読んだり、書いたり、編んだり 

12月に読んだ本

12月に読んだ(読み終わった)本のリスト:
○佐伯胖『「わかる」ということの意味[新版]』岩波書店
○向田和子『向田邦子の遺言』文藝春秋
○チョムスキー、ノーム(山崎淳訳)『9.11 アメリカに報復する資格はない!』文藝春秋
○森田ゆり『ドメスティック・バイオレンス 愛が暴力に変わるとき』小学館
○小川眞里子『フェミニズムと科学/技術』岩波書店
○藤井淑禎『御三家歌謡映画の黄金時代 橋・舟木・西郷の「青春」と「あの頃」の日本』平凡社新書
○神沢利子『おばあさんになるなんて』晶文社
○清水義範(え・西原理恵子)『いやでも楽しめる算数』講談社
○毛利子来、橋本治『子どもが子どもだったころ』集英社
○斉藤美奈子編『男女という制度』岩波書店
○小沢雅子『新・階層消費の時代 所得格差の拡大とその影響』朝日文庫
○下村恵美子+谷川俊太郎[詩]『九八歳の妊娠 宅老所よりあい物語』雲母書房
○清水ちなみ『清水ちなみ改造講座』ちくま文庫
○坪内祐三『靖国』新潮文庫
○村瀬孝生『おしっこの放物線 老いと折り合う居場所づくり』雲母書房
○赤瀬川原平『科学と抒情』新潮文庫
○藤原和博『給料だけじゃわからない! [よのなか]の歩き方2』ちくま文庫
○清水ちなみ『お父さんには言えないこと』文春文庫
○藤原和博『お金じゃ買えない。 [よのなか]の歩き方1』ちくま文庫
○芝生瑞和『「テロリスト」がアメリカを憎む理由』毎日新聞社
○藤森照信『タンポポ・ハウスのできるまで』朝日文庫

父ちゃんのおせち料理(II)

 とはいってそんなげてもの料理ばかりというわけではない。たまにはヒット作もある。そういうときは「美味しい!!」とほめちぎって、次回にもそれが出てくることを期待する。そのままのレシピで(「妙な一工夫」が加わらないことを念じて)次回もサーブされることを待ち望む。 

 父ちゃんも歳なのか、面倒がることが増えた。「おせち料理」も規模を縮小すると早くから宣言していた。「お前らに持って帰らせようと思ったら、どっさりつくらなあかん」と言う。このたびは自分が数日食べる分だけちんまりとつくるのだと言っていた。しかし、これが親心というものであろうか、そう言いながらも私が昼前に行ってみると、すでに父ちゃんはけっこうな量のあれこれを仕込んでいたのである。私はその続きを言われるままに、レンコンと高野豆腐とコンニャクを煮染めて、酢レンコンをつくり、栗きんとん風に芋を加工し、きんぴらゴボウをつくり、紅白なます風のものをつくり・・・・・蕎麦のだしをつくり、絹さやとほうれん草を茹で、ご飯を炊いておにぎりをつくり、、、 (けっこういろいろ手伝ったなア)。
 歩く腹時計の私と違って、父ちゃんは時計を見ながら規則正しい生活を送っているので、それにあわせて6時に父ちゃんと蕎麦を食べた(夜中におなか減るなア)。妹たちが来るのは8時か9時頃ということだったから、蕎麦を食べてから一休み。
 藤森照信の『タンポポ・ハウスができるまで』(朝日文庫、2001年)をついに読み終える。なんで屋根にタンポポを?というのは、たしかに本を1冊書けるくらいオモシロおかしい話がたくさんあるのだった。

 父ちゃんの積ん読本を物色すると、坂本龍一ほかが編んだ『非戦』(幻冬舎、2001年)があった!ちょっと読んでみたいけど、買おうかどうしようかと思っていた本である。最初のほうをしばらく読んでみた。悪くない。けれど、昨日芝生の本で「テロ」もしくは「テロリスト」という言葉について読んだ私は、少なからぬ寄稿者が用いている「テロ」や「テロリスト」といった表現(もちろんカッコはついていない)にちょっと引っかかってしまう。父ちゃんが読んだら貸してもらおうと思う。

 8時半頃に妹たちが到着し、蕎麦をふるまう。その後、父ちゃんの「おせち料理」が分配され、クルマに同乗させてもらって帰宅。石川より電話。大阪よりかなり寒いらしい。

父ちゃんのおせち料理(I)

