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自由の戦士と破壊の戦士(III)

 芝生のこの本は、メディアが流しているものを見聞きしただけで「知ったつもり」になるなと戒める。なにが伝えられており、何が伝えられていないかを、可能な限り記していく。そして、現在「戦争」の舞台になっているアフガニスタンの人びとが--かれらがなぜこのような目に遭わなければならないのかと問いかける。
▽いくつかの答えははっきりしている。そのなかの最大の答えは「大国のエゴ」である。(176ページ)

自由の戦士と破壊の戦士(II)

 一九八二年、イスラエルがついにレバノンに侵攻し、西ベイルートを包囲した。アラファト議長に率いられるPLOの拠点を封じ込め、壊滅しようとしたのである。
 西ベイルートは、食料、水、医薬品まで不足し始めた。しかし西ベイルートには、PLOの本部があるだけでなく、イスラム教徒のレバノン人やパレスチナ難民が多く住んでいた。集束(クラスター)爆弾、真空(コンカッション)爆弾などをイスラエル軍が投下し、多くの民間人犠牲者が出た。
 これらの爆弾は、いかに近代通常兵器が発達したかを示す見本だった。ひどく精確かつ残虐なもので、ことにクラスター爆弾は人間の殺戮だけを目的としたものだった。真空爆弾は建物の破壊に使われた。そのほとんどが米国製だったのだ。そのことについて調査をおこない、本(共編『レバノン侵略とイスラエル』三友社)にまとめたこともある私は、それを鮮明に思い出す。このクラスター爆弾は、今回の米軍のアフガニスタン空爆にも使われている。
 しかしいったい何人のアメリカ人が、これまで米国製の武器で数千人、いや数万人のパレスチナ人やレバノンのイスラム教徒が殺されてきたことを知っているだろう。おそらくは少数の専門家や関係者をのぞいては知らなかっただろう。そんなことは一般のアメリカ市民にとり、どうでもよいことだったのだ。しかし、そのことを知らなければ、彼らの憎しみが分からない。(70-71ページ)

 黒人の消防隊員が語ったこと--「あの日」の受け止め方の違い:
▽「白人は脅えているわ。今まであった周囲の安全や快適な生活が、一日にしてなくなってしまい、世界が変わってしまったような気分になっているのよ」
 「でも私たち黒人にとってショックは、そんなに大きくないわ。もともと私たち黒人にとり、安全も快適な生活もなかったのだから。私のいる黒人居住区では、しょっちゅう黒人が死んでいるわよ。それも黒人が些細なことから他の黒人を殺すというような馬鹿げたことをやっているの。それに検問が厳しくなったといっても、今までだって黒人とみれば、警官は尋問をし、持ち物検査をしてきたのね。だから、私たちにとって、世界が一日にして変わってしまうようなことはないわ」(103-104ページ)

自由の戦士と破壊の戦士(I)

 ブックマークの発送作業がしみしみと続く。同居人にもチョット手伝ってもらって、ようやく封筒詰めを終える。
 今日は冷たい風が強く吹いて、寒い。風の強さのために体感温度がぐっと下がっている。徒歩10分ほどの空港へ「お年始」の買い物に出たら、人工関節がシャキーンと冷えてつらいのか、同居人が足を痛がる。「お年始」に焼き菓子を箱につめてもらい、昼ご飯にそばを食べて帰宅。

