の肖像」を書くにあたり、それぞれの人物と「断続的に五ヶ月間」つきあうような取材を続けているらしい。文庫本で12~13ページの分量の人物ルポ。

 父ちゃんから珍しくメールが届き、『文章読本さん江』を所望している。私がすでに買って読んでいるのを知らないようだが、すぐにでも届けることにしよう。父ちゃんはこの本をどう読むのか、興味津々。

嘘のデータ?!

 晴れた日だったはずが、昼過ぎ外へ出たら、雨が降ったあとがあった。夜になり「雪が舞ってる」とタバコを吸いに出た同居人の報告。
 午後、むかし使った調査データの洗いなおしをしていたら、一部のデータがどうもおかしい。何度計算しても、以前使った結果と合わない。自分でやったことなので、人に訊くわけにもいかず、計算方法を勘違いしていたのか?(→そんなことはない)データそのものがおかしい?(→あっている)誤差の範囲?(→データの正負もひっくり返ってとにかく無茶苦茶)・・・・・(なんでーなんでーどないなってんのやー)半泣きである。しかも一部分だけがおかしい。そのほかは、むかし使ったのとバッチリ同じ結果が出る。
 計算プログラムをしつこく見直し、1段階ずつ結果を確かめ、、、、、、<font size=5>わかった!</font>
 二つのミス(というか大ボケ)を発見。一つは、データの重み付けを変えるための再コードを忘れていたこと。一つは、欠損値の処理(無回答データの取り出しなど)を忘れていたこと。この二つの手順をふんで、ようやく見覚えのある結果にたどりつけた。<font size=5>よかった!</font> 1時間余りのあいだ(むかし嘘のデータを使ってしまった?!)とおそろしくゾクゾクした。
 今日は岩間夏樹の『戦後若者文化の光芒』(日本経済新聞社、1995年)を読む。いちど読んだ本だが、再び読んでもなかなかおもしろかった。しいていえば”世代論”の本である。
 生まれた年の区切りでいえば、うちの父ちゃんは「プレ団塊」「戦後育ち」世代になる(昭和一桁すれすれ)。しかし、この本で「団塊の世代」の特徴を述べた部分を読んでいると「父ちゃん!!」という気分になるのだった。

▽団塊世代は、モノにこだわり、何か一つ理屈をつける習性は今なお失われていない。かつてのように、旧世代を否定するニュアンス--今や彼ら自身が旧世代化しつつある--こそ薄れたが、それでも「マスプロ商品嫌い」「新し物好き」といったところに彼らの面目躍如たるものがある。(52ページ)

 「お仕着せ」を嫌い、自分で「工夫」するのが好き(例:自作カレンダー)。「流行り物」は嫌いだが、「新しい物」には飛びつく(例:水洗いできる髭剃り初代→水洗いできる髭剃り2代め→アルコール消毒できる髭剃り)。父ちゃんを思いだして、これを読みながら笑ってしまった。

文は人なり・文は服なり(II)

 けれども、彼らは肝心なことを忘れている。衣服(文章)は「礼の形」である前に、年齢、性別、役割、階級、地域、財力などに、じつは深く規定されるということである。(253-254ページ)

 文章は「服」なのだから、TPOにあわせて着替えればよいのだ。いつどこでどんな「服」がふさわしいか、それこそは「自分」で決めることなのだ。 

 昼ご飯をすませた後、あともう少しだった玄田有史の『仕事のなかの曖昧な不安』を読んでしまう。「曖昧な不安」とは何なのかということについては、タイトルに使っているわりには平凡なことを述べている。いわく「一体何がどうなるのか、よくわからない」「ワケのわからない不確実性」といったもの。が、この本はむしろ、若年層の「働き方、働くことへのスタンス」についての”通説”をほじくって「違うヤロ」とやったところが面白いのだと思う。この、通説が語っていることは実はそうではないということがほとんど認識されていない、と玄田は指摘している。そこに読者がどれだけの説得力を感じられるか、どうか。
 
 晩ご飯は近所の友と一緒に食べることにした。待ち合わせて定食屋に入る。ご飯を食べてから、定食屋の隣の本屋をしばらく見てまわって、帰宅。
 本読み風呂で、これも途中まで読んでいた「みんなで考えよう」シリーズの2冊目、鶴見俊輔と中学生たちによる『きまりって何?』(晶文社、2002年)を読み終える。「中学生らしさ」ということをしゃべっている子がいた。
▽<b>マイコ</b> 服装についてなんですが、よく先生が使うことばには、「中学生らしくてかわいい服をきなさい」があるんですよ。わたし、その「中学生らしく」っていうことばがきらいで、先生のいう「中学生らしく」って何なのかと思うんです。・・・(72ページ)

