読んだり、書いたり、編んだり 

1月に読んだ本

1月に読んだ(読み終わった)本のリスト:
○内館牧子『朝ごはん食べた?』小学館文庫
○岡田斗司夫『30独身女、どうよ!?』現代書林
○檀ふみ『まだふみもみず』幻冬舎
○浅田次郎『見知らぬ妻へ』光文社
○浅田次郎『霞町物語』講談社
○浅田次郎『オー・マイ・ガアッ!』毎日新聞社
○池波正太郎『鬼平犯科帳(一九)』文春文庫
○司馬遼太郎『この国のかたち(六)1996』文藝春秋
○下村恵美子+谷川俊太郎[詩]『九八歳の妊娠 宅老所よりあい物語』雲母書房
○瀬地山角『お笑いジェンダー論』勁草書房
○稲泉連『僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由』文藝春秋
○清水ちなみ&OL委員会『女のしあわせどっちでショー』幻冬舎
○オバタカズユキ『だから女は大変だ』扶桑社文庫
○渡辺和博とタラコプロダクション作品『金魂巻の謎』主婦の友社
○小倉千加子『女の人生すごろく』ちくま文庫
○ジョーンズ&ウォーレス『若者はなぜ大人になれないのか 家族・国家・シティズンシップ』新評論
○池上正樹『引きこもり生還記 支援の会活動報告』小学館文庫
○高島俊男『漢字と日本人』文春新書
○雁屋哲(作)、シュガー佐藤(画)『マンガ 日本人と天皇』いそっぷ社
○矢島正見・耳塚寛明編著『変わる若者と職業世界 トランジッションの社会学』学文社
○富田英典・藤村正之編『みんなぼっちの世界 若者たちの東京・神戸90's展開編』恒星社厚生閣
○鶴見俊輔と中学生たち『大切にしたいものは何?』晶文社
○モーム『要約すると』新潮文庫
○安藤哲也『本屋はサイコー! 本を売る仕事はこんなに面白い』新潮OH!文庫
○内館牧子『愛しくてさよなら』小学館文庫
○川成洋『大学崩壊!』宝島社新書
○阿部謹也『学問と「世間」』岩波新書
○内館牧子『男は謀略、女は知略』小学館文庫
○桃谷方子『百合祭』講談社
○小倉千加子『松田聖子論』朝日文芸文庫
○坪内祐三『ストリートワイズ』晶文社

ストリートワイズ・路上の賢者・街で生きる知恵

 数年前に図書館で借りて読んだ坪内祐三の『ストリートワイズ』(晶文社、1997年)を、また読みたくなって、こんどは自分で買った。注文していたのがおととい届き、昨日持って帰って読んだ。そうだ、これは福田恒存論でもあった、と読み始めて思い出す。

 「オウム時代の神様探し」と題する文章で、小林秀雄の「計算できる能力と、間違いなく働く智慧とは違いましょう」という言葉を引いて、坪内はこう書く。
▽「間違いなく働く智慧」というのを常識、世間知という言葉で置き換えても良いかもしれない。世間知は「計算」できない。文字通り世間という名の社会(他者の集まり)の中で、自分自身で挫折や試行錯誤を繰り返したのち体得する「智慧」である。なるほど日本には、西洋的な意味での神は存在しなかった。しかし、ある時まで、そこには、世間と名づけられた絶対的他者がいた。世間は時には、人に、理不尽に働く。だが、その理不尽(コード化できないもの)が、人に、成長の機会を与えた。世間が消滅していったのも、一九七〇年代半ばのことである。しかも私たちは、世間が消滅して行くことに、ある解放感さえ感じていたのだから。(162-163ページ)
 あるいはロレンスを引き、福田恒存を引きながら、坪内はここで「一本の糸」、私たちと私たちを越えるものとを結びつけるものについて、語ろうとする。いまや糸は切れそうだ、しかしまだ糸は切れていないはずだと書いていく坪内の姿勢は、このほかの文章においても変わらない。そこがいいと思う。
 「世間」という言葉そのものの使いかたは、阿部謹也とは違うけれど、坪内が望ましさをもって語る「知識人」とは、阿部のいう「教養ある人」と重なる。 
▽本当に優れた知識人とは、一個の伝道者である。その伝道者の伝えるものにバイブレートする者が、のち、また新たな伝道者となっていく。そこには指導する者される者という権力構造は介在しない。
 現実に対して直接的な効力は持たないが、ある不思議な存在感を持っている人、それが私の理想とする知識人像だ。具体的なイメージとしては、庭の離れに一人で住んでいる、ちょっと変わった親戚の叔父さん。
 この種の「叔父さん」=「知識人」として私が、まっさきに思い浮かべるのは、今は亡き作家富士正晴である。(238ページ)