 今日から同居人は里の石川へ帰省。奴は1年前は「安静に」ということで帰らず大阪で過ごし、2年ぶりの石川での年越しである。私は年明けに追ってお邪魔する予定。そして私は父ちゃんちへ、料理の手伝いなど。夜には妹1号と、妹2号&その夫と3人が蕎麦を食べにくるので、下準備である。3人とも今日も仕事である。エライ!
 父ちゃんの「おせち料理」づくりも何年目か。あれだけ神経質なくせに、化学反応でもある料理に対しては何ともいえない大雑把さを発揮する父ちゃん。口癖は「バサーッ」とか「ドサドサッ」である。テキトーに「バサーッ」とやれるのは達人だぜ、父ちゃん。「まずは基本の分量でつくってみて、それからテキトーにやれば」と何度か意見してみたが、父ちゃんの実態は「料理の本どおりにはやらない(←と断言)、ちらっと見て、バサーッ」である。父ちゃんの言い分は、レシピ通りだと「甘ったるい」からだと。砂糖を憎んでいるとしか思えない扱いをする父ちゃんは、極端に走ってレシピなどお構いなしに「砂糖ゼロ」を敢行したりする。「砂糖にも防腐とかモノをやわらかく仕上げるとかいろいろ役目があるねんで、と言ってみても、人の話など聞いちゃいねーので、砂糖ゼロでもいかにうまくいったかへと話は飛ぶ(あまりうまくいっていない気もするが)。
 父ちゃんの料理に関する笑い話はいくらでもある。あれはいつだったか、正月の茶碗蒸しが異様な風味で出てきて、よくよく質すと「料理酒のかわりに焼酎を使った」ことが判明。しかもアルコール分がほとんど飛んでおらず、すごかった。醸造酒と蒸留酒は全然違うぜ、父ちゃん。果実酒ばかりつくっていた時には、砂糖ゼロの作品や、黒砂糖仕込みの作品が誕生していた。いずれも「なんかちがう」ものだった。糖分によって浸透圧が果物の成分を引き出して・・・・・と言っても聞きそうにないので、果物を漬けたというよりは浸けただけに等しい焼酎や、黒砂糖の独特の風味と果実の香りが混濁した焼酎などを飲んだこともある。ニンニクが好きなのはわかるが、ほとんどすべての料理にガーリックパウダーを一振りするのは勘弁してもらいたいとも思っている。そんなこんなで今月初旬の「闇鍋のごとき蟹とテンプラ鍋」程度はいつものことなのだ。

自由の戦士と破壊の戦士(III)

 芝生のこの本は、メディアが流しているものを見聞きしただけで「知ったつもり」になるなと戒める。なにが伝えられており、何が伝えられていないかを、可能な限り記していく。そして、現在「戦争」の舞台になっているアフガニスタンの人びとが--かれらがなぜこのような目に遭わなければならないのかと問いかける。
▽いくつかの答えははっきりしている。そのなかの最大の答えは「大国のエゴ」である。(176ページ)

自由の戦士と破壊の戦士(II)

 一九八二年、イスラエルがついにレバノンに侵攻し、西ベイルートを包囲した。アラファト議長に率いられるPLOの拠点を封じ込め、壊滅しようとしたのである。
 西ベイルートは、食料、水、医薬品まで不足し始めた。しかし西ベイルートには、PLOの本部があるだけでなく、イスラム教徒のレバノン人やパレスチナ難民が多く住んでいた。集束(クラスター)爆弾、真空(コンカッション)爆弾などをイスラエル軍が投下し、多くの民間人犠牲者が出た。
 これらの爆弾は、いかに近代通常兵器が発達したかを示す見本だった。ひどく精確かつ残虐なもので、ことにクラスター爆弾は人間の殺戮だけを目的としたものだった。真空爆弾は建物の破壊に使われた。そのほとんどが米国製だったのだ。そのことについて調査をおこない、本(共編『レバノン侵略とイスラエル』三友社)にまとめたこともある私は、それを鮮明に思い出す。このクラスター爆弾は、今回の米軍のアフガニスタン空爆にも使われている。
 しかしいったい何人のアメリカ人が、これまで米国製の武器で数千人、いや数万人のパレスチナ人やレバノンのイスラム教徒が殺されてきたことを知っているだろう。おそらくは少数の専門家や関係者をのぞいては知らなかっただろう。そんなことは一般のアメリカ市民にとり、どうでもよいことだったのだ。しかし、そのことを知らなければ、彼らの憎しみが分からない。(70-71ページ)