 「中学生らしい」なんたら(髪型とか服装)ということが、私の通った中学校の生徒手帳にもいくつか書かれていた。ひねくれ者の私は、コドモなりの3段論法で、
  
 ・中学生は中学生らしい服装をしなければならない
 ・私は中学生である
 ・私らしい服装は中学生らしい服装である

などと考えていた。このマイコさんの学校では「中学生らしいかわいい服装」と”かわいい”というのが入っていて、難しそうやな~と思う。
 そしてまた明日から仕事日である。

文は人なり・文は服なり(I)

 雨降りで、くらく寒そうな空のなか散歩に出る気も起きず、ごろごろと家のなかで過ごす。斎藤美奈子の『文章読本さん江』を読んでしまう。後半は、文章を「うまく書く」以前の、文章を「書く」話--作文(もしくは綴方)教育の話へと掘り進む。細かく分類しだすとキリがないけれど、大きく分ければ文章には「伝達」と「表現」の2つがある。このどちらを重視すべきか、どちらが基本的なことか、をめぐって作文業界や教育業界では「大論争」があったという。つまりは、伝達する技術を磨くのか、表現したいという意欲を重んじるのか。これは「表現」派が勝利をおさめた。が、その表現にしても、「思ったとおりに、見たままに書け」というのと「形式を重んじ、思ったまま、見たとおりには書くな」というのが、やはり論争となってきたという。そして、学校での作文教育が「表現」に傾き、「あるがままに書け」と諭してきたことへの、いわば反旗として、世にあふれる「文章読本」たちのなかで「伝達」技術派が勝利したのだと述べる。急いで付け加えるなら、学校作文が排してきた「よりレトリカルな表現」派も、「文章読本」の世界では一定のボリュームで存在している。この両者は--伝達派もレトリカルな表現派も--「学校作文の否定と補填」という意味では一致していたと、斎藤は読むのである。
 そんなあれこれの論争を腑分けしていきながら、斎藤美奈子は「文は人なり」ではなくて、「文は服なり」だということを見出す。ここがおもしろい。

▽文は服である、と考えると、なぜ彼ら[文章読本家たち]がかくも「正しい文章」や「美しい文章」の研究に血眼になってきたか、そこはかとなく得心がいくのである。衣装が身体の包み紙なら、文章は思想の包み紙である。着飾る対象が「思想」だから上等そうな気がするだけで、要は一張羅でドレスアップした自分(の思想)を人に見せて褒められたいってことだけでしょう?女は化粧と洋服にしか関心がないと軽蔑する人がいるけれど、ハハハ、男だっておんなじなのさ。近代の女性が「身体の包み紙」に血道をあげてきたのだとすれば、近代の男性は「思想の包み紙」に血道をあげてきたのだ。彼らがどれほど「見てくれのよさ」にこだわってきた(こだわっている)か、その証明が、並みいる文章読本の山ではなかっただろうか。

カルチャーショック(II)

 先に私がホウレン草をゆで、味噌汁の支度をしてから、シェフ(同居人)と交替。私はゴマすりである。鰺のたたき・キムチ和えは2日連続、鮃によるキムチ和えから数えると3日連続だが、「いちど妹に食べさせたい」ということでシェフが製作。妹が到着し、ビール(クラシックラガーとファインラガーを2本ずつ)を買ってきて、宴となる。石川から取り寄せた「大根ずし」を出し、妹のすきな「カボチャの煮付け(これは残りもの)」を出し、しかし、味噌汁を出すのを忘れていた(妹が帰ってから気づいた)。
 妹1号は、2月に入り「雑用係」としてアルバイトに出ている。携帯電話を持ったのはかなり早かったが、ワープロやパソコンは見たことがあるだけでほとんど全くさわったことのない妹である。その妹が事務的な文書作成などもやっているのだという。聞くも笑い(笑)、奮闘努力の日々である。例えば、ある日「インターネットで調べて○○しておいて」と言われた妹は、まずこの”インターネットで”のところで、「はいぃぃ?」状態となった。ちょうどその日はお使いにも出なければならなかったので、妹はお使いの途中で本屋に飛び込み、「インターネット」とは何をどうすればよいのか短時間のうちに立ち読みをしまくったそうである。そして「地球儀のようなマークをつつき」「gooやyahooで検索」程度の知識を得て戻ったという。もちろん最初に「パソコンに関してはド素人」と紹介され、「分からないことは聞いて」と言われている。とはいうものの、会社のなかもみんな忙しいし、妹の「分からない」ことは、今のところ余りにも基本的なことであり、マニュアルにも書いていないようなことなので、彼女は「自分で少しはやってみて、それから聞いてみる」ようにしているのだという。
 マッキントッシュを使う私も、マジョリティであるWindowsマシンやその前身ともいえるDosマシンを使わざるをえなかったときに、最初のうちは電源の入れ方から最後に電源を切るまで、いちいち人に教えてもらい、メモをとり、確認しながらおぼえた。はなからマウス付きだったマックをさわっていた身には、キーボードで全てをこなすというDosマシンを使うのは、ほんとうにカルチャーショックだった。きっと妹も今そんな感じなんやろうなあと思う。