帰ってきた勤勉マン

 朝から会議その他でくたびれる。夜は帰ってきた勤勉マンによるキムチ鍋。しかしニラとネギを忘れている。

 お持ち帰り残業のことが頭の片隅から離れないまま、小倉千加子の『松田聖子論』(朝日文芸文庫、1995年)を読む。冒頭で、林真理子が構成した聖子の自伝風のエッセイがあることを知る(今は絶版との由)。ちょっと読んでみたくなる。
▽この本の中の<不気味さ>は、聖子が私はこうありたい、こうなりたいという形で語る価値観や理想的自己像と、聖子が今までこうだった、あるいは現にこうであるという経験や現実的自己とが妙にズレていて焦点が重なりあわないでいること、しかもそれに聖子本人が気がつかないでいるらしいことに林真理子が気づいているところにあります。(14ページ)

 小倉千加子は、山口百恵と対比するかたちで松田聖子を(というより、松田聖子という記号を)論じていく。どちらの女性も「自分が演じているところのものそのものに変貌」していったのだという。そしてこれは「フェミニズムのパロディ本」だといい、読者にゲラゲラ笑ってくれと要望する。
 読後感は、さながら橋本治の『89』--この小倉の親本はあの89年の1月7日にあとがきを書いたものだという。

▽学生運動が終わった時、後に残ったのは、近代的自我を持っているつもりで、その実、女性には前近代的投影しかできなかった男たちと、対等の立場で運動に参画したはずだったのに、男性との協力は男性への奉仕にすぎなかったことに気づいた女たちの、不毛のセクシュアリティの歴史だけだったのです。(179ページ)
▽男社会にとって、温室の中に入れて庇護してやっている少女が、<野心>という男の持ちものを持って、温室の外に跳び出すなどということは、許されることではありません。それは、男の女に対する庇護の価値を愚弄することです。
 平凡こそが女の幸福であり、非凡を生きるのは男の特権だからです。
 そして、男社会で生きざるを得ない無数の女たちにとっても、同じ温室の中で内心の退屈を押し隠しつつ、互いを避難場所としてかばいあって生きていこうとする黙契を破る所業であり、やはり断じて許せないのです。
 自分たちが実行せず、聖子が実行した唯一の行為が、自分たちの不幸と退屈の原因を教えてくれるからです。
 聖子がした行為とは、ほかならぬ<決断>です。(202ページ)

 ある現代史。あるいは社会史。

百合祭(ユリサイ)