 黒人の消防隊員が語ったこと--「あの日」の受け止め方の違い:
▽「白人は脅えているわ。今まであった周囲の安全や快適な生活が、一日にしてなくなってしまい、世界が変わってしまったような気分になっているのよ」
 「でも私たち黒人にとってショックは、そんなに大きくないわ。もともと私たち黒人にとり、安全も快適な生活もなかったのだから。私のいる黒人居住区では、しょっちゅう黒人が死んでいるわよ。それも黒人が些細なことから他の黒人を殺すというような馬鹿げたことをやっているの。それに検問が厳しくなったといっても、今までだって黒人とみれば、警官は尋問をし、持ち物検査をしてきたのね。だから、私たちにとって、世界が一日にして変わってしまうようなことはないわ」(103-104ページ)

自由の戦士と破壊の戦士(I)

 ブックマークの発送作業がしみしみと続く。同居人にもチョット手伝ってもらって、ようやく封筒詰めを終える。
 今日は冷たい風が強く吹いて、寒い。風の強さのために体感温度がぐっと下がっている。徒歩10分ほどの空港へ「お年始」の買い物に出たら、人工関節がシャキーンと冷えてつらいのか、同居人が足を痛がる。「お年始」に焼き菓子を箱につめてもらい、昼ご飯にそばを食べて帰宅。

 父ちゃんに頼まれて購入した芝生瑞和の『「テロリスト」がアメリカを憎む理由』(毎日新聞社、2001年)を読む。こないだ父ちゃんちへ行ったら、チョムスキーの『9.11』は翻訳があまりにひどすぎるとぷりぷりしていた。「原著のほう手に入ったで」と言うと、「もう1冊買ってくれ」と言う。私もぱらぱらっと見たから、もう1冊買ったことにして、明日はこの2冊を届けよう。
 『「テロリスト」がアメリカを憎む理由』は良心的な本だった。「テロリスト」とカッコ付きで表記するのはなぜか、というところから書き起こされた本は、「テロリスト」たちのアメリカ合衆国に対する怒りと憎しみの由来をたどってゆく。
 「テロリスト」という言葉を使うことにためらいを見せた通信社にロイターがある。その国際ニュース責任者のジュークスはこう通達を出したという。
▽「ある人にとっての『テロリスト』は、他の人にとっては『自由の戦士』だ、ということをわれわれはみな知っており、ロイターでは、テロリストという言葉を使わないという原則を崩さないことにした」・・・
 「世界貿易センターへの攻撃を、テロリストの攻撃と言い換えてみても、何かが新しくつけ加わるわけではない」(芝生、10ページ)
 芝生は、このジュークスの原則に賛成し、しかし「テロリスト」や「テロリズム」を全く使わずに別の言葉に言い換えるのも実際的ではないからと、「いわゆる、メディアで言われているところの」という意味で、カッコつきで「テロリスト」と表記している。

 今回の「テロ」発生時に彼はニューヨークのマンハッタンにいた。直後から取材に入り、そのなかで「ベイルート化」を感じたと書く。
▽私が今回、ニューヨークで「テロ」に遭遇し、それが私にベイルートを思い出させたという意味をもっと分かってもらうため、時間を少し進めさせてもらおう[この章で芝生は”八〇年間の怨念”であるパレスチナ問題について書いている]。話は八〇年代に飛ぶ。

