読んだり、書いたり、編んだり 

見守りの時間

 朝から雨降りで、肌寒い。布団にまみれてごろごろしながら、山之内義一郎『森をつくった校長』(春秋社、2001年)を読む。本のタイトルはいまいちな気がするが(私がつくったんだ!私が、私が、という印象を受ける)、出版社か編集の意図なのかもしれない。学校に森をつくるというこれまで自分がやってきた実践を「ひそかに自負している」(←何度も何度も書いてある)とか「それが可能なのは、実は校内で最も経験が豊かで優れている校長である」(←自分で書くか)とかいう表現は、読んでいてかなり恥ずかしい気持ちになってしまう。・・・というような私にとっては少々「引いてしまう」ところはあるものの、教科の枠だとか学ぶべき知識の配列だとかをふっとばす力をもつ「森」の話は、なかなかおもしろい。「森」を中心にカリキュラムを組み、学んでいくなかでの子どもの様子は読んでいてそそられるものがあるし、教師もどんどん変わっていく、子どもと一緒にいろんなことに気づいていくという話は、「教師(与える・教える)→子ども(受けとる・教わる)」式の学校教育観をひっくりかえす力をもっていると思う。
 2年前に北海道大学で大きな大きなポプラ並木や大きく育った木々に囲まれたキャンパスを見た。ポプラ並木の脇には道産子もいたのだ。ああいう、ちょっとうろうろ散歩できる並木や大きな木がたくさんあるキャンパスはいいなと思った。木があそこまで大きく育つにはそれなりの時間がかかるから、待つとか見守るとか、そういう時間がかかることを織り込んだ場所でないと木も森も育たないのだろう。子どもを育てるというのも、そういう見守りの時間をかけるのだ、という気がする。
 『森をつくった校長』、ハマる人にはハマる本だろう。「総合的な学習」(来年度から導入されるという「生きる力」をつけると言ってるやつ)の”先駆的業績”として文部省も異例の注目をしたという実践だそうなので、これから全国のあちこちの学校に森ができたりして。それが、でっかい木を運んできてざくざく植えるというような実践でないように。

疑問点

 『発達とはなにか』を読んでいて2カ所、ハテと思い「?」を書き込む。  
 ハックルベリー・フィンやピーター・パンは「お母さん」「天国」「家庭」と重なるような「子どもイメージ」の例だろうか?私には逆のように思える。それとも、『ハックルベリー・フィンの冒険』や『ピーター・パン』に出てくる、「ふつうの子どもたち」のことが言いたかったのだろうか。ハテ?
 もう1カ所は「行動主義(behaviorism)」の「行動」についての説明のところ。(古い)心理学が「行動」をカウントしたり観察したりする対象とし、「思考」や「感情」を研究対象からはずしてきたのは、「行動」が目に見えるもので、「思考」や「感情」がそうではないから、だったと思うが、こんな記述があるのだ。
▽「行動」とは、考えていること、感じていることのように、個人の心の中にあって、他人からは観察できないことを指している。(204~205ページ)
 ここ1行抜けたんかなと謎でしかたない。「行動」とは・・・観察できないことを[指すのではなくて、観察できることを]指している、ではないだろうか。ハテ?
 
 永野は、原ひろ子の「ヘヤー・インディアン」の調査研究にも大きな刺激を受けているらしい。この本は、高校の頃か、大学に入ってすぐくらいの頃に図書館で借りて読んだ気がするが、この本で永野があれこれ引いているヘヤーインディアンの子どもたちの話はほとんど思い出せない。もう一度読んでみたい。ヘヤー・インディアンの社会では、「教える」「教えられる」概念がない(だから、それに相当する言葉「だれだれに教えてもらう」とか「だれだれから習う」もない)という。
 人がやっているのをよく見て、ためしてみて、「自分でおぼえる」というのがヘヤー・インディアンの世界では当たり前のことで、永野はこの話を、「教える」という行為を前提としない「学ぶ」行為もあるのだということの例として書いている。
 こういう「あ、そういうやり方(考え方)もあり得るんやな」と思える話がいくつも出てきて、そこがおもしろい。