 小説を単行本で買うことは滅多にない。桃谷方子の『百合祭』(講談社、2000年)を買った大きな理由は、品切れ寸前だったから、だ。この作品のことは、斉藤美奈子編の『男女という制度』で、金井景子が取り上げていて、知った。そのうち図書館で借りて読もうと思っていたのに、やはり欲しくなってネット検索したら、出版社では在庫切れ、そのサイトの取り次ぎにも在庫がなくなっていた。こうなると(そのうち文庫に入るやろ)というのがぶち切れて、俄然欲しくなる。別のサイトで検索し、取り次ぎ在庫がありそうな気配なので、そっちで発注した。それが今日届いた。
 一日中右から左へと仕事を片づけ続けたが、いくつかの終わらない仕事は明日まわしにして帰宅。出迎えたのは堕落モードバクハツの同居人である。こやつは一日中パジャマでごろごろしていたらしい。手抜きとしか言いようのない晩ご飯をすませて、『百合祭』を読む。
 金井景子がこの小説について何と書いていたかはほとんど忘れてしまったが、帯にあるように「高年者の愛と性の衝動」がナマナマしくもおかしい話。高年者の一人住まいといえば、寂しいような哀れさの漂うステレオタイプがあるが、この小説は、そんなステレオタイプをばりばりと踏み抜く力強さがあって、そこがまた面白い。宅老所よりあいが出した2冊の本のように、楽しさがある。
 「百合祭」では登場人物がすべて「○○さん」と「さん」付けである。語り手は、最初に登場する「宮野理恵さん」に近い場所にいるようにも思えるのだが、その彼女も、他の登場人物と等距離に宮野さんと呼ばれているようにも読める。高年者の集合を書こうとした意図からか。それと、これは北海道の方言なのか、私なら「三好さんたら」と書くところが「三好さんなら」と、「たら」ではなくて「なら」になる。最初出てきたところでは、誤植かと思ったが、その後も「三好さんなら」と頻出するので、どうもこういう言い方をするらしい。
 しかし、「百合祭」の面白さの続きで調子に乗って、併録の「赤富士」を読み進めると、こちらはだんだん陰惨な風景になっていって、ちょっと引いた。これはDVの話?間男の話?しかし一人称は中2の「わたし」にあるようだ。
 「百合祭」は映画化されて、さいきんあちこちで上映されているらしい。見てみたい気持ちもあるが、小説のおもしろさで十分な気もする。

浮遊感(II)

 そして、コーヒーをいれて、読みかけていた阿部謹也の『学問と「世間」』(岩波新書、2001年)を読む。石臼職人からインタビューで話を聞き出すことができなかったのが、ともに石臼をつくることで石臼をつくる過程の話を聞くことができた、というところがおもしろかった。
▽職人にとっては石臼作りの過程は手と身体の作業として刷り込まれているので、作業をしながらなら、いくらでも必要な説明ができる。それをインタビューの中で答えてもらおうとしたやり方に間違いがあったことに気づいたのである。言葉は身体の動きと連動していた。石臼職人に石臼作りの方法を学ぶためには、ともに石臼を作ってみなければ、その秘密は明かしてもらえない。
 これは近代的な学問に対する批判ともなりうる事実である。社会学者たちは質問事項を並べてインフォーマント(情報提供者)から事実関係を明らかにしてもらおうとする。しかしインフォーマントが言葉だけで語れることは限られている。共同作業の中でしか伝えられない事実は多いのである。(127ページ)

 日が暮れる頃になって、ようやく買い物がてら散歩に出た。風が冷たく、今日も寒い。寒い寒いと言いながら買い物をすませ、本屋に寄って、帰宅。晩ご飯は鳥野菜味噌鍋である。近所のコンビニにあるのを見つけて、またクラシックラガーの大瓶を買ってきた。
 本読み風呂で、内館牧子の「朝ごはん食べた?」の3作目『男は謀略、女は知略』(小学館文庫、2000年)を読む。内館が父親を亡くしたあとの「浮遊感」について書いている。ここはよくわかった。浮遊感を覚え、そして現実に戻るという苦行。

浮遊感(I)

 また今日も昼前に起床である。このところ寝るのが遅くなっていけない。同居人がいつまでもパソコンの前にいて、気がつくと1時半とか2時になっている。今晩はなんとしても12時就寝だ。職場で眠くてしかたがない。
 昨晩は布団の中で買ったばかりの『転向再論』(平凡社、2001年)を途中まで読んでみた。鶴見俊輔、鈴木正、いいだももの3人が石堂清倫氏に献じた本である。さいしょに収められている鶴見俊輔の「国民というかたまりに埋めこまれて」を読んだところで寝た。
 昨日の雨はあがっていて、晴れ間がみえている。だらだらと朝昼兼用でパンなど食べながら、「散歩にいこう」と言っていたのだが、結局そのまま夕刻まで家にいた。とちゅう洗濯して、ベランダの掃除をして、皿洗い。あいだはずっと本を読む。『転向再論』の鈴木正による「転向異説」を読んでみる。登場人物の半分くらいの名前は分かるが(半分くらいしか分からないし)、私の歴史上の知識に穴があって、すんなりと分からない。こないだ古本屋で買ってみた安東仁兵衛の『戦後日本共産党私記』(文春文庫、1995年)も読んでみるか・・・。
▽かつて中江丑吉は転向に対する反応として「日本のコミュニストが敗北し、天下をとれなかったのは当然である。もし天下をとったとすれば、口で何といおうと、その専制を攻撃する現在の支配階級以上に専制政治を施いたであろう。政治的により高くなければ天下をとれるものではない」と鋭い批評をした・・・(69ページ)
 いいだももの論はこの本のほとんど三分の二以上を占める長大なものなので、また今度にしよう。
 