映画館で映画を

 昨晩の続きで、午前中はブックマークの発送作業。昼ご飯をすませてから、梅田の映画館へ。東映の招待券を2枚お福分けでもらったのである。東映のロードショーは「千年の恋 ひかる源氏物語」である。館内へ入ると老若男女いろいろいて、フシギな客層である。映画館で映画をみるのは久しぶりだ。10月に東京へ出たときに岩波ホールで「山の郵便配達」を見て以来。同居人と2人で見に行くのは・・・・・広島で行って以来?本編上映前のコマーシャルやら予告編は吉永小百合でうめつくされていて、とにかく吉永小百合で売ろうということか?と思わせたが・・。
 笑える映画であった。いっそのこと徹底してお笑い路線でいけばよかったのではないかと思うほど。登場人物の言葉づかいなど時代考証はかなりいい加減。なんで紫式部が「福井へ帰ります」と言う?まったくの正統派でもない「つくり」の中途半端さ。松田聖子にあれだけ歌い踊らせるのであれば、天海祐希を主演にたてているのだし、宝塚風に鯛やヒラメの舞い踊りにするのもよかったのでは・・・いやそれならヒロミ・ゴー主演がふさわしいか。そもそも当時の「麗しい容貌」って天海祐希よりも、えなりかずきカモ(「美しい姫じゃ」と言われる明石の姫君役がえなりかずきそっくりだった!)。
 それにしても、これが東映五十周年記念作品とは、なんというチープさ。それなりの売れ線がゴテゴテと大集合してしまった分、どの客層をターゲットにしようとしているのか全く分からなくなっている。「万人向けの映画」が撮れると東映は思っているのだろうか?謎である。
 タダ券で、指さして笑う映画として見る程度。私の前で入るのを待っていた人たちも招待券をもっていたが、お金を払って見に来た人はどれくらいいるのだろう。私は、お金払ってまで見にいかへんなー。同居人の評「光源氏ってサイテーの男やな」。
 帰りに餃子食べて、ビール飲んで、コーヒー飲んで、帰宅。 

 行き帰りの電車で藤原和博の[よのなか]シリーズ一冊目、『お金じゃ買えない。』(ちくま文庫、2001年)を読み終える。テリー伊藤の解説によれば、藤原自身が、この本で書いたようなライフスタイルを実践するための年収として「手取りで600万、税込みで800万」と語っているらしい。なんとも遠いようなちょっと浮いたような印象を受けるのはそのせいか。

年の瀬(II)

▽外から見て平穏に見える家族が幸せとは限らないのですね。
 どんな形にしろ、親の恋愛は、親が自分で”解決する”こと。これが一番むずかしくて、一番大事なポイントだと感じました。
 自分の問題は自分で解決するしかないのです。それができなければ、いわば第三者である子が背負うしかなくなるのです。(121-122ページ)
▽本来ならば、人がひとり生きていく間には、個人として思考し、決定しなければならない数々の場面や案件があるはずなのに、「こどものために」「主人がだめだと言うから」これを繰り返していれば、自分で何も決定することもないまま生きていけます。
 ”幸せな家族”は口実の宝庫で、自分が何を思い、何を決めるか、何の意識もせず、明言することもなしに責任のがれをする言い訳には最も適しています。夫たちの「仕事が忙しいから」も同様です。
 こんなときに最も便利な言葉「こどものせいで」「こどものために」は、言われたこどもの側に立ってみれば、人の人生の責任までも押しつけられた格好になります。しかも、たいていの母はこどものせいで」とは言わず、「こどものために」を使い、かつ、毎日忙しい思いをしてこどもの身の回りの世話をしてくれるのですから、コトの本質はとてもわかりづらくなる。言っている母親本人もきっと自覚してはいないでしょう。
 無自覚なまま、「あなたのために」と言いつつ、こどもを自分が生きていくための道具にしてしまう・・・・・。(194-195ページ)
▽こどもが年をとるその過程は、全知全能の神のようであった親の存在が、一歩二歩と階段を下りてくるような、地上に落っこちてくるようなステップと等しく、またそうでなければおかしいと私は思っています。(219ページ)

 清水の「話を聞き出す能力」や「状況分析力」にあらためて感心した。清水自身が父親にめちゃくちゃに殴られていて、”父”は彼女のなかで「世紀の大疑問」だったのだ。あの人は何なんだろう、何だったんだろう--という清水自身の強力な問題意識があって、この本が形を成すにいたったことがわかる。
 私のなかで、父も母も、20代の半ば頃からどんどん小さくなっていった。(ああきついこと言い過ぎたかな)と親に対して思うようになったとき、私はもう大人になったのだという気がした。

年の瀬(I)

 今日から冬休み。ブックマークをいくつかつくり、とりあえずアンケートをもらった人など20人ほどに送る支度。それをもって、隣駅まで郵便局と銀行めぐり。ブックマークを入れた封筒の重さをはかってもらったら、26グラムでもうちょっとのところで90円になってしまった。郵便局の通帳が最終行に近づいていたので、切り替えてもらい、10円切手を150枚購入し、銀行へ。銀行の通帳も最終行になっていたので切り替えたかったのだが、平日昼間にはめったに銀行へ行けないので、ようやくだ。銀行は年内の最終営業日だそうで、込んでいてずいぶん待った。通帳を切り替えると、未記帳だったものではやくも1ページ埋まっていた。
 お昼はうどんを食べて、古本屋をちょっとのぞいて(文庫本を2冊買い)、帰りに家賃の振り込みをして帰宅。またぼつぼつと「紙の束」からブックマークを組んでいく。
 