 読み終わったら、空腹感。おなかへったな。

新しい心理学

 朝から洗濯。昼ご飯は葱と卵のチャーハン。その合間に永野重史の『発達とはなにか』を読む。おもしろくて、そのまま読み終わる。『子どもの学力とは何か』をひとまわり壮大にして、くわしく書き込んだ本、という感じ。扱っているエピソードのいくつかは、『子どもの学力とは何か』と重なっているのだが、いっそう丁寧に書き込んである。大ざっぱにまとめると、永野は「これまでの発達心理学はもうあかんやろ」「こういう考え方で発達とか心とか考えていかなあかんのちゃうか」と書きたいために、「古い発達心理学」のどこがどうあかんのかをしつこいくらい説明し、こういう考え方で「人間」のことを考えていくと、人間がまるで「人でなし」になってしまうとあれこれ書いている。”科学的”というのは眉唾なことが少なからずあるからよくよく注意せえとも書いている。永野がここまで批判的説明を書き続けるのは、「古い発達心理学」ではもうあきませんと分かってきているのに、教育(とくに学校教育)の場面や育児にまつわる「神話」には、こういう古い考え方が「はびこっている」と言っていいほど根強くあるからだろう。新しければいいというのではないが、教育政策なんかに「新しい研究成果」なんてぜんぜん反映されていないらしい(としか思えない)。
 私は「心理学」というのをかなり毛嫌いしているが、こうやって丁寧に説明してもらうと、私が「あーきもちわる」と思っていたのは、心理学のなかでも古いやつや、行動主義的なモデルでとらえようとしてきたやつらしい、というのが分かった。私が嫌いな心理学は、「個人」のことばっかりぐちゃぐちゃ言って、「できへんのはお前がアホやからじゃ」とか「親が悪いんじゃ」とばかりに、イケナイ子どもやイケナイ親を責め立ててみたり、イケナイ子どもを何とか「矯正」しようとしたりする。「個人は真空のなかで生きている」かのごとく、生活場面とは縁のないようなことを憶えさえたりする。 新しい発達心理学はこういうのと比べるとずっとおもしろそうである。

発達とはなにか

 今日の入荷本。永野重史の『発達とはなにか』(東京大学出版会、2001年)。あと『ぎりぎり合格への論文マニュアル』と一緒に注文した渋谷恵宜の『卒論応援団』(クラブハウス、2000年)。帰ってからぱらぱらと眺めてみた『卒論応援団』は、私にはあまりおもしろくなかった(じっくり読もうという気にはならなかった)が、まあこれも業務用。他の人からも聞いていた話だが、この本は「使うのが1回こっきりで、あとは本棚のコヤシになるようなものをわざわざ買うのは、ムダな出費」と書き、「研究の役に立つのは”書籍”ではなくて”文献”、つまりそこにかかれている中身だけなのですから、図書館や研究室にあるものから、必要な分だけコピーすればいい」と続ける。なんとか「1冊の本の半分以上コピーするのは著作権法に触れる」ということは書いてあるが・・・
 で、『卒論応援団』はおいといて、『発達とはなにか』のほうは、『子どもの学力とは何か』が品切れだったので、近そうな本を注文してみたやつで、読みはじめてみると、『子どもの学力とは何か』をもっと丁寧にきっちり書いた本らしい。あーそういう考え方はおもしろいなーと思える本。これは「人間の発達」というシリーズの一冊で、帯によるとこの本でもってシリーズの全12巻が完結。このシリーズの別の本(東 洋『日本のしつけと教育』)は、だいぶ前に買って読んだので、「まえがき」に書いてあったように、迷い挫折したあげくにまとめられた、時間をかけて書かれた本なのだろうと思った。
 いま読みかけの久田邦明『教える思想』で言及されていた「子育ての書」のことが、この本でもふれられていて、次は東洋文庫に入ってるというこの「子育ての書」を読みたいなと思っている。