カルチャーショック(I)

 昨日は朝から介護へ。天気もよく、金曜に比べてあたたかい。知り合いのおばちゃん(脳性麻痺のひと)のとこへ月に1~2度、これは10人ほどで土日のローテーションを組んでいる。皿洗いして、昼ご飯の支度をして(一緒に食べて)、洗濯ものを取り入れて畳んで、洗濯ものを干して、皿洗いして、、、、、と言いつかったことをこなし、あとはテレビっ子になる時間。今でこそうちにもテレビがある(同居人の持参品)が、一人で住んでいた7年余りのあいだはテレビなし子の生活をしていたので、介護に来て、テレビを見るのがじつに新鮮だった。おばちゃんはビデオもよく見るし、ときにはビデオにとったテレビ番組やテレビドラマを見ることもあるので、(これがみんなが言っていたドラマかア)と思うことも多かったし、(これが噂のコマーシャルか、)としげしげと眺めることも多かった。
 今でも、うちでテレビを見る時間帯と見る番組が、おばちゃんのそれとはズレているせいか、いろいろと新鮮である。昨日は、サッポロが出した発泡酒「ファインラガー」のテレビコマーシャルを見た。おばちゃんとこの新聞をみたら、「ファインラガー」の新聞広告もあった。どちらもキリン(の「ラガー」ビールへの)対策なのだろう、ラガーという文字の隣もしくは上に、カッコ付きで「(熟成)」といちいち書いてある。テレビコマーシャルで商品名が何度か大きくうつるときにも、いちいち「(熟成)」とついてまわる。それがまるで、映倫の修正後の映画で画面に「ボカシ」がついてまわるようで、おかしかった。昨日は土曜だったので、昼には当然「吉本新喜劇」である。小学生の頃には半ドンで帰ったら真っ先にテレビをつけて見ていた。いまは、おばちゃんとこへ土曜に行ったときに見る。
 
 夕方帰って一休みしてから、晩ご飯の買い物に出た。昨日は妹1号が仕事帰りに来ることになっていて(大根ずし、かぶらずしをお裾分けするため)、「おもてなし」献立をどうするああすると言いながら外出。近くのスーパーにある魚屋で品定めをしてまわり、「鮭とイクラの親子丼」「鰺のたたき・キムチ和え」「ホウレン草のゴマ和え」などをつくることにして鮭と鰺とイクラとホウレン草を購入。

歩く文章読本(II)

 私には母ちゃんの孫請け働き(主に文書校正)をしていた名残か、本や文章を読んでいて誤字脱字が目についてしまうという癖がある。そして、これはおそらく父ちゃんの影響だと思うが、「日本語として」読むに堪えない文章を(バ~カ)と思うところがある。とくに論文や報告文書で「理解できない」悪文には、日本語じゃねえと悪態をついてしまう。
 斎藤美奈子が斬ってみせてくれる文章読本の「主張」を読んでいると、父ちゃんに「コトバ」をチェックされた場面がよみがえる。父ちゃんは「正しい」日本語がすきなのだ。「この言い方は間違っている、こういう風に言うのが正しい」と説かれる。いまでも思い出すのは、子どもの頃「あんましない」という言い方を私がしたときの父ちゃんのチェックである。「あんまし」などという日本語はない、「あまりない」というのが正しいのだ、とすぐさまたしなめられた。似たようなことはいくつもあった。
 新聞・雑誌・本・ニュースの用語などにも父ちゃんのチェックが厳しく入る。ある文章(それは新聞記事の一節であったり、ある本の1ページであったりする)を示され、これはおかしい、こう書かなければならない、と言う父ちゃんはどこか自慢げである。時には、自分の主張の根拠となる辞典の記述や文章家の能書きがするするとついてくる。
 『文章読本さん江』の中で「御三家」「新御三家」として挙げられている文章読本を、父ちゃんはおそらく全て持っていて、きっと愛読している。思い返せば、私の手元にある文章読本のうち、何冊かは確か父ちゃんからもらったもの(あるいは、「こういうのを読んでベンキョウするといい」などと紹介されたもの)なのだ。
 そんなことを思い出していると、まるで父ちゃんは「歩く文章読本」だなアと感慨さえわく。