 古本屋で買った清水ちなみの『お父さんには言えないこと』(文春文庫、2000年)を読みはじめてみると、いつもどおりのおちゃらけた本かと思っていたのが、これがかなりシリアスな内容だった。「おじさん改造講座」と似たようなノリで、「うちのお父さんはこんなヘンなことをする」といった話なのかと思っていたら、全然違うのだった。
 清水が率いるOL委員会の会員にアンケートをとったところ、お父さんが「好き」とこたえた人と「嫌い」とこたえた人とが、ほぼ半々だったという。そして「嫌い」とこたえた娘たちの多くは、思い出したくない、書きたくない、パスさせてくれ、とほとんど筆が進まなかった。そのこたえにくいところを聞きとるために、清水宛の私信として手紙を書いてもらったり、父が嫌いだという娘たちとお茶を飲みつつ話を聞いたり、清水は苦労して「父」についての娘の語る話をひろっていく。私もなんかちょっと、むかしの話を思い出したりした。清水ちなみの父は教師だったそうだ。うちの父ちゃんと一緒である。清水によると、教師の娘が語るいくつかの共通点があるという。・・・・・わかる気がした。

印刷終了

 この数日ブックマークブックマークと追い込みをかけていた。母ちゃんの古文書探しもしなければ自分の原稿も書かなけりゃ表紙の絵もかかなけりゃ・・・と少しずつやっていたのだが、昨日念のためにと思い、いつも印刷させてもらっている実家近くの公民館へ電話すると、今日まで開館と言われ、それなら今日印刷してしまおうと昨晩は版下づくりに没頭した。昨晩は夜中すぎまで編集をつづけ、表紙の絵は今朝かいた。そして今日の夕方、公民館へ行って、印刷は終了。とりあえず今は紙の束だが、これを組んで「ブックマーク」として仕上げ、封筒に詰めて送る作業は明日からぼちぼちとやる。でも今日はさすがに眠い。
 
 職場で大迷惑していたぼけなす営業マンは、昨日上司に連れられて詫びに来た。火曜に、私が「商品説明も納期の説明も嘘ばっかりやし、ドタキャンまでするし、こんなんでは信用できん、だいたい迷惑、おたくの会社はどういう営業しとるねん」という内容のファックスを送り、上司からも電話で苦情を言ってもらった。そのへんでようやくこのぼけなす営業マンもこちらがかなり怒っていることを分かったようであった。火曜はさらに上司の名で向こうの上司宛に苦言を呈する書面も送った。これまでどういうやりとりがあったか事実経過を記し「貴社におかれましてもこのようなことでは信用を失ってしまうのではないでしょうか」と上司にぼけなす振りを報告する内容。
 年末には商品を納入してもらい、あちこち片づける予定もたてていたのに、全部パーになって、やる気レスに陥った私は、今日で「仕事納め」にした。

 火曜はスーパーサラリーマン藤原和博の『給料だけじゃわからない!』(ちくま文庫、2001年)を読む。うすい文庫本でさらさら読めた。もっとイヤ~な感じの本かと思っていたが、意外におもしろかった。「給料や権力だけが『報酬』じゃない」なんてことも書いてあるのだ。(でもこの人かなり稼いでいるからこういうこと言えるのかもなーとは思ったが。)
▽「あなたの仕事のテーマは何ですか?」
 「あなたは、どんなテーマを、仕事を通じて追っているんですか?」
 「あなたのテーマは、その仕事によって実現可能ですか?」(153ページ)
 藤原は、「機能主義からテーマ主義へ」というのが時代の流れだと言いたいようである。

実験考古学

 風がほとんどなく穏やかな日和。隣駅方面へ散歩に出る。昨晩聞いた天気予報では、今日は雪が降るかもという寒さだったはずなのだが、ぽかぽかと暖かい。
 散歩の帰り道、近所の「パンのアウトレット」店に寄って、明日の朝用にとパンを買った。するとレジでお金を払っている間に、おばちゃんが「ちょっと待って」と言いつつ、手元のパン桶にあるパンをどさどさと袋に入れていく。そして、お釣りと一緒にハイこれ、と渡された。買ったパンの4倍くらいの量である。「あのこれ?」と訊ねると、「サービスや、クリスマスプレゼント!」とのこと。散歩の行きも帰りも、どうしてか今日は大量のパンを持った人に会うなと思っていたのは、これだったのだ。合点がいった。ゴーカイなココロあたたまるサービスである。そうかそうか、みんなあんなにパンを持ってたのは、これやったんか、と同道の同居人ともども笑いがとまらない。あまりにも大量なので、その帰り道に近所のおっちゃんち(現在休業中だが、同居人が通っていた介護先)へパンをお裾分けに寄って、帰宅。