高校の図書室

 今日は仕事で近所のS高校へ行くことになった。日本の高校を視察するという研修団の付き添い。校長先生の話を聞き、授業を見学し、校内見学。図書室が広くて明るかった!うちから歩いていける市立図書館のH分室の10倍くらいあるんちゃうか!という広さであった。私が通った高校の図書室より広くて明るい!(今は校舎が建てかわったので、明るくて広い図書室になってるやろか。)本棚をじろじろ見てまわる時間がなかったのが残念だった。なにをやってるのか分からなかったが、図書室で授業やってるクラスもあった。
 昼でこの付き添い仕事がおわり、午後は誘導の仕事、そのあと人の原稿の校正。人の書いた文章で笑うのはアレやが、「インパクトに衝撃を受けた」。これは実にインパクトのあるフレーズであった。手近の英和辞典でimpactを引いたがな。
 

主婦論争

 今日はもう一冊入荷。上野千鶴子編『主婦論争を読む I 全記録』(勁草書房、1982年)である。この本じたいがだいぶ「古いな」と思わせる年代のものになっているが、編集された論文類はもっと古くて、1950年代のものである。1955年、『婦人公論』誌上で「主婦という第二職業論」(石垣綾子)から始まった第一次主婦論争のあれこれを集めてある。収録されているあれこれを書いた人がほとんど明治生まれ、若い人でも大正生まれで、ほとんどうちのばあちゃんの世代(かそれより上)。古さを強調しているようだが、内容はこれがあまり古びていない(時代がかった用語は出てくるが)。1982年に解説を書いている上野千鶴子も「主婦を取り巻く状況が根本的に変化していない」と記している。上野の解説と、数篇を読んでみた。さいきんでこそ「主夫」という(まるで「主婦」と対になるような)言葉もあるものの、「主婦」というのは、なんかもっともっとフカーイ言葉だろうな、と。
 この本、「I」というだけあって、第二次主婦論争、第三次主婦論争をまとめた『主婦論争を読む II 』(勁草書房)もあるのだが、いけないことにこれが品切れなのである。出版社にも事情があるのだとは思うが、「上、下」とか「I,II」という本は、ちゃんと全部そろえておいてほしい。第一次主婦論争を読み終えて、いざ!という読者はどうするのじゃ。
 図書館で借りてきた長尾真『「わかる」とは何か』(岩波新書、2001年)は、最初を少し読んでみる。「知識」とか「わかる」ということの話が入っているようで、こないだの「学力観」の話のツイデになりそうな本だ。図書館でこの名前をみて、どっかで見たことあるなーだれやったっけなーと思っていたら、京大の学長だった。

業務用

 立ち読みですませようと思っていたのに、本屋でみつけられなかったので(出てすぐだからか)、注文して買ってしまった。そして1時間ほどで読んでしまった。山内志朗の『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書、2001年)。「なにがやりたいかわかりません」とか「なにかないですか」と言う人が複数いるので、「まあこれでも読んでおけば」という本として使おうかと思っていたのだが、これを読んで「ぎりぎり合格」になるのかどうかは・・・・・。文章を書く上での最低限のマナーという意味では、句読点のことからはじまって、偏執者もとい編集者的なアドバイスがかなりたくさん含まれている。それと、「乱読せえ」としつこく繰り返してある。ところどころに【教訓】が挟まれていて、そのひとつはこんなのだ。
▽新聞・雑誌・テレビでよく取り上げられる問題を、論文の〈主題〉にしてはならない。十年、いや二十年早い。(78ページ)
 もうひとつしつこく書いてあるのが「論文を書くとは、本を読んで、本の内容をまとめることではない」(41ページ)ということである。帯に書いてあるほど「この本を読みさえすれば」という感じはしなかったけど、これからの時期売れるのかもしれない。
 文体は「棚から哲学」(土屋賢二)風。