 その後、川成洋の『大学崩壊!』(宝島社新書、2000年)をざざざっと読んでしまう。読めば読むほどウンザーリするような大学の話。古本屋で百円だったので買っておいた。しかし、この本も妙な日本語があって怪しい。

モーム・失敗・ダバダ火振(III)

 昨晩は先週古本屋で買ってきた内館牧子の『愛しくてさよなら』(小学館文庫、1999年)で本読み風呂。これは年明け第一号に読んだ『朝ごはん食べた?』の続編で、同じく週刊ポストの連載コラムをまとめたものだ。1作目よりも、おもしろさが心持ち落ちる。1作目の、あの悶絶するようなおかしさがなかった。さらに続編の3作目も古本屋にあったので一緒に買ったのだが・・・・。

 今日は夕方から雨が降り出し、冷え込んで寒かった。昼前に速達が届いて、ピンポンと鳴らされて起きる。午後は研究会に出ることにしていたので、朝昼兼用の焼き飯をつくって食べ、ヨーグルトを食べ、コーヒーを飲んで出かける。
 夜の9時頃に帰宅してから、晩ご飯がわりに飲みに出た。焼鳥屋と焼き肉屋をハシゴ。同居人は焼き肉屋で「ビールも飽きたなア」と、ダバダ火振という焼酎を頼み、「うおっ、めちゃめちゃのみやすい、やばい」と楽しそうにのんでいた。私も一口のんでみた。クセがなく、ストレートでもくいくいいけるのみやすさ。栗焼酎で、土佐のものらしく、こんど探して買ってみようかと。

モーム・失敗・ダバダ火振(II)

自分で指導し、保護してきたものたちの幸福には、わたしも無関心ではありえないが、長い間、わたしにたよって生きてきた彼らが、どんな結果になろうと、各自の自由を受けるということは結構なことだ。長い間、この世にある場所を占めてきたが、ほかの人たちが、やがてその場所を占めるだろうということに、わたしは満足する。(訳、276-277ページ)

 死について書かれたこの章を読んでいて、父ちゃんはどんなことを考えているだろうと思った。母ちゃんが死んだときに、「その分も生きるつもりだ」と言っていた。

 昨日は先日注文したいくつかの本がどさどさと入荷。その中で、安藤哲也の『本屋はサイコー! 本を売る仕事はこんなに面白い』(新潮OH!文庫、2001年)は、読み始めて2時間ほどで読み終わった。字が大きく、行間もゆったりとして、古い新潮文庫を読んだばかりの目には、するすると気持ちよすぎるほどである。往来堂書店という、ちょっと行ってみたい本屋を立ち上げたのがこの人。今はbk1へ移ってWeb上でセレクトショップ風の「ブックス安藤」を開いている。
 取次や出版社のお仕着せパターン配本を拒絶して、”文脈棚”という、知る人ぞ知る棚づくりを実践した人。Webの往来堂書店も”ネット文脈棚”をつくっていて、時々眺めていると、やはり一度ナマの本屋へ行ってみたいなアと思う。
▽僕は書店員として、以前から一つの疑問をもっていた。
「本は、人に勧められて買うものなのだろうか?」
 この疑問は、インターネット書店で働きはじめてから、ますます強くなった。・・・最近、CDショップにいくと有名なアーティストのベスト盤がやたら売られている。・・・本についても同じだ。ランキングに入ったもの、あるいは誰かが感動して、オススメするものという”保証”がついて、はじめて本を買う人が多い。・・・
 買ってみた結果、失敗する。
 それも、本当に大事な本や音楽にたどり着くまでの重要なプロセスだと僕は思う。(199-201ページ)
 私も、タイトルに騙されて(?)くそ買わんかったらよかったという本を買ってしまったことが何度もある。ランキングやオススメは、安全に買う一つの知恵だと思うけれど、自分で選ぼうと思うかぎりは、失敗も積むしかないような気がする。