 昨晩からNHKで、NHKスペシャル「日本人はるかな旅」シリーズの再放送をしている。昨日再放送された第1部は9月に一度見たものだったが、つけたままおさらいがてら見た。見よう見ようと言っていたのに、月1度という放送頻度のおかげで第2部以降をすっかり見逃したのだ。今晩はその第2部の再放送。昨日は北方から日本へやってきた人びとについての話だったが、今日は南方から日本へやってきた人びとについての話。東日本や北日本の縄文人よりもさらに古い人骨が沖縄でみつかっており、南九州では定住生活を営んだ集落がみつかっているという。この南九州の集落は、火山の大噴火(その規模は1991年のフィリピン・ピナツボ火山噴火の15倍もの凄いものだったという)によって火山灰の下に眠っていた。この南日本に住んでいた人びとのルーツは、インドネシアのほうにあるらしい。氷河時代に今の東南アジアのあたりはもっと海面が低く、幻の大陸「スンダランド」があったというのだ。ホモサピエンスの子孫がそこから海をわたっていったという壮大な話だった。これから毎晩再放送で、第5部まである。
 第1部でも第2部でも出てきたのだが、昔むかしの道具などを作ってみたりする考古学がある。実験考古学と言うそうだ。これもめっちゃおもしろそう。

本と忘年会の日々(II)

 香りは洋梨風、だが食感は和梨というヤーリーは、中国原産の梨で、日本では岡山の一部で栽培するのみという。強い香りがして、また保存がきくそうで、買ってからすでに2週間近くたつのにみずみずしくうまかった。さらに冷凍保存しているドミニカのグリーンマウンテン・コーヒーを飲み、それから客人を駅まで送る。
 晩ご飯は、昨晩の忘年会の「残り」をもらったブリの片身を刺身で食べる。うまい。ごはんがめちゃくちゃすすむので、ごはん終了のあとに第二ラウンドを赤米酒でいくことにする。丹後で赤米栽培をしているYさんが赤米で醸した酒を送ってくださったのである。ほんのりと赤い色をした酒がおいしい。とくにくせもなく、さらっと飲める。おいしい。

 さて、このところ本買い虫がバクハツ的に増殖しており、昨日は注文していた本がまた5冊届く。昨日はその前の日に届いた第2宅老所よりあい所長の本を読む。村瀬孝生の『おしっこの放物線 老いと折り合う居場所づくり』(雲母書房、2001年)である。この本では文章だけでなく絵も村瀬孝生がかいている。この絵がいい。「Bricolage」でもこの絵は見たことがある。誰がかいてんのやろと思っていたら、この第2宅老所よりあい所長である三十男がかいていたのだ。小規模ケアのあやうさについて、ちらりと書くところ、そこがいい。

 そして今日は、客人見送りのあと、昨日届いた古本のなかから、赤瀬川原平の『科学と抒情』(新潮文庫、1992年)を読む。赤瀬川原平が尾辻克彦でもある、というのを私はこれで初めて知り、あれ、それってポッペン先生?と思いきや、それは<b>舟崎</b>克彦であった(まるでこないだの藤原和博?渡辺和博?である)。尾辻克彦は芥川賞作家なのだそうである。知らんかった。
 これはとちゅうで急に絵日記が入ったりするエッセイ。人間が「必要以上に」こだわりをもったり、気がつくとどうしても必要以上のことをしていたりする、そのココロは、「必要なことだけをする」ココロとともに、コドモ心の二大勢力である科学と抒情に似たものなのだ。
▽科学と抒情といった場合、必要というのは科学側に属し、抒情というのは必要以上側に属する。(287ページ)
 のである。
 赤瀬川原平とくると、久々に藤森照信の『タンポポ・ハウスのできるまで』(朝日文庫、2001年)に手をのばす。最初の60ページくらい読みかけていたやつである。
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第43回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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