読みかけ

 とちゅうまで読みかけていた久田邦明の『教える思想』(現代書館)をまた読みすすむ。今日読んだところは「戦後教育論の諸相」という、小篇を50ほど集めたパートで、あとがきによると雑誌に連載していたものらしい。毎月これを1篇ずつ読むのはおもしろいかなと思ったけど、まとめて50篇も読むと、途中から文体のクセが気になりだした。それぞれの小篇は3~4ページの短いもので、ひとつひとつを別々に書いたのだから、そのひとつずつの「おさまり」というか「まとまり」みたいなのをつけてあるのだろうな、というのは分かるものの、「しかし、それにしても」と、ほとんどの小篇で合いの手が入ると、ちょっと転がしてけなす(?)のがコツなのかなという印象をうけた。で、この合いの手が気になって、このパートを読んだところでひと休み。
 ここでとりあげられている戦後教育論は、かなり幅広い。メジャーどこでいくと、トットちゃん(黒柳徹子)、気くばりのすすめ(鈴木健二)、ローラ(大草原の小さな家)、無着成恭、椎名誠・・・子安美知子も海老坂武も出口なおも入っている。伊藤比呂美、橋本治、中沢新一、パウロ・フレイレ、宮迫千鶴、田中美津なども出てくる。あと波多野完治やら大田尭など教育学者もとりあげられている。こういう人たちの書いたものや言ったことなどを俎上にあげて、人物の略歴や主義主張の要旨を解説、しばらくすると「しかし、それにしても」ときて、こういうとこにも目配りほしかったなーとかこういうとこが抜けてんのちゃうかというような、それぞれの人物(や主義主張)の弱点らしきところのチェックが入って締め。かける50。
 これが載っていた雑誌は、季刊→隔月刊→月刊となって、そこでの連載だったそうなので、50余篇というのは8年分! そら、いっぺんに読んだらくたびれるわな
 
 というところで、これも途中まで読んでいた上野千鶴子編の『構築主義とは何か』(勁草書房)を読んでみる。構築主義というのは、「構成主義的な知識観」に関係がある(たぶん)。「臨床のナラティブ」という章はおもしろかったが、「文学とジェンダー分析」で今日は挫折。ここまで読んだところで、ジェンダーという概念が、構築主義がどういうことなのか、を説明するときの格好のネタだ、というのは分かった。

見えないものと見えるもの(II)

 知識はベンキョウする子どもの外側にあって、それを「授けられたり」「頭にたたきこんだり」するもの、という学力観でいくと、多くの「正答」をゲットできることが、「頭いい~」ということになる。どんな考え方の筋道でその答えにたどりついたかは、「見えない」から問題にしない。認知主義の見方では、どっちかというと「どんな考え方の筋道で」の方に注目する。知識はどこかに「ある」もの、先生から「渡される」ものではなくて、誰かとしゃべっていて分かること、気づくもの、とでも言える。
 もうひとつ、「状況主義の学力観」というのが出てくる。永野の言葉でいえば「仲間の中で育つ学力」とか「まわりにいる人々もまた知恵の一部であり、知恵の源泉だ」ということである。行動主義でみても、認知主義でみても、「学習」は個人のこととして考えられているのだが、人間はひとりで生きているのではないし、いっしょにいる人、いっしょに暮らしている人たちのことを考えながら、自分の位置を分かっていく。その中で学んでいくのだ、という。赤ん坊が言葉をおぼえていくときには、「ともに生活するという条件のもとで、親やきょうだいの生活に参加するという形で、恐ろしいスピードで言葉やしきたりを学んでいく」のだ。
 主観的な(まわりからは見えない)体験や感情、人とのつながりなどを含めたものを「学力」として考えていかないと、「新しい学力観」とは言えないやろな、というところでこの本は終わっている。おもしろかった。

見えないものと見えるもの(I)