モーム・失敗・ダバダ火振(I)

 木曜は職場の新年会。飲みにいくのでクルマを置いて出勤し、移動のあいだに正月から読みかけのモーム(中村能三訳)『要約すると』(新潮文庫、1968年org.1938年)をようやく最後まで読んでしまった。古い新潮文庫は文字が本当に小さく、行間もびっちり詰まっていて、そう厚い本でもないのに読み応えがずっしりとある。The Summing Upというタイトルをもつこの本は、モームの自伝的な回想録であると紹介されることが多いようだ。が、冒頭からモームはこう書いている。
▽これは自叙伝でもなければ、回想録でもない。わたしは生きてきた間に、自分の身に起ったことを、なんらかの形で、作品の中に書いてきた。(訳、5ページ)
 とはいうものの、モームはこうも書いている。
▽この本では、わたしは今までの生涯で、自分が主として関心を持ってきた問題についての考えを、整理してみたいと思う。しかし、わたしがたまたま得た結論は、荒海に浮ぶ難破船の漂流物のように、わたしの心に漂っていたものだ。(訳、10ページ)
 このモームの本のことは、誰かが本だったか雑誌だったかで「よく読んだ本」としてあげていたものだった、と思う(でもそれが誰だったか今まったく思い出せない)。モームの文庫本(紺とモスグリーンのツートンの装幀で揃えられている)は、父ちゃんの持ち物として小さい頃から本棚で目にしていた。でも読むのは初めてだ。こんどは小説のほうを読んでみようかなと思う。
▽死をはげしく渇望して、まるで恋人の胸にとびこむように、死へととびこむことができそうな瞬間がある。死は、昔なら、生によって与えられたと同じはげしいスリルを、わたしに与える。死を考えると、わたしはそれに陶酔する。そのときの死は、最後の、そして絶対的な自由を与えてくれるように、わたしには思われる。それにもかかわらず、わたしは、医者が相当の健康を保たしてくれるかぎり、長く生きていたいと思う。わたしはこの世界の出来事を眺めて楽しんでいるし、これから起ろうとしていることを見るのは楽しみである。わたし自身と同じ時代に生きてきた多くの人々の死は、反省や、ときとしては、わたしが古い昔にたてた理論の確証のために、たえざる糧を与えてくれる。わたしも友人と別れるのは悲しいだろう。

大切にしたいものは何?(II)

 私は、まえの本で鶴見がしきりに「親問題」と言っていたのを、”両親、親とのあいだに生じる問題”と思って(思い込んで)読んでいた。「殺人について」「自殺について」「親になること」という3つのテーマで中学生から作文を募集し、それを挟んで、企画者らが意見交換した座談会とそれぞれが書いたエッセイがおさめられていた。生と死とを交差するテーマだったから、そう思い込んでいたのか。

 こんどの本では、鶴見が、中学生といろいろ話していく会を、昔の寺子屋みたいにしたいと最初に述べている。それは鶴見の哲学の流儀とおなじ、「自分で問題をつくって自分で答えをだす」という自問自答の場にしたいのだと。
 南伸坊がかいた鶴見俊輔の笑うさまが、ほんとうに楽しそうでおかしい。 

 今晩も冷える。昼間も廊下に出ると震えあがる寒さだった。
 ***
 『大切にしたいものは何?』を読み終える。スルメ本として、長く読むものになりそうだ。いろいろとおもしろい話があるなかで、同じ人とつきあって違うものを見つけるという話が印象にのこる。
▽くりかえし同じ人とつきあっていって、そのつきあいのなかから、意外なものがでてくるようでありたいですね。同じ人とつきあっているのだから、つきあいは同じじゃないかっていうのじゃなくて、そのなかから新しいものはあらわれる。そういう考え方と、べつの人とつきあわないとおもしろくないっていうのと、対立的にあると思うんだ。
 だけど、同じ人とつきあっているなかで、いろいろなものがあらわれてくるってことは、とってもおもしろいことなんだよね。肖像画でも、同じ人をずっと描いていくと、ちがう肖像がいくつもでてくるでしょう。そういうことにかけている一生があるんだ。これはおもしろい見方だね。そういう見方をとることで、人生はべつな人生になっていく感じがしますね。(131ページ)