 父ちゃんに頼まれて購入した芝生瑞和の『「テロリスト」がアメリカを憎む理由』(毎日新聞社、2001年)を読む。こないだ父ちゃんちへ行ったら、チョムスキーの『9.11』は翻訳があまりにひどすぎるとぷりぷりしていた。「原著のほう手に入ったで」と言うと、「もう1冊買ってくれ」と言う。私もぱらぱらっと見たから、もう1冊買ったことにして、明日はこの2冊を届けよう。
 『「テロリスト」がアメリカを憎む理由』は良心的な本だった。「テロリスト」とカッコ付きで表記するのはなぜか、というところから書き起こされた本は、「テロリスト」たちのアメリカ合衆国に対する怒りと憎しみの由来をたどってゆく。
 「テロリスト」という言葉を使うことにためらいを見せた通信社にロイターがある。その国際ニュース責任者のジュークスはこう通達を出したという。
▽「ある人にとっての『テロリスト』は、他の人にとっては『自由の戦士』だ、ということをわれわれはみな知っており、ロイターでは、テロリストという言葉を使わないという原則を崩さないことにした」・・・
 「世界貿易センターへの攻撃を、テロリストの攻撃と言い換えてみても、何かが新しくつけ加わるわけではない」(芝生、10ページ)
 芝生は、このジュークスの原則に賛成し、しかし「テロリスト」や「テロリズム」を全く使わずに別の言葉に言い換えるのも実際的ではないからと、「いわゆる、メディアで言われているところの」という意味で、カッコつきで「テロリスト」と表記している。

 今回の「テロ」発生時に彼はニューヨークのマンハッタンにいた。直後から取材に入り、そのなかで「ベイルート化」を感じたと書く。
▽私が今回、ニューヨークで「テロ」に遭遇し、それが私にベイルートを思い出させたという意味をもっと分かってもらうため、時間を少し進めさせてもらおう[この章で芝生は”八〇年間の怨念”であるパレスチナ問題について書いている]。話は八〇年代に飛ぶ。

映画館で映画を

 昨晩の続きで、午前中はブックマークの発送作業。昼ご飯をすませてから、梅田の映画館へ。東映の招待券を2枚お福分けでもらったのである。東映のロードショーは「千年の恋 ひかる源氏物語」である。館内へ入ると老若男女いろいろいて、フシギな客層である。映画館で映画をみるのは久しぶりだ。10月に東京へ出たときに岩波ホールで「山の郵便配達」を見て以来。同居人と2人で見に行くのは・・・・・広島で行って以来?本編上映前のコマーシャルやら予告編は吉永小百合でうめつくされていて、とにかく吉永小百合で売ろうということか?と思わせたが・・。
 笑える映画であった。いっそのこと徹底してお笑い路線でいけばよかったのではないかと思うほど。登場人物の言葉づかいなど時代考証はかなりいい加減。なんで紫式部が「福井へ帰ります」と言う?まったくの正統派でもない「つくり」の中途半端さ。松田聖子にあれだけ歌い踊らせるのであれば、天海祐希を主演にたてているのだし、宝塚風に鯛やヒラメの舞い踊りにするのもよかったのでは・・・いやそれならヒロミ・ゴー主演がふさわしいか。そもそも当時の「麗しい容貌」って天海祐希よりも、えなりかずきカモ(「美しい姫じゃ」と言われる明石の姫君役がえなりかずきそっくりだった!)。
 それにしても、これが東映五十周年記念作品とは、なんというチープさ。それなりの売れ線がゴテゴテと大集合してしまった分、どの客層をターゲットにしようとしているのか全く分からなくなっている。「万人向けの映画」が撮れると東映は思っているのだろうか?謎である。
 タダ券で、指さして笑う映画として見る程度。私の前で入るのを待っていた人たちも招待券をもっていたが、お金を払って見に来た人はどれくらいいるのだろう。私は、お金払ってまで見にいかへんなー。同居人の評「光源氏ってサイテーの男やな」。
 帰りに餃子食べて、ビール飲んで、コーヒー飲んで、帰宅。 

 行き帰りの電車で藤原和博の[よのなか]シリーズ一冊目、『お金じゃ買えない。』(ちくま文庫、2001年)を読み終える。テリー伊藤の解説によれば、藤原自身が、この本で書いたようなライフスタイルを実践するための年収として「手取りで600万、税込みで800万」と語っているらしい。なんとも遠いようなちょっと浮いたような印象を受けるのはそのせいか。
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在92号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第67回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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