 昨日の『子どもの学力とは何か』はおもしろかった。さいごの方では、いろいろな「学力観」の話が出てくる。学力が高いとか低いとか、学力をつけるとか、学力が落ちたとか、そういう風に語られる「学力」は、大雑把に言って、「行動主義の見方からの学力観」である。行動主義というのは、「第三者によって観察できるものごとだけを研究の対象にしようという主張」のことで、物理学のような自然科学をお手本にした考え方である。そのせいで、ほかの人が端から見て分からないことは研究対象から外されていき-「思考」「感情」「記憶」のようなものは扱わなくなって、皮膚を流れる電流の量なら測れるから、みたいに、そういうのを対象にして、動物に芸を仕込むような実験をしながら、学習心理学というのができた、という。わかりやすい例は、「こういうモノを見せたら(刺激)」、「こう答えた(反応)」というような、刺激-反応のチェックである。この「学習心理学」で言う「学習」は「刺激に正しく反応すること」で、「正しい反応」や「正しい答え」を目指す教育の成果として、「学力」が高いとか低いとか言われるのである。
 永野はこういう行動主義の見方からの学力観ではなくて、「認知主義の見方からの学力観」というのと「状況主義的な学力観」というのをもってくる。認知主義の見方から考えるとこういうふうだ。
▽そこでは、学習者は能動的に知識を生産する存在である。知識が学ぶべきものとして学習者の外にあるのではなく、学習者が知識を構成するのだという側面をとらえれば、それは構成主義の立場に立って学力を考えることになる。子どもの作り出した知識は、「正答」と違っていても、無価値だなどとはとてもいえない。そういう世界の話になる。(76ページ)
 

三角形に中心はない(II)

 水槽の排水栓を「うっかり」抜いておいて、1時間いくらでそこに水を入れたら、何時間後に一杯になるか、などという、学校の外では「水を水槽にためるなら、忘れずちゃんと栓をすること」として身につけるようなことを、「うっかり」教えた挙げ句、「仕事算」(ツルカメ算のようなもの)を用いて解く、という「決められた」解き方で終わらせることは、よほど「学校らしくない」と永野は言うのである。
 「穴のあいた水槽に水をためる」という問題を「仕事算」で解くのは間違っている。これは「話はそれほど簡単ではない」という問題なのだ。こんな話を読んでいると、私は明日にもバケツに穴をあけて水を注ぎたくなる(「話はそれほど簡単ではない」という理屈はなんとなく分かるが)。永野は、「穴のあいたバケツに水をためる」ような「よけいなこと」をやるのが今の時代の学校にはむしろ必要やろうな、とたぶん言っているのだ。
 異文化教育としての教科教育という話もおもしろかった。そのひとつの例が「三角形に中心はない」。異文化教育というのはヨソの国や文化のことを知ること、と思われているんだろうが、永野の言う異文化教育の発想はもっとあっていいと思う。 

三角形に中心はない(I)

 そういえば三角形に中心はないな、そうやなー、そうやったなー。と、思い当たる。幾何学的に考えた場合、である。長方形や円や楕円や正方形や・・・そういうものには中心がある。三角形には重心とか垂心とか傍心とか「五心」というのがあるが、中心はない。
 「りんご」「かんぱん」「りんご」「かんぱん」「pin」と口に出してみると、なるほど、「りんご」と言うときの「ん」と、「かんぱん」と言うときの「ん」は違うし、「りんご」の「ん」のように「pin」を読むとおもちゃのペンギンのようになる。
 「りんご」「かんぱん」と言いながら、三角形に中心はない、そうやった、と思いながら読んでしまった。永野重史『子どもの学力とは何か』はもう一度読みたくなる本だった。品切れのようで手許に置いておくのがむずかしい。でも手許に置いて、ときどき読みたい、と思う本。
 この本のことは、何かで読んだような気がする-誰かのホームページにあった本の話だったか、どうもよく思い出せないが、この本に興味を持ったのは、そのどこだかに引用されていたこういう話からだった。
▽私が理想とする学校は、昔の子どもたちが学校の外で身につけたようなことを、今さら本気になってやろうとするところではなくて、実生活では放っておけば考えないような、よけいなことを考えさせるところなのである。(46ページ)
 
 
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乱読ぴょん

Author:乱読ぴょん
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本ネタのミニコミ誌『ブックマーク』を編集発行しています(1990年9月創刊~ 昔は隔月発行でしたが、今は年2回発行で、現在87号)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2014年4月(313号)より「本の道草」を連載中(現在、第39回)。

月刊誌『ヒューマンライツ』で、2004年3月(192号)より2014年3月(312号)まで、本ネタ「頭のフタを開けたりしめたり」を連載(全119回、連載終了)。

『くらしと教育をつなぐWe』誌で、1999年4月(71号)より2014年2月(188号)まで、本ネタ「乱読大魔王日記」を連載(全118回、連載終了)。

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