 たとえば、親が小さくなるように。

大切にしたいものは何?(I)

 昨日の朝は職場でメールをチェックしてびっくりした。ちょっとコーフンした。ほぼ20年の空白をへて、中学のときの同級生からメールが届いたのである。どこで探しあててくれたのか、職場のアドレス宛にメールが届いたのである。これがびっくりせずにおれようか!しかも同じクラスになった翌年には遠くへ引っ越してしまった友である。「引っ越した奴のことなんか覚えてないだろうなー」と書かれていたメールをよんで、「めっちゃおぼえてるぞーー!!」と一人で画面にツッコミを入れてしまった。そしてとりあえず返事を書いた。昨日から今日にかけて、私のコーフンは続き、その友とは全くもって無縁の職場付近の人に、「いや~むかしの同級生からメールがきて~」とツイ話していたりした。2人で教科書に書きまくっていたパラパラアニメならぬ「パラパラ物語」は、今も捨てずに押入にある。ああなつかし、、、今日はまた2通目のメールが届く。押入にあるあの教科書出そうかしら。

 今日は頼んでいた本が届き、引き取りついでに店頭でみた雑誌も買った。鶴見俊輔と中学生たち『大切にしたいものは何?』(晶文社、2002年)と『月刊言語』(大修館書店)の2月号「特集 言語のジェンダー・スタディーズ」。珍しく2ヶ月続けての購入だ。すっかり顔なじみになった店の人と人文系の品揃えについてしばらくしゃべって帰ってくると、むらむらと購買意欲がわきたって、ぱんぱんぱんとまたネット注文してしまった。
 鶴見俊輔と中学生たちの本は、 3年前に出た『本音を聴く力 中学生は何を考えているのか』(発行・同朋舎、発売・角川書店、1999年)の続きの本という企画らしい。このあと『きまりって何?』『大人になるって何?』と続いて出るらしく、たのしみだ。帰ってきて途中まで読んでみると、私は『本音を聴く力』でも鶴見が語っていた「親問題」というのをちょっと誤解していたのかもと思った。
▽なんとなく生きていれば、そこに問題がでてきて、それととりくむことがあるのですね。中学生になる前、生まれたときから考えてみても、いろんな問題をもってきたでしょう。その問題のことを「親問題」というんですが、これは自分の両親、親とのあいだに生じる問題とはちがうんです。もともと、自分がとりくんでいる基[もと]の問題のことなんです。自分がくらしているとでてくる問題のことです。(12ページ)

(おもろな~)

 タイトルだけ見たときには買おうかと思っていたが、図書館にあったのでとりあえず借りて読んでみると、あまりおもしろくなかった。買わんでよかった。矢島正見・耳塚寛明編著の『変わる若者と職業世界 トランジッションの社会学』(学文社、2001年)。とくに後半の「ケーススタディ」のところはよれよれになってしまった。例えば、ベンチャー起業家を取材して書かれた章。ベンチャー起業家のケースを3つほど取り上げたあと、最終的に書いてあったのは「アメリカでは大学や大学院でもベンチャー支援が充実している→日本でも大学や大学院でもっと支援を」というような話。はぁ、、、、アメリカさんが充実してたら、日本も「すべき」なのか?論拠がのみこめず、(おもろな~)という気分だけが残った。他の章もあまりそそられず。フリーターのケーススタディで出てきた若者(たしか3例)の「家族」がみんな(親キョウダイとも)高卒だったのが印象的。

 帰りに父ちゃんちへ本を届けにゆく。これがほしいと新しい注文をきくと『世界がもし100人の村だったら』(マガジンハウス、2001年)だったので、もう買ってるから読みたかったらもってくると約束。
 夜はプロジェクトXをちらっとみて、本読み風呂ではモームの『要約すると』をだいぶ後ろまで読み、その後は図書館で借りてきた阿部謹也の『学問と「世間」』(岩波新書、2001年)を途中まで読む。
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第42回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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