▽文章におけるプロとアマの差は、文章が上手か下手かではない。人のために書くのがプロ、自分のために書くのがアマチュアだ。いつも締め切りに追われてかりかりしているプロ(レタリアート)の目から見れば、奥様方の文章修業は「文章ブルジョワジーの優雅な休日」以外の何物でもあるまい。文章読本の欺瞞のひとつは、こうした「プロ」の実態を無視して、修業をすればあなたも文章の力で出世できますよ、という幻想を読者にふりまくことなのである。(120ページ)

 笑える本に、職場でのブチ切れもやや癒される。

歩く文章読本(I)

 疲れと眠気でよれっとしてしまう週末。昨日よりも風が強く、寒さを感じる。昨日も遅れてきた印刷屋が今日もヨユウで1時間半待たせてくれた挙げ句に、昨日も忘れてきた色見本をまた忘れてきたので、しんぼうづよい周囲を押しのけて文句を言った。「私たちはナメられているんでしょうか。」さいきん当たる業者が悪すぎるのか、ひどい目にあってばかりで、キレて荒れて帰宅。
 
 晩ご飯は、鰺のたたき・キムチ和えである。昨日は鰺がなかったとかで、同居人が鮃でつくったのだが、鮃の淡泊さにキムチがかって、味のバランスとしてはやはり鰺の脂のうまみがいい、と確認した。飲みものは、先日買ってみたファインラガーという発泡酒が満足のいくものだったので、クラシックラガーも気に入ったことだし、「これからはキリンにしよう」と思いきや、ファインラガーはサッポロの製品であった。昨日コンビニでも見かけたファインラガーがサッポロだというのを見て、一瞬感じた違和感は、そうだった、ラガー=キリンだったと、やっと思い当たる。ファインラガーの苦みのある味にも騙されて、すっかりキリンだと思い込んでいた。それはともかく、物足りなさを感じるばかりだった発泡酒のなかで、初めて「これはいける」と思った。

 今日は頼んでいた本を引き取りにいったついでに店頭の本棚を見てまわると、斎藤美奈子の『文章読本さん江』(筑摩書房、2002年)が並んでいたので、「あるやん!」と、顔パスになった店の人に一言たのんで、これももって帰った。この本を先週ネット発注したところ、取り次ぎが在庫を切らしていたために、まだ数日先でないと届きそうにない状態だったのだ。私が頼んだのが入ったら、今日もって帰ったのと入れ替えに店頭においてくださいと頼んで、うまく手に入れることができた。
 帰ってこれを途中まで読んでみた。『妊娠小説』並みの笑える本である。斎藤美奈子が俎上にのせている文章読本の類を、私もいくつか持っている。読んだのもあれば、途中で投げたのもある。おもしろいと思ったのもあるし、損したっと思うのもあった。

再会

 今日は珍しい再会があった。数年前--もう5年か6年前に会ったきり、手紙やメールで消息をしらせあう状態だった同い年の友が、突然職場にあらわれたのだ。上の子には会ったことがあるが、一緒に連れてきた子どもは初めて見る下の子で、その子がもう4歳。上の子はもう小学生なのだという。「連絡しようかなと思ったけど、驚かそうと思って」と、ほんとうに突然あらわれた。ちょうどお昼だったので、1時間あまり、動きまわり、しゃべりつづける子どもをあしらいながら、コーヒーを飲み、昼ご飯をとった。上の子が学校から帰ってくるまでに帰らないとと言う彼女を近くの駅まで送る。変わらないところもあるけれど、しっかりお母さんの顔もしていた。
 
 夕刻より、教職科目用のガイドブックの印刷のために印刷屋との打ち合わせ。これが予想以上に長引き3時間以上拘束され、疲れる。別の先生が表紙デザインを知り合いのイラストレーターに頼んだところ、そのデザインや絵がいまふたつの出来で、編集した冊子への愛着が一気に冷め、投げやりになってしまう。

 晩ご飯をすませたら、もう9時をまわって、夜が減ったような損した気分になる。先日ゲットした玄田有史の『仕事のなかの曖昧な不安 揺れる若年の現在』(中央公論新社、2001年)を途中まで読む。
▽企業内の高齢化の進展が、過剰となった中高年の雇用不安の原因であることはまちがいない。・・・
 しかし、中高年の過剰感や飽和感は一方で、中高年自身の大幅な雇用削減を生むというより、新卒採用を中心とした若年雇用を大幅に抑制している。
 いわば、中高年がすでに得ている雇用機会を維持する代償として、若年の就業機会が奪われている。それは、中高年雇用の「置換効果」もしくは「既得効果」とよぶことができる。ここでいう「置換」とは、中高年がかつて得た雇用機会を占有し、本来若年が就いていたはずの仕事を奪っている状態を指す。(52-53ページ)  
 大学という職場でも、置換効果や既得効果がばんばん働いている、と思う。
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在91号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第65回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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